榊晃弘(さかき てるひろ)は、写真家。
西南学院大学卒業。1935年、福岡市の生まれ。テレビ西日本に入社、報道局映像第一部長などを務める。写真集・写真展「装飾古墳」で、日本写真協会新人賞を、また1984年(昭和59)には12年間撮り続け集大成した写真集「眼鏡橋」が評価され、第34回日本写真協会年度賞を、翌年には土木学会著作賞を受賞。さらには写真展「歴史の町並み」で伊奈信男賞を受賞。写真展には「ローマ橋紀行」(巡回展)など。
装飾古墳
眼鏡橋
歴史の町並み
薩摩の田の神さぁ
ローマ橋と南欧石橋紀行
:などがある。
日本の写真家 さかきてるひろ
榊 一郎(さかき いちろう)は日本の小説家、ライトノベル作家。
1998年に『ドラゴンズ・ウィル』が第9回ファンタジア長編小説大賞に準入選しデビュー。次作として出した『スクラップド・プリンセス』が長期シリーズ化され人気を呼ぶ。家族愛や人間の感情といったテーマを中心に、ハートフルな筆致も持ちながら読者に鋭く問いかける作風が特徴。
自らを「軽小説屋」と呼ぶ。
また、アミューズメントメディア総合学院の講師を務め、新井輝とともに創作集団"IMAGING FOREST"を設立して原作提供などを行うなど、単なる小説家にとどまらない幅広い活躍を行っている。
公式サイト「うごうご榊くん」の管理人:草野ぐりまさんは彼の奥様である。
坂上 二郎(さかがみ じろう、男性、1934年4月16日 - )、は、日本のコメディアン、俳優、歌手。鹿児島県鹿児島市出身。浅井企画所属。通称「二郎さん」。
中学校卒業後、鹿児島市内の百貨店に勤務、1953年、NHKのど自慢 NHKのど自慢コンクールで鹿児島県代表に選ばれ優勝したのを機に、歌手を目指し上京。歌手の付き人や専属司会者を経て、獅子てんや・瀬戸わんや門下となり、漫才コンビ「安藤ロック・ロール」を結成。解散後、「安藤ロール」の名のままストリップ劇場・「浅草フランス座」のコメディアンとなり、阿部昇治に師事。幕間コントで萩本欽一と共演した。
キャバレーの営業等で食いつないでいた1966年、萩本欽一と再会し、お笑いコンビ「コント55号」を結成。始めは歌手を目指したがさっぱり売れず、諦めかけて大型免許を取って転職しようとした矢先、たまたま萩本欽一に電話をかけたのが55号に繋がった。もともと即席コンビだったのが、浅草松竹演芸場・日本劇場等で人気を博し、演芸ブームに乗ってテレビに引っ張りだことなり、再度芸能界で活躍するようになった。
坂上 忍(さかがみ しのぶ、1967年6月1日- )は東京都出身の俳優。タレント。
3歳から劇団に所属し、子役として人気を博す。以後もテレビ・映画・舞台などで活躍。
2001年に元スチュワーデスと結婚するが、2003年には離婚。離婚理由として、仕事の忙しさから来るすれ違いや、坂上のギャンブル好きも挙げられていた。
麻雀愛好家としても有名で、「われめDEポン」にたびたび出演している。
ありがとう(1973年)
銀河テレビ小説「となりの芝生」(1976年、NHK) - 高平太郎役
たんぽぽ (テレビドラマ) たんぽぽ(1977年、日本テレビ) - 戸村孝役
ふしぎ犬トントン(1978年-1979年、フジテレビ) - タロー役
栄村 隆康(さかえむら たかやす。1967年9月15日 - )は、神奈川県出身のプロ野球審判員。日大藤沢高等学校から日本大学を経て1991年からパ・リーグ審判員。袖番号は2(1991年採用から、※2は1977年初採用から1990年引退まで大野正隆がつけていた番号である。)。
比較的若い時期から一軍出場を果たし、2005年シーズン終了時までの出場試合数は995、日本シリーズ1回、オールスター2回。2005年には打球が当たり骨折にも見舞われたが、無事に復帰、2006年には1000試合出場を達成した。若手ながら実績十分の有望株であり、パリーグ審判部を背負って立つ可能性を秘めている。
水島新司の漫画「ドカベンプロ野球編」ではなぜかよくクローズアップされる。
堺屋 太一(さかいや たいち、男性、1935年7月13日 - )は元官僚、作家、評論家、政治家、内閣特別顧問。早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、東京大学先端科学技術研究センター客員教授。財団法人2005年日本国際博覧会協会顧問。
大阪市生まれ。本名は池口 小太郎。大阪府立住吉高等学校を経て東京大学工学部入学後、経済学部へ転入し卒業。その後通商産業省入省。「堺屋」の由来は、先祖が大阪府堺市から谷町筋に移住し、屋号とした商店に由来する。
通産省時代に国際博覧会 万博開催を提案、1970年の日本万国博覧会 大阪万博で成功を収める。その後、沖縄開発庁に出向、沖縄国際海洋博覧会 沖縄海洋博も担当した。1978年に退官。退官した後も、イベント・プロデューサーとして数々の博覧会を手掛る。2005年日本国際博覧会 愛知万博でも最高顧問であったが、お祭り色の強い博覧会を考えた堺屋と長期的計画を望んだ地域の意図が合わず、2001年6月28日に辞任した。ただし、最高顧問辞職後も、顧問として愛知万博協会に関係した。