杉山 元治郎(すぎやま もとじろう、男性、1885年11月18日 - 1964年10月11日)は、大正・昭和期の政治家・農民運動家。
大阪府泉南郡北中通村(現・泉佐野市)出身。大阪府立天王寺農学校在学中にキリスト教徒となる。卒業後和歌山県庁に入庁し、県農会の書記を務める。また同地の日本基督教会に出入りするようになる。同教会の青年たちが非戦論の演説を行い県会で問題となったあおりを受け、杉山は県庁辞職を余儀なくされ、その後東北学院大学 東北学院神学部に入学する。
1909年卒業後、仙台市の東六番丁教会の牧師に招聘される。さらに福島県小高町の小高教会に移り、ここで月給1円50銭で牧師を務める傍ら、種苗・農機具・肥料の取次販売を行ったり、近在の村々を巡回して土壌学や肥料学の出張講義を行ったりしていた。やがて社会運動に挺身するべく大阪に戻り、沖野岩三郎の仲介で賀川豊彦に会い、そこで農民運動への協力を求められる。以後、昼間は大阪市の弘済会育児部で働き、夜は大原社会問題研究所に通いながら、運動立ち上げの準備を進めていた。
杉山 春樹(すぎやま はるき、1980年5月7日 - )は、プロ野球・パシフィックリーグ、西武ライオンズの投手で、背番号は62番。
身長・体重 1m88cm、95kg
投打 右/右
出身地 茨城県北相馬郡利根町
血液型 A型
球歴・入団経緯 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校 竜ヶ崎一高 - 専修大学 専大 - 西武ライオンズ
プロ入り年度・ドラフト順位 2003年(ドラフト会議 ドラフト8巡目)
出場なし
18試合 0勝1敗0S 17奪三振 防御率6.83
日本の野球選手 すきやま はるき
西武ライオンズ及びその前身球団の選手 すきやま はるき
1980年生 すきやま はるき
杉山 春樹(すぎやま はるき、1980年5月7日 - )は、プロ野球・パシフィックリーグ、西武ライオンズの投手で、背番号は62番。
身長・体重 1m88cm、95kg
投打 右/右
出身地 茨城県北相馬郡利根町
血液型 A型
球歴・入団経緯 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校 竜ヶ崎一高 - 専修大学 専大 - 西武ライオンズ
プロ入り年度・ドラフト順位 2003年(ドラフト会議 ドラフト8巡目)
出場なし
18試合 0勝1敗0S 17奪三振 防御率6.83
日本の野球選手 すきやま はるき
西武ライオンズ及びその前身球団の選手 すきやま はるき
1980年生 すきやま はるき
杉山 直久(すぎやま なおひさ、1980年12月25日 - )は、京都府舞鶴市出身のプロ野球・阪神タイガースの投手である。背番号は18番。右投右打。
京都府立東舞鶴高等学校 東舞鶴高から龍谷大学に進学後、2年春に京都産業大学戦でノーヒットノーランを達成し、秋の明治神宮野球大会 明治神宮大会でベスト4進出。松坂世代の逸材の一人として、一躍プロから注目を浴びる。3年秋にはMVPに輝く。植大輔(元中日ドラゴンズ 中日)とともに龍谷大学のダブルエースとして、大学通算15勝4敗の成績を残す。京産大の光原逸裕(現オリックス・バファローズ オリックス)とは毎年のように優勝を争ったライバルだった。
杉山 登志(すぎやま とし、1936年8月7日 - 1973年12月12日(12月13日と書かれる場合が多いが、誤り))は、昭和時代 昭和期に活躍した日本のCMディレクター。東京都出身。本名は、杉山 登志雄(すぎやま としお)。
テレビ草創期から数多くのテレビCMを製作し、国内外の賞を数多く受賞。天才の名を欲しいままにしたが、自らのキャリアの絶頂にあった1973年12月12日、東京都港区 (東京都) 港区赤坂 (東京都) 赤坂の自宅マンションで首を吊って自殺。享年37歳。
1936年(昭和11年)5人兄弟の次男として韓国の釜山に生まれる。
1952年(昭和27年)大成高校に進学。
1955年(昭和30年)日本大学芸術学部美術学科に入学。
杉山とく子(すぎやま とくこ、1926年8月16日 - )は、日本の女優。東京都出身。
長く中堅女優として活躍。映画化される前にテレビドラマとして放送された「男はつらいよ」に、寅次郎のおばちゃん役で出演。超人気映画シリーズとなった後も、毎回違う役柄でコンスタントに出演し、人気が出た。近年では、超人気ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」で、岡倉大吉の長女が嫁いだ野田家の姑役を好演した(第7シリーズで大阪の老人ホームに入ったという設定のため、2006年放映の第8シリーズには未登場)。
男はつらいよ 望郷編(1970年)
男はつらいよ 寅次郎わが道を行く(1978年)
男はつらいよ 寅次郎かもめ歌(1980年)
杉山清次(すぎやませいじ、1947年4月17日 - )は、岡山県出身のみずほ銀行頭取。
日本勧業銀行最後の入行組で、入行した年の10月に第一勧業銀行となった。
入行4年目に勤務した新宿支店(現・みずほ銀行新宿中央支店)で、自ら開拓した融資先が倒産の憂き目に遭い、その債権を自力で回収したというエピソードをもつ。
その後、みずほフィナンシャルグループ副社長に就任したが、当時のみずほ銀行頭取が病気辞任を申し出たため、急遽みずほ銀行頭取に就任することとなった。前任者が第一銀行出身者だったため、旧第一勧業時代から続く「たすきがけ人事」と当時はかなり批判されたが、彼の後継者からは合併後の世代となるため、それも解消されることになった。
杉山昌善は日本の小説家、SF作家。昭和55年、星新一ショートショート・コンテスト(現在の小説現代ショートショート・コンテスト)に「食料危機」で入選。星新一から絶賛を受ける。「ショートショートランド」などで活躍。
「食料危機」 ショートショートの広場2(旧版)S55.04.24
「ハンデキャップ」ショートショートランド S58.11.15
日本の小説家 すきやままさよし
SF作家 すきやままさよし
杉山 茂丸(すぎやま しげまる、1864年8月15日 - 1935年7月19日)は、明治から大正、昭和初期にかけて、それぞれの時代の政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行った人物である。自らは官職も議席も持たない在野の浪人であったが、山県有朋、松方正義、井上馨、桂太郎、児玉源太郎、後藤新平、寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼ばれた。長男は作家の夢野久作。孫はインド緑化の父と言われる杉山龍丸。号は其日庵。戒名は其日庵隠忠大観居士。
福岡藩士杉山三郎平の長男として、現在の福岡市天神あたりで出生。明治3(1870)年ごろ、父の帰農に従って遠賀川河口の芦屋村に移住、その後筑紫郡山家や朝倉郡夜須村などを転住。民約論や仏蘭西革命史などを読んで政治に目覚め、明治13(1880)年、諸国巡遊に旅立ち、初めて東京へ。この間、山岡鉄舟の門人となり、また後藤象二郎や大井憲太郎などと知遇を得た。滞京一年半で帰郷するが、明治17(1884)年、熊本の佐々友房から旅費を借りて上京、伊藤博文を悪政の根源、藩閥の巨魁と目してその暗殺を企て、山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、逆に説伏されて断念した。(杉山茂丸『其日庵叢書第一編』『俗戦国策』『百魔続編』、室井広一『杉山茂丸論ノート』など)