川津 祐介(かわづ・ゆうすけ、1935年5月12日-)は、東京都出身の俳優。
慶應義塾大学経済学部在学中から俳優となり、1958年、木下恵介監督映画「この天の虹」(松竹)でスクリーンデビュー。以後、映画、テレビドラマ等多岐にわたって活躍。
趣味は陶芸、油絵など。
この天の虹(デビュー作品)
青春残酷物語
ゴジラVSメカゴジラ(1993年)
ガメラ ガメラ3
ザ・ガードマン(東京放送 TBSテレビ系)
ワイルド7(日本テレビ放送網 日本テレビ系)
炎の超人メガロマン(特別出演)(フジテレビジョン フジテレビ系)
Gメン”75(東京放送 TBSテレビ系)
純ちゃんの応援歌(日本放送協会 NHK)
ひとつ屋根の下(フジテレビジョン フジテレビ系)
河内家菊水丸(かわちや きくすいまる、1963年2月14日 - )は、新聞詠み(しんもんよみ)河内音頭家元で男性タレント。大阪府八尾市出身。本名は岸本起由(きしもと ゆきよし)。吉本興業所属。此花学院高等学校卒業。父は河内音頭の師匠の14代目河内家菊水、母はピアノ講師。
9歳で家元を継承、1984年、新しい流派『新聞詠み(しんもんよみ)』を興し、以来大阪を拠点に、盆踊りの櫓(やぐら)で歌う。
エレクトリックギター エレキギター、シンセサイザーなどを用いて、「グリコ・森永事件 グリコ・森永大事件」、「豊田商事 豊田商事事件」、「リクルート事件」、「阪神タイガース優勝物語」、「ワイは横山やすし 横山じゃ!」、「喜劇王・藤山寛美一代記」「アントニオ猪木一代記」など、世相・事件を題材にした曲を発表。
河内 洋(かわち ひろし、1955年2月22日 - )は、大阪府堺市出身の日本中央競馬会 JRA所属の元騎手で現在は調教師。「牝馬の河内」といわれたほど牝馬の騎乗は得意であり、かつて所属していた厩舎が同じであった武邦彦にとって弟弟子存在で、息子の武豊の兄弟子的存在であった。騎手としての成績14915戦2104勝。
2000年にはナインティナインの岡村隆史演じる新人の岡村騎手の先輩役としてJRAのCMに出演したこともある。
1970年 騎手見習いとして武田作十郎調教師に入門。
1974年3月3日 武田作十郎厩舎よりデビュー。初騎乗を初勝利で飾る。
1979年5月20日 優駿牝馬 優駿牝馬(オークス)をアグネスレディーで制する。クラシック_(競馬) クラシック初制覇。
河内敏光(かわち としみつ 1954年5月7日 - )は、東京都出身のバスケットボール選手・指導者・解説者。
学校法人京北学園 京北高校→明治大学を経て三井生命保険バスケットボール部入部。バスケットボール日本リーグ機構 日本バスケットボールリーグの主力選手の一人としてリーグ戦はもとより全日本チームでも活躍し、現役引退後も三井生命チーム、アトランタオリンピックとユニバーシアード福岡大会の日本代表監督を歴任。また日本放送協会 NHKBS1 衛星第1テレビのNBA中継解説者としても活躍。
その後2000年3月に大和證券バスケットボール部を継承して設立されたクラブチーム「新潟アルビレックスBB」の運営母体企業である「株式会社新潟スポーツプロモーション」の社長に就任し、企業から市民資本を重視したバスケットボールクラブ作りに奔走。
川谷 拓三(かわたに たくぞう、本名:仁科 拓三(にしな たくぞう)、1941年7月21日 - 1995年12月22日)は、俳優。高知県室戸市出身。A型。
特に、任侠物での体あたりの演技は評価が高く、映画史上に確かな軌跡を残した。愛称は、「拓ボン」。悪役を演じた俳優で組織される「ピラニア軍団」の一人。仕事を選ばずにすぐ喰らいつく所から、同じ大部屋役者だった室田日出男らとともに「ピラニア軍団」と呼ばれた。長男仁科貴も俳優、長女仁科扶紀も女優である。
1959年に美空ひばり主演「ひばり捕物帖 振り袖小判」で”死体役”としてデビュー。以降、通行人・殺され役などエキストラ的存在でしばらく苦しい時代を過ごす。特に死体役は多く、「仁義なき―」での役も含め後に「3000回殺された男」という評を得るまでになる。1960年代後半ごろから鶴田浩二の付き人となり、彼の主演映画で出番は少ないが必ず印象に残るチンピラを演じている。特に1972年「日本暴力団・殺しの盃」では岩尾正隆とともに冒頭、賭博場荒らしのシーンでぶっ飛んだチンピラを好演。刺されても撃たれてもなかなか死なずにのたうち回る演技(その分長く映るから)で印象を残す。
川田 龍平(かわだ りゅうへい、1976年1月12日-)は人権アクティビスト。東京HIV訴訟(薬害エイズ事件)原告、松本大学非常勤講師。東京経済大学出身。
母は元衆議院議員の川田悦子。
血友病患者で非加熱血液製剤によりHIVに感染した。高校生の時、実名を公表しカミングアウト。HIV訴訟ではリーダー的な役割を果たし、一躍時の人となった。しかし、小林よしのりを始めとして「川田氏の運動が次第に薬害エイズとは関係の無い運動などに変わってきた」等と批判する勢力が一部に存在する。
小林よしのりの著書(「ゴーマニズム宣言」)では、川田が当初の目的から変節した人間として描かれている。
河田 雄祐(かわだ ゆうすけ、1967年12月22日 - )は、プロ野球選手(外野手)、現在、西武ライオンズ2軍守備走塁コーチ。東京都練馬区出身。
帝京中学校・高等学校 帝京高では3年春の全国高校野球選手権大会 甲子園に出場し準優勝。1985年、ドラフト会議 ドラフト3位で広島東洋カープに入団。俊足強肩の外野手として主に代打や守備要員として出場する。1995年シーズン終了後、野々垣武志選手との交換トレードで西武に移籍、2002年限りで引退し、現在は西武の2軍守備走塁コーチを務めている。
身長・体重 175cm・75kg
血液型 O型
投打 右投げ左打ち
球歴 帝京高→広島東洋カープ→西武ライオンズ
川田弥一郎(かわた・やいちろう1948年-)は日本の小説家。
本名は田上鑛一郎。
三重県松阪市出身。名古屋大学医学部卒業。1992年『白く長い廊下』で第三十八回江戸川乱歩賞を受賞。乱歩賞受賞作品の中で初めての医療系ミステリー小説となった。医療系ミステリーの執筆については学歴、それに職歴は医師ということなどに影響しているといえる。
白く長い廊下
江戸の検屍官 北町同心謎解き控 時代推理小説
江戸の検屍官女地獄
モダン東京の検屍官 銀座カフェ女給連続怪死事件
銀簪の翳り
江戸の検屍官 北町奉行所同心謎解き控
江戸の検屍官 闇女
黒い嵐の惨劇 気象予報士の罠
宋の検屍官 中国法医学事件簿
川田芳子(かわだよしこ、1895年10月17日-1970年3月23日)は、大正・昭和期の俳優。日本映画創生期の人気女優である。
新潟市の花街、古町に踊りの師匠の娘として生まれる。11歳のとき、一家で上京し、「藤間勘翁」に師事する。その後、川上貞奴の門に入り、「川上芳子」の芸名で「帝国劇場」で初舞台を踏む。しばらく、新派劇の舞台で活躍した後、新橋から芸妓になる。
1918年、その美貌をかわれて創立早々の松竹 松竹キネマにスターとして迎えられる。早速『島の女』に主演。松竹蒲田撮影所の最初の女優として人気を博する。当時の人気俳優諸口十九との共演作を次々と発表し、この二人の人気は、栗島すみ子・岩田祐吉のコンビと並んで松竹蒲田のドル箱コンビだった。
川田正子(かわだ まさこ、1934年7月12日 - 2006年1月22日)は、日本の歌手。童謡や文部省唱歌 唱歌を主に歌っていた。
1942年、妹の川田孝子とともに音羽ゆりかご会に入会し、同会の会長で童謡作曲家の海沼實に師事する。
1943年、関東児童唱歌コンクールで「兵隊さんの汽車」を歌い、2位に入賞。
1945年、紅白歌合戦の前身「紅白音楽試合」に出場。
1947年、変声期にさしかかったため歌手を引退する。
:その後、武蔵野音楽大学声楽科に進学する。卒業後、歌手に復帰する。
1958年、結婚
1979年、母・須摩子が病に倒れると、音羽ゆりかご会の会員を引き連れて森の木児童合唱団を創立。
1991年6月、日本童謡協会より童謡賞特別賞を受賞する。
河田 寿司(かわた ひさし、1979年12月5日 - )は、プロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルス所属の捕手。
熊本県熊本市出身・181cm91kg・右投左打・背番号27。
熊本市立京陵中学校から文徳高等学校に進学し、好守好打の捕手として台頭した。
1997年夏、河田が3番・捕手を務める文徳高校野球部は熊本県大会を勝ちあがり、全国高等学校野球選手権大会に熊本県代表として出場した。しかし初戦で千葉県代表・船橋市立船橋高等学校に、乱打戦の末10 - 17で敗れた。
翌1998年春に三菱重工長崎硬式野球部に入部したが、当時の三菱長崎の正捕手は貝塚政秀だった。小島啓民監督の意向もあり、入社後の2年間、河田は一塁手として起用された。
川田太三(かわた・たいぞう 1944年2月20日 - )は東京都出身のゴルフ評論家・ゴルフ場設計者。
学童時代は一貫して立教大学付属の小学校、中学校、高校で生活し、その後アメリカ合衆国・オハイオ州立大学留学。その後立教大学に編入。卒業後個人事務所・ティ・アンド・ケイインターナショナルを設立し代表取締役に就任。自らもアマチュアゴルファーとして活動し、日本アマチュアゴルフ選手権大会、日本オープンゴルフ選手権競技などに出場する実績を持つ。
その後『中日クラウンズ』などテレビ番組のゴルフ解説者、日本ゴルフ協会競技、規則、国際委員などを歴任。また世界各地に22ヵ所のゴルフコースを設計・監修している。