小川 誠二(おがわ せいじ 1934年 - ) は日本の物理学者。
財団法人 濱野生命科学研究財団小川脳機能研究所の所長。Ph.D.(理学博士、化学物理)。
磁気共鳴画像法(MRI)において、神経血管結合による脳血流の変化を含めた生理現象によって生じるMRIの信号変化の基礎原理 - BOLD法の原理を確立した。
2003年、「磁気共鳴機能画像法の基礎原理の発見」により国際科学技術財団の日本国際賞、ならびに「磁気共鳴画像法の基礎原理の発見」によりガードナー財団のガードナー国際賞を受賞。
磁気共鳴機能画像法の基礎原理の発見
BOLD法の原理確立に対する貢献
1934年生。
1957年 東京大学工学部応用物理学科を卒業。工学士(応用物理)
小川 淳司(おがわ じゅんじ、1957年8月30日 - )は元プロ野球選手。ポジションは外野手。右投げ右打ち。現在は、東京ヤクルトスワローズの二軍監督を務める。背番号は80。高校の2学年先輩には元阪神タイガース内野手の掛布雅之がいる。
1975年 第57回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)習志野市立習志野高等学校 習志野高校優勝時のエース
習志野高から中央大学 中央大を経て、河合楽器に入社。
1982年 ドラフト会議 ドラフト4位でヤクルトに入団。背番号は35番。
1992年 トレードにより、日本ハム移籍。背番号は47番。同年現役引退。この年、千葉ロッテマリーンズ ロッテ戦の投手のアクシデントの際、途中で遊びでマウンドに上がった宇野勝からライトオーバーのヒットを放った。
小川後楽とは、煎茶道の流派のひとつである小川流 小川流煎茶の家元が襲名する名前である。
小川流煎茶の開祖である初代・小川後楽 ⇒ 小川可進
2006年3月現在、現家元である6代目・小川後楽(筆名・楢林忠男) ⇒ 小川後楽 (6代目)
小川 郷太郎(おがわ ごうたろう 明治9年(1876年)6月9日 - 昭和20年(1945年)4月1日)は、大正・昭和期の財政学者、政治家。京都大学 京都帝国大学教授、拓殖大学学監、衆議院 衆議院議員、商工大臣、鉄道大臣などを歴任。従三位勲一等。
明治9年(1876年)6月9日、岡山県浅口郡里庄町で村山菊蔵の長男として生まれる。岡山県医局長で医師の小川知彰の養子となり、開成中学校、旧制第一高等学校 (旧制) 第一高等学校を経て、明治33年(1900年)東京大学 東京帝国大学に入学。明治36年(1903年)東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業して、大蔵省に入省する。翌明治37年(1904年)新設されたばかりの京都帝国大学経済学部に迎えられた。財政学研究のためヨーロッパに6年間に渡り、ドイツ、オーストリアなどで学んだ。帰朝後は京都帝国大学教授、同大経済学部長を歴任。大正6年(1917年)には法学博士号を授与された。
小川 国夫(おがわ くにお、本名同じ、1927年12月21日 - )は、日本の小説家・作家。
静岡県志太郡藤枝町(現在の藤枝市本町)に富士太郎・まきの長男として生まれる。
1942年、旧制志太中学(現・静岡県立藤枝東高等学校 藤枝東高校)に入学、学徒勤労動員で用宗海岸にある小柳造船所に通う。このときの経験は、のちの作品に色濃く投影されることになる。1946年、旧制静岡高等学校(現・静岡大学)文科乙類に入学。この頃カトリック教会 カトリックの洗礼を受ける。洗礼名は、アウグスチノ。
1950年、東京大学に入学。1953年、「東海のほとり」を『近代文学(雑誌) 近代文学』に発表。その年の10月フランスへわたりパリ大学に留学。1956年、フランス留学を終え帰国、大学には戻らずそのまま創作活動にはいる。留学中、スペイン、北アフリカ、イタリア、ギリシアなど、イタリア製スクーターヴェスパで旅行する。
小川和久(おがわかずひさ、1945年12月16日- )は、軍事アナリスト。熊本県八代市生まれ。自衛隊生徒 陸上自衛隊生徒(7期)・同航空学校卒、同志社大学神学部中退。日本海新聞、週刊現代記者を経て1984年に独立。
現在は危機管理総合研究所代表取締役研究所長。ソフトな語り口でTV等に多数出演。政戦略・国際政治・危機管理に至る様々のレベルでの分析を得意とする。
一民間人・ジャーナリストであるが「新ガイドライン」「テロ対策特別措置法 テロ特措法」「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法 イラク特措法」「有事法制」など、近年活発化した安全保障に関連する国会論議では参考人として招致されている。
小川芋銭(おがわ うせん、本名:小川 茂吉、1868年2月18日(慶応4年1月25日 (旧暦) 1月25日) - 1938年(昭和13年)12月17日)は、日本の画家。明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家である。
親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市)に移り農家となる。
最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。
横山大観に認められ、日本美術院同人となる。
生涯のほとんどを茨城県の牛久沼のほとりで農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。