三宅正一(みやけ しょういち、1900年10月30日 - 1982年5月23日)は日本の農民運動家、政治家。衆議院副議長。
岐阜県出身。父親は村長を務める名望家。旧制岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)から早稲田大学政治経済学部に進学。早大では学生無産運動団体の「建設者同盟」に参加した。同学年に平野力三(元農林大臣)。
1923年早大を卒業。翌1924年に日本農民組合関東同盟の新潟県主張所を新発田市 新発田に開設、以後新潟県に定住する。1926年、小作料の減免を求める農民に対し、地主が土地への立入禁止処分で対抗したことから始まった木崎村小作争議(木崎村は現在の豊栄市)を先頭にたって指導し、小作料不納同盟の結成、小作人子弟の同盟休校、村政改革、無産農民学校設立などを行い対抗した。同争議は1930年に和解が成立し、小作人の耕作権は認められなかったものの、以後小作人側に有利な判決が下されるようになった。
三宅惺(みやけ さとる)は、歌人、詩人。龍谷大学、図書館情報大学卒業。
平成口語短歌の先駆的存在。龍谷大学在学中にエッセイ「口語短歌の宣言」を書き、現代口語表現による作歌を積極的に提唱する。現代語を中心にしながら完成度の高い短歌を詠み、口語短歌を飛躍的に発展させた。一首の短歌の表記は、一貫して四行散らし書きスタイルを採用。序詞など使われなくなっていた古典和歌技法をさりげなく復活・採用し、そこに巧みに脚韻などの西洋詩技法を組み込んだ。単行歌集では、短歌の配列に時間制や物語性を大幅に組み込む。師事する歌人も、所属結社も無く、そうした姿勢は当時の歌壇においてまったく異端であり、歌壇の主流からは受け入れられなかったが、その短歌は以後の歌人に多大な影響を与えた。今なお短歌結社歴は無く、マイペースをつらぬいた活動を続けている。
三宅 健(みやけ けん、1979年7月2日 - )は、男性タレント 男性アイドルグループV6 (ジャニーズ) V6のメンバーである。ジャニーズ事務所に所属。身長は165cm、血液型はO型。
1979年7月2日:神奈川県横浜市に生まれ、幼少期を京都府や大阪府で過ごした後、香川県高松市で育つ。
1993年5月4日:中2の時、近所のオバさんの薦めでジャニーズ事務所に入る。
:履歴書を出して2日後にジャニー喜多川から『明日のこどもの日、SMAPのコンサートがあるから来て』と連絡があった。オーディションを受けずに入所している稀な例である。
ジャニーズJr.時代は森田剛と共に剛健コンビと呼ばれ、KinKi Kidsに次ぐ人気があった。
三宅 一生(みやけ いっせい、イッセイ・ミヤケ 1938年4月22日 - )は、ファッションデザイナー。広島駅近く、広島市東蟹屋町(現東区 (広島市) 東区東蟹屋町)生まれ。広島大学附属東雲中学校、広島県立広島国泰寺高等学校、多摩美術大学図案科卒業。
1945年8月6日、爆心地から4キロの東雲小学校の教室で原爆の閃光を見る。「今でも目を瞑れば浮かんでくる、嫌な色だ」 爆心地から2.5キロの自宅で大やけどを負った母は4年後に亡くなる。幼少期から優れた美的センスを発揮、一貫して美術部に所属。焼け野原から復興する広島の街、特に高校の近くにあった丹下健三設計の平和記念公園やイサム・ノグチが設計した平和大橋のデザインに感銘を受ける。上京し多摩美大在学中からコレクションを発表、第1回は1963年に発表された「布と石の詩」。卒業後に第2回コレクションを発表した後に、フランスのパリに渡り、1966年ギ・ラロッシュのアシスタントとなる。バレンシアガの元で働くことを望んでいたものの、1968年にバレンシアガが引退したため、その一部を引き継いだジバンシーでアシスタント・デザイナーに就任。
金親 和行(かねちか かずゆき 1969年11月12日生)は、横浜市西区 (横浜市) 西区)出身で北の湖部屋(入門当時は三保ヶ関部屋)所属の元大相撲力士。本名は山村和行(やまむら かずゆき)、 旧姓は金親。趣味は映画鑑賞。最高位は西十両2枚目(1995年1月場所)。現在は年寄・宮城野。
中学時代はバスケットボール部に所属していた。身体が大きかったため多くの相撲部屋からの勧誘があったが一度は入門を断り、横浜商大高校に進学した。しかし1ヶ月ほどで高校を中退し、引退したばかりの北の湖親方(横綱・北の湖敏満)の内弟子として三保ヶ関部屋に入門して、1985年9月場所に初土俵を踏んだ。
宮城谷 昌光(みやぎたに まさみつ、1945年2月4日 - )は日本の時代小説・歴史小説作家。もともとは恋愛小説などを書いていたが歴史小説を書くようになった。史記を始めとする漢籍を修めただけでなく白川静に深い影響を受け金文や甲骨文字まで学んだ。殷、周、春秋戦国時代など古代中国に素材を求めた作品が多い。代表作に『重耳』など。本名は宮城谷 誠一(みやぎたに せいいち)。愛知県蒲郡市生まれ。愛知県立時習館高等学校、早稲田大学第一文学部英文科卒。
1990年に『天空の舟』で直木賞にノミネートされる。
1991年に『天空の舟』で新田次郎文学賞『夏姫春秋』で第105回直木賞を受賞した。
宮城 まり子(みやぎ まりこ、1927年3月21日 - )は、東京都出身の歌手・女優・映画監督。
貧しい母子家庭に出生、幼くして母、弟と相次ぎ死別するつらい少女時代を送った。1955年「ガード下の靴磨き」で歌手デビュー。その後女優業に進出し1958年には「12月のあいつ」で芸術祭賞、1959年「まり子自叙伝」でテアトロン賞を受賞。
1968年に肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を静岡県浜岡町(現御前崎市)に発足。(1997年から掛川市に移転)このころよりタレント活動は事実上引退状態となる。1974年には記録映画『ねむの木の詩』を製作・監督し、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル賞を受賞した。また、1977年には『ねむの木の詩がきこえる』を製作した。1979年には「ねむの木養護学校」を発足。また1975年と1981年に実施された近畿放送(京都放送=KBS京都)テレビ番組「宮城まり子のチャリティーテレソン」を通して身体障害者の社会参加を訴えた。これらが評価され1979年総理大臣表彰された。
宮城 ナナ(みやぎ なな, 1971年4月10日 - )は、沖縄県在住の日本の女子プロテニス選手。アメリカ合衆国 アメリカ・ワシントン州シアトルに生まれる。父親はカナダ系アメリカ人で、沖縄の軍事基地に勤務している。長年にわたり、ダブルスの名手として活躍してきた。WTAツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで10勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス51位、ダブルス12位。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ち。チームスカンジナビア所属。
宮城ナナは父親の仕事の関係で、13歳の時に沖縄へ引っ越した。1988年3月にプロ入りし、すぐにダブルスの名手として才能を発揮し始める。1990年からグランドスラム (テニス) 4大大会の女子ダブルスに挑戦を開始。同年8月末にアメリカ合衆国 アメリカ・ニューヨークで開かれた「OTBオープン」で、ツアー大会の女子ダブルスに初優勝を飾る。それ以来、いろいろなパートナーとペアを組んで、息の長い活躍を続けてきた。ダブルスに強いことから、長年にわたり女子テニス国別対抗戦・フェドカップの日本代表選手として不可欠な戦力でもあり、1989年から2000年までその位置にあった。
宮城 聰(みやぎ さとし、1959年2月9日 - )は、日本の演出家。ク・ナウカ ク・ナウカ シアターカンパニー理事長。東京都出身。財団法人 舞台芸術財団演劇人会議評議員、BeSeTo演劇祭国際委員会日本代表委員。
1977年、筑波大学附属駒場中学校・高等学校 東京教育大学付属駒場高等学校を卒業。
1978年、東京大学に入学。
1980年、学内で劇団「冥風」を結成。独自の俳優訓練法を開発。
1987年、東京大学文学部美学芸術学専修過程中退。
1986年、『こんどの土日は~迷宮生活』(原作:小林恭二)でソロ・パフォーマンス「ミヤギサトシショー」を開始。
1990年、「ク・ナウカ」を旗揚げ。
2008年、立教大学教授に着任予定。
宮川 泰(みやがわ ひろし、1931年3月18日 - 2006年3月21日)は、日本の作曲家・編曲家である。1960年代のスター、ザ・ピーナッツの育ての親として数々のヒット曲を輩出し、他歌手にも楽曲を提供するなど、日本ポップス界に大きな足跡を残した。また宇宙戦艦ヤマトなどテレビ音楽にも多数の作品を提供。とりわけ、軽妙ながらインパクトのある「宮川節」と称される彼の音楽は、時間の短いTV番組のオープニングに重用された。
作曲した作品も多いが、ザ・ピーナッツの恋のフーガをはじめ、編曲(アレンジ)のみ手がけた作品も洋楽を中心に多数存在する。
日本ポップス界の重鎮的存在ながらも、目立ちたがり屋で笑いが大好きな性格から、自らも積極的にTV番組に出演。ピアノを伴奏しながらも、タレントに負けず劣らずの積極性で笑いをとっていた。「シャボン玉ホリデー」の音楽担当時、ハナ肇からハナ肇とクレージーキャッツに誘われ、本人もその気になったが、渡辺プロ社長の渡辺晋や妻に反対されて挫折したエピソードを持つ。「紅白歌合戦 NHK紅白歌合戦」では教え子のザ・ピーナッツ等との共演で派手なパフォーマンスの指揮で出場したが、一部の歌手からは「自分より目立ちすぎ」と嫌な顔をされたことも。1993年から2005年まで蛍の光を指揮 (音楽) 指揮した際もその派手なスタイルは変わらなかった。また本人も自覚していたが、歌を唄うのは下手であった。