最近の有名人・芸能人 姓名判断 2119

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最近の有名人・芸能人 姓名判断 2119

石母田正

石母田 正(いしもだ ただし/しょう、1912年9月9日 - 1986年1月18日)は、歴史家である。専攻は日本古代史、日本中世史。古代から中世にかけての著作が多数ある。正統派唯物史観の持ち主として広く知られ、戦後の歴史学に多大な影響を与えた。戦後、歴史学を志した人々の多くが石母田の著書を読んだことにより、歴史学を専攻することを決意したと告白している。
北海道札幌市の母方の実家で生まれ、宮城県石巻市で育つ。父正輔は旧仙台藩出身で、石巻の町長・市長を長く務めた。第二高等学校 二高を経て、東京大学 東京帝国大学文学部国史学科卒業。新聞記者を経た後、法政大学教授。歴史学研究会幹部を歴任。1973年にパーキンソン病に罹患し、以降は闘病生活を送った。

石牟礼道子

石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年(昭和2年)3月11日 - )は熊本県天草郡生まれの作家。
『苦海浄土-わが水俣病』は、文明の病としての水俣病を鎮魂の文学として描き出した作品として絶賛された。第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが受賞辞退。1973年マグサイサイ賞受賞。1993年『十六夜橋』で紫式部文学賞受賞。2001年度朝日賞受賞。『はにかみの国 石牟礼道子全詩集』で2002年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2002年7月、新作能「不知火」が東京で上演、2003年には熊本、2004年8月には水俣で上演され、大きな話題を呼んだ。著書多数あり。
苦海浄土~は、武田鉄矢が同作品の一部を抜粋して、海援隊 (フォークグループ) 海援隊で、ライヴやアルバムのレパートリーに取り上げている。

石嶺聡子

石嶺 聡子(いしみね さとこ、本名:石崎(いしざき)聡子、1975年10月3日 - )は、沖縄県出身の歌手、シンガーソングライター。
司会業の父の影響で小さい頃から人前で歌を歌うようになり、アマチュア時代から沖縄県内で注目された存在だった。1992年沖縄県立首里高等学校 首里高校2年生在学時に琉球放送代表として出場した第16回長崎歌謡祭(長崎放送主催)でグランプリを獲得したのを機に、その類い稀な歌唱力に目をつけた東芝EMIの篠木雅博プロデューサー(当時。現在徳間ジャパンコミュニケーションズ執行役員 制作本部本部長代理)にスカウトされ、高校卒業後ロサンゼルスでボイストレーニングとダンスレッスンを受けた後、1994年11月9日「土曜日とペンと腕時計」(東京放送 TBS「ブロードキャスター」エンディング曲)でメジャーデビュー。翌1995年日本放送協会 NHK「第5回新人歌謡コンテスト」に出場し見事優勝。同年、東宝映画「ひめゆりの塔(沢口靖子主演)」主題歌として喜納昌吉の代表曲「花~すべての人の心に花を~ 花」をカバーし、CD売り上げが50万枚を越える大ヒット。この年の紅白歌合戦に「花」で出場し、その透明感のある爽やかな歌唱が幅広い年齢層から支持された。さらに翌1996年、インドネシア・バリ島で開催された「”96アジア音楽祭」で「Asian Dream」を歌い、見事グランプリを獲得し、絶頂期を迎えた。しかし「花」が大ヒットしたものの「花の石嶺聡子」と言われることに悩み、しばらくの間ライブで「花」を歌わない時期もあったが最近のライブではアンコール曲として歌うことが多い。東芝EMIとの契約を終了し、現在都内ライブハウスを中心にインディーズアーティストとして活動中。2006年3月3日かねてから交際していた、ギタリストの石崎光と入籍し、新たな音楽活動を開始している。

石嶺和彦

石嶺 和彦(いしみね かずひこ、 1961年1月10日 - )は、プロ野球選手、野球解説者。現・中日ドラゴンズ打撃コーチ。沖縄県那覇市出身。阪急・オリックス時代の愛称は「サッサ」
豊見城高で1977年から1978年に春夏連続して甲子園大会に出場。1978年のドラフト会議でオリックス・バファローズ 阪急ブレーブスと広島東洋カープから指名され、抽選により阪急に2位指名で捕手として入団。膝の故障により指名打者および外野手に転向。1986年にレギュラーに定着、打率.300、33本塁打を記録した。1986年には4月29日から7月25日にかけて56試合連続出塁のプロ野球記録を達成。1987年9月2日から9月10日にかけて6試合連続本塁打のパシフィック・リーグ パ・リーグ最多タイ記録を達成。1990年に打点王のタイトルを獲得。

石光真清

石光 真清(いしみつ まきよ、1868年10月15日(慶応4年8月30日) - 1942年5月15日)は陸軍軍人、諜報活動家、大陸浪人。明治から大正にかけてシベリア、満州での諜報活動に従事した。
現在の熊本市本山町に熊本藩士 石光真民 守家の次男としてうまれる。石光家は下級武士であったが父・真民は産物方頭取を務めていたので家計は豊かであったという。商法講習所(現一橋大学)中退。陸軍幼年学校を経て、1889年陸軍士官学校を卒業。近衛聯隊在任中に大津事件が発生、ロシアの脅威を実感する。陸軍中尉で日清戦争に参加、ロシア研究の必要性を感じ特別任務をおびてシベリアへわたる。一生の大半を諜報活動に従事し波乱にとんだ人生をおくった。

石丸謙二郎

石丸 謙二郎(いしまる けんじろう、1953年11月1日 - )は、大分県出身の日本の俳優。本名は、藤原正勝。身長173cm、体重65kg、血液型A型。大分県立大分上野丘高等学校卒業、日本大学芸術学部中退。劇団青年座所属。趣味はウィンドサーフィン。
テレビ朝日『世界の車窓から』のナレーションでも知られる。又、『世界の車窓から』のナレーションを買われ、ぶらり途中下車の旅にも旅人として出演を果たす。
TBS『SASUKE』に50代お父さん世代の代表として出場。1974年、原宿の表参道で日本で初めてストリーキングをやった。その様子は新聞にも掲載された「ストリーク!ストリーク!」と叫びながら走ったという。

石丸元章

石丸 元章(いしまる げんしょう、1965年8月9日 - )は、日本のライター、小説家、ディスクジョッキー DJ。
千葉県出身。法政大学経済学部中退。奔放な作風から、ゴンゾ(ならず者の意)ジャーナリストとも呼ばれる。
1990年頃よりライターとして国内のジャンキー(薬物中毒者)を取材していたが、次第に自身もドラッグ使用に溺れるようになっていく。1995年9月に覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕され、同年12月に懲役1年6ヶ月執行猶予4年の判決を受ける。
ジャンキーとしての私的な生活を描いたノンフィクション小説『SPEED スピード』、『アフター・スピード』で脚光を浴びる。以後、「en-taxi」「新潮」など文芸雑誌で小説や記事の執筆を行っている。著作は他に、『平壌ハイ』、『ウワサを追いこせ!』などがある。

石丸幹二

石丸 幹二(いしまる かんじ、1965年8月15日 -)は、劇団四季所属の俳優。愛媛県出身。東京芸術大学声楽科卒業のテノールである。
『オペラ座の怪人』のラウル役に抜擢され、デビュー。甘いマスクと気品のある出で立ちで、「ハムレット」のタイトルロールや「ミュージカル異国の丘」の九重秀隆役など、貴公子的な役柄を演じることが多い。声楽出身でありながら、音楽に頼らないストレートプレイでもその存在感を発揮している。また、「思い出を売る男」では、声楽に転向する以前専攻していたというアルトサックスの腕を披露している。
下村尊則や佐野正幸らとダブルキャストが組まれることが多い。

石原慶幸

石原 慶幸(いしはら よしゆき、1979年9月7日 - )は、岐阜県安八郡墨俣町(現・大垣市)出身の広島東洋カープ所属の野球選手 プロ野球選手(捕手)。
岐阜県立岐阜商業高等学校 県岐阜商高では3年夏の甲子園で1回戦敗退、その後東北福祉大学 東北福祉大に入学し、大学3年時に大学日本代表・シドニー五輪野球日本代表候補に選出される。2001年ドラフト4巡目指名で広島東洋カープに入団する。
2003年シーズン頃から一軍出場機会が増え、2004年には持ち前の強肩とそこそこよくなった打撃で正捕手の座を勝ち取る。またシーズン通算4本塁打のうち、2本が満塁、2ラン・3ランが1本ずつと良い場面でのホームランが多かった。

石原良純

石原 良純(いしはら よしずみ、1962年1月15日 - )は、日本の俳優、タレント、気象予報士。神奈川県逗子市出身。身長182cm・体重70kg。血液型A型。父は現東京都知事の石原慎太郎。故・石原裕次郎は叔父。元・国土交通大臣の石原伸晃は兄。衆議院議員一覧 衆議院議員の石原宏高、画家の石原延啓は弟。元石原プロモーション所属。
聖マリア幼稚園、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部(サッカー部所属)、慶應義塾高等学校(合気道部所属)、慶應義塾大学経済学部(ゼミは金融論)卒業。大学在学中は、スキー同好会に所属していた。
大学在学中の1982年、映画『凶弾』に主演し、芸能界入り。「石原軍団」の若手俳優として、『太陽にほえろ!』にもレギュラー出演する。

石原裕次郎

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日 - 1987年(昭和62年)7月17日)は、日本の俳優・歌手である。昭和30年代の日本を代表する映画スターであり、美空ひばりとともに日本の戦後を象徴する芸能人といわれる。
元石原軍団總長(石原軍団の法被による)、石原プロモーション初代社長。所属レコード会社はテイチクエンタテインメント テイチクだった。
石原慎太郎(東京都知事)は兄。石原伸晃・石原良純・石原宏高は甥。夫人は日活の元トップ女優であった北原三枝(結婚後・石原まき子)。
愛称は裕ちゃん(ゆうちゃん)。
終生、酒とたばこを愛し、また大変な偏食で野菜はいっさい受け付けず、ビフテキを主食にしていたといわれるほどであった。比較的短い生涯は、この不摂生が一因であったとの声は多い。

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