吉野朔実(よしの さくみ 1959年- )は大阪府出身の漫画家である。
父の転勤で、熊本、東京などを転々とする。1980年に「ウツよりソウがよろしいの!」(ぶ~け)でデビュー。ぶ~け誌を中心に作品を発表していたが、集英社との専属契約が切れたため、小学館の雑誌に活動の場を移している。 『瞳子』で青年誌にも進出した。
1985年から『ぶ縲怩ッ』に連載された『少年は荒野をめざす』と、引き続いて1988年より『ぶ縲怩ッ』に連載された『ジュリエットの卵』が代表作。心理学を題材としたり、青年期のアイデンティティ・クライシスを描くために、直接的・間接的に双子を扱った作品が多い。
月下の一群
吉野 作造(よしのさくぞう 1878年1月29日 - 1933年3月18日)は、大正期を中心に活躍した政治学者、思想家。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者である。
1878年(明治11年)、宮城県志田郡大柿村(現・大崎市)に綿屋を営む父・年蔵 母・こうの長男として生まれた。。宮城県第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)から旧制第二高等学校に進学。二高時代にキリスト教の洗礼を受ける。1904年東京帝国大学法科大学政治学科卒業(銀時計受領)、同大学院進学、同大工科大学講師就任。1906年中国に渡り、袁世凱の長男の家庭教師等を務めた。
1909年帰国し東大法科大学助教授就任、1914年同政治史講座教授、1915年法学博士。この間に、3年間の欧米留学をし、帰国後に滝田樗陰の依頼で『中央公論』に政治評論を発表する。1916年(大正5年)、同誌に代表作となった評論「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表。大正デモクラシーの代表的な論客となる。
吉野源三郎(よしの げんざぶろう 1899年4月9日 - 1981年5月23日)は、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家。昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また「世界」初代編集長としても名高い。岩波少年文庫の創設にも尽力した。明治大学教授、岩波書店常務取締役、日本ジャーナリスト会議初代議長、沖縄資料センター世話人などの要職を歴任。
1899年東京都出身。父は株式取引所仲買人であった。1912年、東京高等師範付属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学し、1916年に卒業。2年後の1918年、旧制第一高等学校に入学。1922年、2留のすえ第一高等学校を卒業し、東京帝国大学経済学部に入学。思索の中で哲学への思いが高じて文学部哲学科に転部した。
吉野 きみか(よしの きみか, 本名:吉野公佳=読み同じ, 1975年9月5日 - )は神奈川県小田原市出身の女優。
1994年、東洋紡績 東洋紡水着キャンペーンガールとして芸能界にデビュー。その後映画『ACRI』にて女優活動開始。映画『エコエコアザラク』(主演)『高校教師』テレビ「スーパー競馬」(アシスタント)などに出演した。
芸名は当初は本名の「吉野公佳」(全て漢字)だったが、公佳の部分をその後一部平仮名の「きみ佳」とした時期があった。現在はそれを全て平仮名の「きみか」としている。
クリスマスキス~イブに逢いましょう(1995年、テレビ東京)
スカイハイ (漫画) スカイハイ(2003年、テレビ朝日)
吉野 伊佐男(よしの いさお)は、吉本興業の代表取締役社長。大阪府出身。
1965年関西大学商学部卒業、吉本興業入社。
ザ・ぼんちのマネージャーなどを務める。
広報室長、常務などを歴任。
2004年7月吉本興業副社長。
2005年1月吉本興業社長。
吉本興業 よしのいさお
日本の実業家 よしのいさお
大阪府出身の人物 よしのいさお
吉永 みち子(よしなが みちこ、1950年3月12日 - )は、埼玉県出身のノンフィクション作家。
埼玉県立浦和第一女子高等学校、東京外国語大学インドネシア語学科卒業後、競馬専門紙「勝馬」で日本初の女性競馬新聞記者となる。
夕刊紙「日刊ゲンダイ」の記者を経て、1977年に騎手(当時)の吉永正人(2006年死去)と結婚(後に離婚)。なお、吉永護騎手は吉永正人の前妻(故人)との間に生まれた子供であり、吉永みち子の実子ではない。
1983年雑誌「優駿」誌上の東京優駿 日本ダービー50周年企画で募集された随筆 エッセイコンテストで最優秀作を受賞。「気がつけば騎手の女房」のベースとなる作品であった。
吉永 正人(よしなが まさと、1941年10月18日 - 2006年9月11日)は鹿児島県出身の元騎手・調教師。作家の吉永みち子は前夫人。実弟の吉永良人は元騎手、長男の吉永護も騎手。
豪快なレース振りからか、寺山修司のエッセイに頻出した。寺山はミスターシービーの優勝した皐月賞後に死去しており、吉永の絶頂時は見られなかったことになる(しかし寺山は同馬の三冠を予言し、その予言通りとなった)。
1957年(昭和32年)騎手候補となる。
1961年(昭和36年)に松山吉三郎厩舎(東京競馬場 東京-美浦トレーニングセンター 美浦・松山康久調教師の父)に所属し、3月11日ダイサンハイツに初騎乗し3着。初勝利は11月25日第10レースでのエビスクラウン。
吉永 小百合(よしなが さゆり、本名:岡田小百合(おかだ さゆり)、1945年3月13日 - )は、日本の女優である。東京都渋谷区代々木西原町出身(当時の町名)。そのファンは「サユリスト」と呼ばれる。また、作曲家の吉田正の門下生として数多くのレコードを出している。
日活の看板女優として、男優・浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。従来の男性アクション映画路線がマンネリ化していた当時の日活にとって、吉永・浜田コンビの純愛&青春映画路線は新たな日活映画ファンの獲得と支持を集めることとなった。特に浦山桐郎監督の『キューポラのある街』、ベストセラーを映画化した『愛と死をみつめて』などは話題となった。