檜山 修之(ひやま のぶゆき 1967年8月25日 - )は、広島県廿日市市出身の男性声優。アーツビジョン所属。血液型はA型、星座は乙女座。学習研究社の月刊アニメディア付録の声優辞典で、自ら広島の日赤病院で出生したことを述べている。
デビュー作は不詳。代表作は『幽☆遊☆白書』(飛影役)、『ガサラキ』(豪和ユウシロウ役)等多数。中でも勇者シリーズでは、『勇者特急マイトガイン』(旋風寺舞人役)、本人曰く自分の看板作品である『勇者王ガオガイガー』(獅子王凱役)の2度に亘って主役を務め、ヒーロー役では定評がある。
風貌等から声優界の橋本真也(故人)と呼ばれている。
桧山 進次郎(ひやま しんじろう、1969年7月1日 - )は京都市右京区出身。平成期(1990年代~)のプロ野球選手。在日コリアンであることを明かしており、本名は、黄進煥(ファン・ジンファン、嶹ゥ・・劍)。愛称 ニックネーム・「ひーやん」、「悠久の若虎」。
京都・平安中学校・高等学校 平安高校→東洋大学を経て、1991年、幼いころからの念願が叶い、阪神タイガースにドラフト会議 ドラフト4位で入団。身長177cm、体重79kg。右投げ左打ち。背番号24。ポジションは外野手。
入団後、3年間はあまり出番に恵まれなかったが、1995年後半戦ごろより不調だった亀山努に代わり外野手として出場、そのままシーズン終盤まで6番・右翼手 ライトで出場を続け、この年よりほぼレギュラーの座を手中にした。
百武裕司(ひゃくたけゆうじ 1950年 - 2002年4月10日)はコメットハンター(彗星捜索家)として国内外に知られるアマチュア天文家。長崎県島原市出身。長崎県立長崎北高等学校を経て九州産業大学芸術学部写真学科卒業。
2個の彗星を発見したことで国内外に知られている。1995年12月25日にC/1995 Y1、1996年1月30日にはC/1996 B2を相次いで発見した。特に、百武彗星 (C/1996B2) C/1996 B2は1996年3月には明るさが0視等級 等級、尾の長さが60度以上という世紀の大彗星となったため、同氏の名は世界中の天文学者、天文ファンでは知らない人が極めて少ないほどでもある。
また、功績により、シカゴ名誉市民など数々の表彰を受けている。
百武 源吾(ひゃくたけ げんご、明治15年(1882年)1月28日 - 昭和51年(1976年)1月15日)は大正~昭和期の海軍軍人。海軍大将。佐賀県出身。
佐賀藩の足軽・百武庭蔵の五男として生まれた。海軍大将の兄・百武三郎 三郎は三男、陸軍中将の弟・百武晴吉 晴吉は六男である。少年時代の源吾は農学を志していたが、海軍兵学校を目指していた兄(四男)幸治が志半ばで病死したことを機に、幸治の遺志を継いで海軍を目指すことにした。
佐賀中学、海城中学を経て、明治35年(1902年)12月、海軍兵学校30期を首席で卒業。30期で唯一、大将まで昇進した。
遠洋航海を終えて明治36年(1903年)9月より三笠 (戦艦) 三笠乗組に任じられ、主砲着弾観測員を勤めた。翌年3月に三笠砲術長に加藤寛治少佐が着任し、8月10日の黄海海戦 (日露戦争) 黄海海戦でヴィルヘルム・ウィトゲフト提督を爆死させた「運命の着弾」に貢献した。加藤の采配に感動した百武だったが、後に私的な諍いから加藤不信に転じて互いの命運を左右することになる。
姫野 達也(ひめの たつや、1952年2月1日 - )は、福岡県福岡市出身の日本のフォークソング フォーク歌手 シンガー。元チューリップ (フォークグループ) チューリップのボーカル、キーボード。
アマチュア時代は海援隊 (フォークグループ) 海援隊のメンバーの千葉和臣とともにライラック (フォークグループ) ライラックを結成していたが、財津和夫に誘われチューリップに加入、1972年上京し、東芝EMIより『魔法の黄色い靴』でレコードデビュー。姫野がリードボーカルをとった3曲目の『心の旅』(1973年)がヒットしチューリップはメジャーバンドとなる。
その後も『夏色のおもいで』(1973年)、『銀の指環』(1974年)、『ぼくがつくった愛のうた~いとしのEmily~』(1974年)などの曲のボーカルを担当するが、1985年にチューリップを脱退し、安部俊幸、伊藤薫、風祭東とオールウェイズを結成し1986年シングル『好きさ』、アルバム『ALWAYS BE TRUE』でデビューするが2006年6月現在、活動休止状態にある。
氷室 冴子(ひむろ さえこ、本名:碓井 小恵子(うすい さえこ)、1957年1月11日 - )は、日本の小説家。
北海道出身。北海道岩見沢東高等学校、藤女子大学文学部国文科卒業。1977年大学在学中に、「さようならアルルカン」で小説ジュニア(現・コバルト)第10回青春小説新人賞佳作を受賞してデビュー。少女小説を中心に活躍している。趣味はチェス。
クララ白書
アグネス白書
なんて素敵にジャパネスク
雑居時代
なぎさボーイ
多恵子ガール
北里マドンナ
碧(あお)の迷宮
プレイバックへようこそ
ヤマトタケル
さようならアルルカン
シンデレラ ミステリー
マイ・ディア―親愛なる物語
日村勇紀(ひむらゆうき、1972年5月14日-)はバナナマンのツッコミ担当。
広島県広島市生まれ、神奈川県相模原市育ち。
愛称は「日村」・「ヒムケン」(主にくりぃむしちゅーなどが使う)など。
芸人を目指すことを初めて父親に話した時は全く反対されず、むしろ「他に何があるんだ?」とまで言われ、あっさり了承された。
:フルネームが「日村勇紀」であるにもかかわらずニックネームは「ヒムケン」である。これは、昔組んでいた相方が「ハラケン」と呼ばれていたため、ついでに日村もヒムケンにしちゃおうみたいなノリでつけられたらしい。高校時代のあだ名である。
意外にもスポーツ万能で、上溝中ではテニス部でキャプテンをつとめていた。
ビビる 大木(ビビる おおき、本名:大木 淳(おおき じゅん)、1974年9月29日 - )はお笑いタレント。埼玉県春日部市出身。ワタナベエンターテインメント所属。元ビビるの一人。血液型はO型。
元々は大内登とお笑いコンビ「ビビる」を結成していた。担当は大木がボケ、大内がツッコミ。デビュー当時はテツandトモよりいち早くジャージを着用して活動。その後「はじめまして、こんばんみ!!」「わっしょい!」のギャグがブレイクするなどし、バラエティ・コントなどに活動の場を広げていった。
しかし、相方の大内が突然芸能界からの引退を表明し、大木はピン芸人に。その際コンビ名「ビビる」の名残りを残して現在の芸名に改名した。本人曰く「ビビるは『バンド制』だから、相方が抜けても自分はビビる。新メンバーが来る可能性もある」とのこと(とんねるずのみなさんのおかげでした(フジテレビ系列)のコーナー・マネーのヘラ(日本テレビ系列で放送されてたマネーの虎のコピー)に出演して相方を募集している事を言っていたが、出演者の一人の未唯に「あなたは相方に愛想付かれてるんでしょ」と厳しく言われた)。なお、元相方の大内は裏方ではあるものの芸能界で仕事をしており、打ち合わせなどで会うことがあると少し気まずいらしい(仲が悪いわけではない)。
日比野 克彦(ひびの かつひこ、1958年8月31日-)は日本の芸術家。岐阜県岐阜市出身。岐阜県立加納高等学校卒業。東京芸術大学大学院修了。
1982年:日本グラフィック展グランプリを受賞
1983年:東京ADC賞最高賞を受賞
1995年:東京芸術大学助教授に就任
1999年:毎日デザイン賞を受賞
作品集「KATSUHIKO HIBINO」
「海の向こうに何がある」
現代美術家 ひひの かつひこ
日本の美術家 ひひの かつひこ
1958年生 ひひの かつひこ
日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年10月4日 - )は医師。山口県山口市生まれ。勲等は勲二等瑞宝章。学位は学士 医学士(京都帝国大学)。東京都名誉都民。東京都中央区名誉区民。名誉博士(人文科学)(トマス・ジェファーソン大学)、名誉博士(マックマスター大学)。その他の栄誉に文化功労者、文化勲章、東京都文化賞、日本医師会最高優功賞、日米医学科化学者賞(フィラデルフィア医師会、日本キリスト教文化協会日米キリスト教文化功労者。
関西学院中学部、京都の第三高等学校 (旧制) 第三高等学校を経て京都帝国大学医学部に入学。在学中に結核にかかり、当時実家の有った広島市で約一年間闘病生活を送る。1937年に京都帝国大学を卒業。1941年に聖路加国際病院の内科医となり、内科医長、院長を歴任する。現在は同病院名誉院長であり、数多くの著書でも知られている。なお、よど号ハイジャック事件に遭遇した経験を持つ(九州で開催される内科学会に出席するため搭乗していた)。日本初のハイジャック事件ということもあり、犯人グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」という犯行声名に対し、ハイジャックという言葉の意味を知らなかった日本人乗客のために自ら手を挙げ、「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」と機内で説明している。