高山 郁夫(たかやま いくお、1962年9月8日 - )は、秋田県大館市出身のプロ野球選手(投手)。
秋田商では3年春と夏の甲子園に出場、最速149キロの速球を投げ、逸材と期待され、1980年、ドラフト会議 ドラフト1位で北海道日本ハムファイターズ 日本ハムファイターズに指名を受けたが入団を拒否、社会人野球のプリンスホテル硬式野球部 プリンスホテルに進んだ。1984年、ドラフト会議 ドラフト3位で西武ライオンズから指名を受けると今度は入団、主にローテーションの谷間を埋めた。1989年には投手事情の苦しさから先発ローテの一角を任され自身最高の成績を挙げるも、西武はこの年優勝を逃してしまう。
高柳 秀樹(たかやなぎ ひでき、1957年3月1日 - )は、福岡ソフトバンクホークス 南海ホークス・福岡ダイエーホークスに所属したプロ野球選手。1991年限りで現役を引退、福岡ダイエーホークス二軍打撃コーチ、千葉ロッテマリーンズコーチを経て現在は中日ドラゴンズ打撃コーチ。右投右打。
1978年、福岡ソフトバンクホークス 南海ホークスのドラフト1位として国士舘大学から入団、翌1979年シーズンには一軍出場、1983年には一軍に定着し初本塁打も放った。
1984年に読売ジャイアンツ 巨人に移籍した、「左殺し」の異名を持つ山本雅夫に代わる右の代打として期待された。高柳はそれに応え、対左投手専門ではあるものの、一軍の中軸打者としての地歩を固めた。1985年から1987年には、左投手を苦手としていた門田博光に代わって4番をつとめたこともあった。南海最末期の苦しいチームを支えた選手のひとりである。
高柳 敏夫(たかやなぎ としお、1920年2月20日 - 2006年9月5日)は棋士 (将棋) 将棋棋士である。名誉九段。棋士番号31。東京都出身。師匠は金易次郎名誉九段。中原誠をはじめ、多数の棋士を育てたことで知られる。
日本将棋連盟副会長を通算2期、常務理事を1期務めた。
順位戦A級に4期在籍したほどの実力者でありながら、1963年に43歳の若さで現役引退する。
東京都目黒区の病院で呼吸不全 急性呼吸不全のため死去。
芹沢博文
中原誠
田中寅彦
清水市代
蛸島彰子
1940年 初段
1942年 四段
1944年 五段
1947年 六段
1948年 七段
1950年 八段
高柳重信(たかやなぎ・じゅうしん、1923年1月9日 - 1983年7月8日)は俳人。
東京小石川生れ。本名は高柳重信(しげのぶ)、俳人としては「じゅうしん」を自称した。
早稲田大学専門部法科卒業。
学生時代に「早大俳句研究会」に参加、富沢赤黄男(かきお)に師事した。
1958年(昭和33年)に赤黄男、三橋鷹女、高屋窓秋、永田耕衣を擁して「俳句評論」を創刊した。
3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱、実践し金子兜太とともに「前衛俳句」の旗手となった。
後年、山川蝉夫という別人格を登場させ発想と同時に書ききるという、一行の俳句形式も行った。
俳誌「俳句評論」代表。総合誌「俳句研究」(俳句研究新社)編集長を歴任した。
高杢 禎彦(たかもく よしひこ、1962年9月9日 - )は、福岡県久留米市出身のタレント・俳優・元歌手。通称はモク。また一部女性ファンからは、ヒゲと呼ばれていた。柳川高等学校卒業。
理容師 理容室を自営していた夫婦の元に出生、兄弟は他に姉がひとりいた。藤井フミヤと藤井尚之の幼なじみ。藤井フミヤらと組んでいたバンド「チェッカーズ」ではサイドボーカルを担当した。作詞やメインボーカルを担当した曲もある。
バンド解散後、映画で凶悪犯の役にも挑戦。2003年には作家活動を開始し、自らが悪性腫瘍 がんを患っていたことや、チェッカーズ時代の暴露話を書いた『チェッカーズ』を発表。その内容について、ファン以外からも注目を浴びた。翌年に随筆 エッセイ第2作『ガンが教えてくれた大切なもの』を発表した。
高村 倉太郎(たかむら くらたろう、1921年 - 2005年11月21日)は、日本の映画監督。日本映画撮影監督協会名誉会長。
1939年、松竹大船撮影所文化映画部に撮影助手として入所。1948年、「恋愛三羽烏」(中村登監督)の撮影監督に抜擢される。1954年、日活に移籍。以後も「俺は待ってるぜ」、「幕末太陽傳」、「ギターを持った渡り鳥」、「一杯のかけそば」など娯楽作品を中心に計約140本撮影。日本映画黄金期を支えた。
日活芸術学院の学院長を務めるなど後進の指導にも尽くした。
2005年11月21日、慢性心不全のため死去。享年84。
恋愛三羽烏(1948年)
真実一路(1954年)
俺は待ってるぜ(1957年)
高村 薫(たかむら かおる、女性、1953年2月6日 - )は、日本の作家・小説家。
本名は林みどり。大阪府大阪市東住吉区生まれ。大阪府吹田市在住。
:註:現在、高村の「高」は、「髙」(はしご高)に統一されている。
硬質で骨太な文体、細部まで書き込まれた描写、長編における壮大な設定には定評がある。デビュー作『黄金を抱いて飛べ』から、サスペンス要素を盛り込んだ作品を書き続けていた。2002年に発表された『晴子情歌』以降は、今まで書ききれなかった人間の心理を、独特の文体で描写した作品を書く。
1971年 - 同志社高等学校卒業。
1975年 - 国際基督教大学 (ICU) 教養学部卒業(専攻はフランス文学)。卒業後は外資系商社勤務。