最近の有名人・芸能人 姓名判断 1253

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最近の有名人・芸能人 姓名判断 1253

山本薩夫

山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 1983年8月11日)は、日本の映画監督。鹿児島県出身。早稲田大学文学部独文科中退。甥に俳優の山本學、山本圭、山本亘がおり、自身の作品への配役も多い。
熱心な日本共産党員で「赤いセシル・B・デミル(「十戒」などのハリウッド大作の巨匠)」と呼ばれた。反骨精神旺盛な骨太な社会派作品を数多く世に出した。白い巨塔をはじめとして山崎豊子の小説を映画化することが多かった。1983年8月11日死去。享年73。
皇帝のいない八月
不毛地帯
金環蝕
華麗なる一族
戦争と人間
白い巨塔 (映画) 白い巨塔
松川事件
太陽のない街
真空地帯
荷車の歌
山本宣治 武器なき斗い

山本権兵衛

山本 権兵衛(やまもと ごんべえ、山本 權兵衞、嘉永5年10月15日 (旧暦) 10月15日(1852年11月26日) - 昭和8年(1933年)12月8日)は、日本の海軍軍人・政治家。第16および第22代の内閣総理大臣。海軍大将 従一位 大勲位 功一級 伯爵。本名:進水式で祝詞用に神主がつけた名前のごんのひょうえを通称にしていたが、本称はあくまでも「ごんべえ」である。
諱は盛武。
海軍軍人として数々の軍政改革を行い、日清戦争・日露戦争を屋台骨から支えた。その後大正期に二度首相となりリベラルな姿勢を見せるが、二度ともスキャンダルに見舞われ、満足な業績を残せぬまま辞職した。
鹿児島城下の鹿児島郡下加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)出身で、薩摩藩士山本五百助盛珉の四男に生まれる。幼名も権兵衛。戊辰戦争に従軍、戦争終了後に西郷隆盛の紹介で勝海舟に一ヶ月間弟子入りした。権兵衛は勝に強く感化され、彼の勧めによって海軍の道を歩むこととなった。その後昌平黌、開成所、海軍兵学寮に学んだ。海軍兵学寮では戊辰戦争の弾雨の中をくぐり抜けた気の荒い権兵衛らによって、教官らがしばしばいびられ、時に器物が壊され、暴力を受けたとの話も残る。西南戦争では西郷軍に従軍しようとしたが、西郷自らの説得により兵学寮に戻った。1877年(明治10)に海軍少尉として任官、翌年には津沢登喜子と結婚、その後世界各地を周航した。帰国後、「高雄」・「高千穂」の艦長などを歴任した。

山本康平

山本 康平(やまもと こうへい 1980年12月23日-)は岡山県出身の俳優である。太田プロ所属。179cm。駒澤大学卒。
大学在学中の2002年にスーパー戦隊シリーズ「忍風戦隊ハリケンジャー」でハリケンイエロー・尾藤吼太役でデビュー。その後も俳優に限らず、バラエティ番組や映画にも出演している。05年8月13日から公開される「八月拾五日のラストダンス」に主演として出演。
ハリケンジャーに共演した縁で、西岡竜一朗、白川裕二郎などと親交が深く、彼ら5人による洋服のブランド「anunnaki」の1人としても活動。
鈴木美潮女史主催の新宿ロフトプラスワンでのトークライブイベント「黄祭」で、タイムイエロー・和泉宗兵と共にメインパーソナリティを務めた。

山本幸三

山本 幸三(やまもと こうぞう、昭和23年(1948年)8月8日 ‐ )は、平成期における日本の政治家。官僚。衆議院議員(4期)。
昭和23年(1948年)8月8日
福岡県
東京大学経済学部卒業
経済学士
国家公務員(大蔵省)
経済産業副大臣
岳父・村山達雄
比例九州ブロック(福岡11区)
自由民主党(丹羽・古賀派)
国会対策副委員長
福岡11区支部長
衆・第2議員会館335号室
http://www.yamamotokozo.com/ 山本幸三のHP}}
福岡県出身。福岡県立京都高等学校、東京大学経済学部卒業後大蔵省に入省。

山本耕史

山本 耕史(やまもと こうじ、1976年10月31日 - )は、俳優。東京都新宿区出身。身長179センチ、体重65キロ、血液型B型。
0歳の頃からモデルとして活躍。その為、芸歴はほぼ年齢と同じ。劇団若草に所属後、フリーで活動。
『レ・ミゼラブル』初演の、少年革命家ガブローシュ役(原作のプチ・ガヴローシュは革命思想を持たないパリの浮浪児であり、革命家の青年たちの列に途中から加わり彼らを鼓舞した)から本格的な芸能活動を開始。同作では後年マリウス役も務める。
16歳のころ『ひとつ屋根の下』の文也役で広くお茶の間で知られるようになるが、本人は役柄と自分の性格にかなりギャップがあったため世間から「文也くん」と呼ばれることを切なく思っていたらしい。

山本浩二

山本 浩二(やまもと こうじ、1946年10月25日 - )は、広島県佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区五日市町)出身。プロ野球選手・プロ野球監督。旧名「浩司(こうじ)」(1974年まで)。愛称は「ミスター赤ヘル」、あるいは「コージ」。一部(主にアンチ)からは、ピーコと同じような黄色いサングラスを掛けていることから「ピーコ」とも呼ばれている。現役時代は広島東洋カープで長きに渡って活躍し、引退後も広島の監督を2度務めた。
広島市西端の町、五日市町 (広島県) 五日市の生まれ。子供の頃、父に連れられ当時の広島カープの本拠地・広島県総合グランド野球場 広島県営球場に太田川 (広島県) 太田川対岸から渡し船で何度も通い、当時の広島の主力、エース投手 ピッチャー・長谷川良平、四番・小鶴誠、韋駄天・金山次郎に憧れ、全部足した選手になりたいと夢見て野球に打ち込んだという。16歳の時、自分の力で甲子園へ行きたいと、野球では全くの無名だった広島県立廿日市高等学校 廿日市高校へと進学、入学時からエースで四番を務める。3年時には主将として広島県予選(この時の県内の同期には、後に読売ジャイアンツ 巨人に入団した高橋一三、小川邦和がいる)を勝ち抜き、あわや甲子園かという所までいったが、準決勝で広陵高等学校 (広島県) 広陵高校に17安打を食らうめった打ちにされ、涙を飲んだ。しかし、その評判を人伝に聞いた福岡ソフトバンクホークス 南海ホークスの鶴岡一人監督の目に留まり、「今プロに入っても通用しない」と大学進学を勧められ、1965年、高校卒業と同時に法政大学に入学した。(鶴岡は後年、当時の山本について「投手としてはともかく、打撃には非凡なものを感じた」と語っている)

山本功児

山本功児(やまもと こうじ、 1951年12月25日- )は、大阪府堺市出身(兵庫県になっていることもある。)。昭和後期から平成期(1970年代後半-2000年代前半)のプロ野球選手、プロ野球監督。ポジションは一塁手、外野手。左投げ左打ち。打席に入り構える際に身体を幾度か揺りかごの様に左右に揺らす(但しバットを持つ手は不動)独特の構えがあった。
三田学園 三田学園高で選抜高等学校野球大会 選抜大会に出場し、法政大学経営学部に進学。ホンダ鈴鹿 本田技研鈴鹿から1975年にドラフト会議 ドラフト5位で読売ジャイアンツに入団した。打撃、守備とも定評があったものの、当時のチームは一塁手として王貞治、中畑清などの強打者を擁していたため、出場機会にあまり恵まれなかった。1979年から1980年には7試合、4番打者を務めた。三宅宗源とのトレードにより1984年に千葉ロッテマリーンズ ロッテオリオンズに移籍、レギュラーとして初めて規定打席に到達し、打率.301を記録。同年から2年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。1988年に現役を引退。

山本耕一

山本耕一(やまもとこういち)
山本耕一 (俳優)
山本耕一 (アナウンサー)

山本兼一

山本 兼一 (やまもと けんいち, 1956年7月23日 - ) は、京都市生まれの小説家。同志社大学卒。
『戦国秘録 白鷹伝』
『火天の城』(松本清張賞)
1956年生 やまもとけんいち
日本の小説家 やまもとけんいち

山本圭

山本圭(やまもとけい、1940年7月1日-)は、昭和中期から平成期(1960年代後半-)の俳優。
大阪府茨木市の建築業の家に生まれる。成蹊大学政治経済学部を中退後、1960年、俳優座養成所に第12期生ではいり、1963年に俳優座に入団する。
1962年に叔父の山本薩夫監督の『乳房を抱く娘たち』で、映画デビューを果たす。1967年からの『若者たち』三部作の三郎役を好演。世間に名を広めるとともに、毎日映画コンクール助演男優賞を受賞する。その後も、内面に強さを秘めた人物像を好演し続けている。
また、最近では、テレビドラマで渋い脇役として出演することも多く、『ひとつ屋根の下』では、主人公の家族を温かく見守る医師の役を好演し、お茶の間の話題となる。

山本清

山本清一(やまもときよかず、昭和7年、1932年11月1日生)は日本伝統瓦技術保存会会長で奈良県生駒市に生まれる。父は瓦を葺く職人で清一氏は尋常高等小学校卒業後に職人になり21歳まで父の下で仕事をする。その後、井上新太郎のもとで本瓦葺きの修行をし、26歳で独立した。東大寺大仏殿や法隆寺金堂など多くの伝統的な建築物の復元、再建に取り組む。従来の瓦の問題点を解決した南都瓦の開発者でもある。
平成6年には認定保存技術者に認定される。平成10年には労働大臣卓越技能者表彰、さらに、平成13年には黄綬褒章を受章する。現在は、次世代の育成に力を入れている。

山本舜勝

山本 舜勝(やまもと きよかつ、1918年 - 2001年7月9日)は、愛知県出身の日本の軍人、自衛官。
1939年に陸軍士官学校、1944年に陸軍大学を卒業。終戦まで陸軍少佐として参謀本部に勤務。情報機関である陸軍中野学校の教官も兼務した。
戦後、陸上自衛隊に入隊し、アメリカ陸軍やアメリカ特殊戦学校に留学。帰国後、のちに日本共産党が「影の軍隊」と糾弾する、1954年に設立された陸上自衛隊調査学校(東京都小平市、現・小平学校)の「対心理情報課程」創設に携わり、同校副校長に就任。元陸将補。
1967年に「楯の会」の指導を通じて知り合い、三島由紀夫と知り合い、交友を結ぶ。山本は「楯の会」の事実上の指導官であった。「新宿騒乱事件」につながった1968年10月21日の国際反戦デーの集会では、調査学校の学生と「楯の会」のメンバー計数十人が、山本の指揮で学生らのデモ隊の中に潜入し、組織リーダーが誰かなどを調査する訓練を行っていた。「楯の会」が皇居に突入する「クーデター計画」を三島に示されるが、山本は反対する。この計画は1970年11月25日の三島事件のひな形と推測されている。

山元清多

山元清多(やまもときよかず、男性、1939年6月11日 - )は日本の脚本家、劇作家、演出家。東京都出身。東京大学卒業。脚本家としてテレビドラマ等で多くのヒット作がある。劇作家としては1983年、『比置野ジャンバラヤ』で第27回岸田國士戯曲賞。劇団黒テントの演出を務める他、多方面で活躍。   
「ムー」1977年        
「ワニと鸚鵡とおっとせい」映画 1977年
「ムー一族」1978年
「刑事ヨロシク」1982年
「青が散る (テレビドラマ) 青が散る」1983年
「お坊っチャマにはわかるまい!」1986年
「藤子不二雄の夢カメラ」1986年
「はいすくーる落書」1989年
「はいすくーる落書2」1990年

山本悍右

山本悍右(やまもと かんすけ、1914年-1987年)は、詩人、写真家。
愛知県名古屋市生まれ。本名 勘助。明治大学中退。
昭和初期『詩と詩論』、『cine´』(シネ)を通してシュルレアリスムを知り、15歳時より作詩を始める。
1931年 17歳の時、新興写真グループ 「独立写真研究会」の結成に参加、会誌『独立』に作品を発表、早熟な才能を発揮していった。1932年4月 会誌B・2号に発表された”或る人間の思想の発展 靄と寝室”(現 名古屋市美術館蔵)は山本悍右の発表された作品として現存する最も古い作品である。1938年 「青憧社」を結成し、会報『CARNET BLEU』を編輯、発行。戦時下、国策により出版物が日本名に改称させられて行く中、1942年8月 第5号(終刊)までタイトルにはフランス語を使用、刊行した。

山本寛斎

山本 寛斎(やまもと かんさい、1944年2月8日 - )はファッションデザイナー。岐阜県出身。太田プロダクション所属。女優山本未來の父。通名でやまもと寛斎と表記することもある。モデル・俳優の伊勢谷友介は異母弟。
1971年、ロンドンで日本人初のファッションショーを開催し、世界的なデザイナーとなった。現在はプレタポルテの活動は休止し、様々なショーやイベントのプロデューサーとしても活躍している。
デザイナー活動休止の理由は様々であるが、一番の理由はクリエイターとしての限界であるといわれる。このためイベントプロデューサーに方向転換し、民間企業や地方自治体に協賛金名目の活動費を集め活動している。

山本香苗

+参議院議員 山本香苗
生年月日 1971年5月14日
最終学歴 京都大学文学部卒業
前職 外務省職員
世襲の有無 世襲ではない
選挙区 比例代表
当選回数 1回
所属党派 公明党
山本 香苗(やまもと かなえ、1971年5月14日 - )は日本の政治家。公明党所属の参議院議員。(本名:池田香苗)
党参議院国会対策副委員長
党女性局次長
党国際局次長、
党青年局次長
党女性委員会学校いきいき教育PT座長
党大阪府本部副代表

山本一義

山本 一義(やまもと かずよし、1938年7月22日 - )は、広島県広島市翠町(現・南区 (広島市) 南区翠町)出身のプロ野球選手(外野手)・プロ野球監督、野球解説者。
父親は中国新聞もと人事部長、岳父は広島の40代以上の人なら誰でも知っている、乳菓ビガー本舗元社長(現在は廃業)。広島県立広島商業高等学校 広島商業時代から超高校級スラッガーとして鳴らした。3年夏の県予選では13打席で10回敬遠されたという逸話も残る。1956年甲子園春夏連続出場。エース上土井勝利(広島、のち球団本部長)、1学年下に迫田穆成(2005年全日本高校選抜監督)らのいた強力チームだったが、選抜高等学校野球大会 春選抜は準優勝した岐阜県立岐阜商業高等学校 県立岐阜商業に、全国高等学校野球選手権大会 夏選手権は熊本県立済々黌高等学校 済々黌高に初戦で敗れた。山本が抜けた翌夏は、決勝で法政大学第二中・高等学校 法政ニ高を破り全国制覇している。進学した法政大学でも1年からレギュラー、4年時には四番主将として法政12年ぶり7度目のリーグ優勝をもたらした。

山本和行

山本 和行(やまもと かずゆき、1949年6月30日 - )は、広島県広島市丹那町(現南区_(広島市) 南区丹那町)出身のプロ野球選手、野球解説者。ポジションは投手。左投げ左打ち。現役時の背番号は25番。
福山電波工(現近畿大学附属福山中学校・高等学校 近大福山高)・村田兆治、広島県立尾道商業高等学校 尾道商業・大田垣耕造(シドニーオリンピック シドニー五輪日本代表監督)らが同期。1966年、広島県立広島商業高等学校 広島商業のエースとして三村敏之(後に広島東洋カープ監督)と共に全国高校野球選手権大会 甲子園に出場も初戦敗退。進学した亜細亜大学でもエースとなり1シーズン70奪三振の当時のリーグ記録を樹立。1971年、第20回全日本大学野球選手権大会で、亜細亜大学を初の日本一に導くなど大学通算で33勝を上げた。

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