下條 正巳(しもじょう まさみ、1915年8月26日 - 2004年7月25日)は、日本の俳優。釜山生まれ、長崎県・壱岐出身。釜山第一商業学校卒業。
映画「男はつらいよ」シリーズで「おいちゃん」こと車竜造役(3代目)で知られる。シリーズ第14作「寅次郎子守唄」より第48作「寅次郎紅の花」まで出演。
俳優の下條アトムは長男である。
1936年(昭和11年) 新協劇団に入団。「天祐丸」で初舞台。
1951年(昭和26年) 劇団民藝に入団。
1971年(昭和46年) 民藝内部で対立が起こり、佐野浅夫、鈴木瑞穂らと退団。
1974年(昭和49年) 「寅次郎子守唄」出演
1995年(平成7年) 「寅次郎紅の花」出演
2004年(平成16年) 死去。
『円盤戦争バンキッド』
下條 信輔(しもじょう しんすけ、1955年4月1日 - )は東京都生まれの認知心理学者。カリフォルニア工科大学教授。実験心理学的な手法によって人間の認知過程(特に視覚)についての研究を行っている。
1978年 東京大学文学部心理学科卒業
1980年 東京大学大学院文学研究科修士課程修了
1985年 マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了Ph.D(実験心理学)
1989年 東京大学教養学部助教授
1997年 カリフォルニア工科大学準教授ツꀀ(生物学・計算神経システム)
1998年 同教授
1991年 ベスト大会発表賞(日本認知科学会)
1999年 サントリー出版賞
2003年 時実利彦記念賞
下條信輔 (1988) 『まなざしの誕生』 新曜社
下條 アトム(しもじょう あとむ、本名:同じ、1946年11月26日 - )は、東京都出身の俳優、声優(ナレーター)。同じく俳優の下條正巳を父に、元女優の田上嘉子を母に持つ。
アトムという名前は本名であり、父・正巳が第二次世界大戦後間もなく生まれた息子を、将来は日本でもアメリカのように名前・苗字の順に呼ぶようになり、ローマ字の順に名簿も作られるだろうと考え、ならばアルファベットのAで始まる名前なら最初に呼ばれるという理由で、原子を意味する英語Atomから名付けた。
手塚治虫の漫画「鉄腕アトム」は下條アトムの命名より後に描かれたものであり、同名は偶然の一致である。鉄腕アトムの連載当時、下條アトムという少年が実在することが話題となり、当時少年だった下條アトムは手塚治虫と対面している。また、下條アトムの小学生時代の同級生にウランという名前の女の子がいて、当時のテレビ番組に2人で出演したことがある。現在の日本においてもめずらしい名前であるが、当時の日本では誰も想像できないくらい奇抜であったに違いない。
子母澤 寛 (しもざわ かん、1892年2月1日-、1968年7月19日) は日本の小説家。北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)出身。本名 梅谷 松太郎。
祖父は彰義隊で、箱館戦争に敗れてそのまま北海道に定住した。創価学会第2代会長戸田城聖と同郷で少年期よりの知己である。後に子母澤の出版を戸田の会社が受け持っており、相当数の著作を発表している。
旧制北海中学校(現北海高等学校)、明治大学法学部卒業。読売新聞、東京日日新聞で新聞記者をするかたわらで、尾佐竹猛らの指導で旧幕臣の聞き書きをまとめ、1928年『新選組始末記』を出す。その後、『新選組遺聞』『新選組物語』の「新選組三部作」を出版。
下小鶴 綾 (しもこづる あや、1982年6月7日 - )はTASAKIペルーレFC所属の女子サッカー選手。京都府出身。京都府立西乙訓高校卒業。身長167cm。ポジションはディフェンダー (サッカー) ディフェンダー。
小学生時、神足サッカースポーツ少年団でサッカーを始め、のち松下パナソニックラガッツァに入団。その後、スペランツァF.C.高槻に昇格した。関西大学文学部在学中の2003年に大邱サッカー競技 (ユニバーシアード) ユニバーシアードで銀メダルを獲得、また2004年に女子サッカー日本代表(なでしこジャパン)に選出され、アテネオリンピック (2004年) アテネオリンピック予選・タイ王国 タイ戦(4月22日)で代表デビューした。
下川辰平(しもかわ たっぺい、1928年12月11日 - 2004年3月25日)は、日本の俳優。本名・下川辰典(しもかわ・ときふみ)。血液型AB型。
福岡県福岡市出身。画家を志し、武蔵野美術大学に入学するが、中退し帰郷。1954年、RKB毎日放送劇団に2期生として入団し俳優活動をスタート。1964年に再び上京して文学座附属演劇研究所に入り、研究生を経て1968年に文学座座員に昇格。『飢餓海峡』(1972年)、『天守物語』(1974年)ほか多くの舞台に立ち、1976年9月に退座する。
1972年スタートのテレビドラマ『太陽にほえろ!』に「長さん」こと野崎刑事役でレギュラー出演し、一躍有名になった。学生時代はラグビーをやっていたこともあり、走る姿などにその片鱗がうかがえた。
下川 誠吾(しもかわ せいご、1975年11月17日 - )は、兵庫県出身のサッカー選手。日本プロサッカーリーグ Jリーグ・大分トリニータに所属する。ポジションはゴールキーパー。身長184cm、体重78kg。A型。
セレッソ大阪では不動の守護神も03年には出番を失い、オフに戦力外、川崎フロンターレへ移籍した。
04年終盤にチャンスを得てレギュラーとなるもJ1昇格した05年序盤に負けが込んだことも災いしてポジションを失う。オフに戦力外となり、岡中勇人が引退し更に高嵜理貴と江角浩司が完全移籍してGK不足で悩んでいた大分トリニータに転がり込むような形で移籍した。
背の高さを生かした空中戦と落ち着いた守備が持ち味。
名前=下川健一
本名=
愛称=シモ、シモさん
カタカナ表記=シモカワ ケンイチ
アルファベット表記=SHIMOKAWA Kenichi
原語名=
原語表記=
誕生日=1970年5月14日
出身地=岐阜県
身長=188cm
体重=88kg
血液型=A型
所属チーム名=横浜F・マリノス
ポジション=ゴールキーパー (サッカー) GK
背番号=31
下垣内 洋一(しもがいち よういち、1935年(昭和10年)- )は、日本鋼管(JFEスチール NKK)の元社長。JFEホールディングス相談役で、初代社長だった。
1997年:NKK社長
2002年2月:NKK会長
2002年10月:JFEホールディングス社長
2005年:JFEホールディングス相談役
NKKの営業のエースとして早くから社長候補と目されていたが、年次の都合で就任は三好俊吉社長の後を受け1997年に。しかし折りしもアジア通貨危機で鉄鋼需要は激減し業績が急速に悪化する。金融危機下でメーンバンクの富士銀行に余力はなく、巨額の有利子負債を抱えるNKKの信用不安が広がって株価も低迷。経営危機を迎えたNKKの立て直しに尽力する。