平尾 誠二(ひらお せいじ、1963年1月21日 - )は元日本代表ラグビー監督。京都府出身。京都市立伏見工業高等学校、同志社大学商学部卒業。同志社大学大学院総合政策科学研究科(修士課程)修了。現在神戸製鋼コベルコスティーラーズゼネラルマネージャー。
高校時代、テレビドラマ「スクール☆ウォーズ」の舞台となった伏見工業高校で山口良治監督のもと全国制覇。大学時代、同志社大学にてラグビー大学選手権4連覇。社会人(神戸製鋼所 神戸製鋼)日本選手権で7連覇(1~3連覇めまではキャプテンを務める)。
『気づかせて動かす』『「知」のスピードが壁を破る』『勝利のチームメイク』『「日本型」思考ではもう勝てない』などの著作がある。
平岩 弓枝(ひらいわ ゆみえ、女性、1932年3月15日 - )は日本の脚本家、小説家。
東京府豊多摩郡代々幡町(現・東京都渋谷区代々木)の代々木八幡神社の一人娘として生まれる。1955年日本女子大学国文科卒業後、戸川幸夫に師事、その後長谷川伸主宰の新鷹会に入会。テレビドラマや演劇の脚本を書くかたわら、小説も次々と発表している。
代表作に、御宿かわせみシリーズ、はやぶさ新八御用帳シリーズなど。
1959年 -『鏨師』にて第41回直木賞受賞。
1979年 - 第30回NHK放送文化賞
1986年 - 第12回菊田一夫演劇賞大賞
1989年 - 第9回日本文芸大賞
1990年 -『花影の花』にて第25回吉川英治文学賞
1997年 - 紫綬褒章
平岩正樹(ひらいわ まさき、1953年 - )は外科医。広島県生まれ。東京大学工学部物理工学科卒業。富士写真フイルムの研究所に勤務。1984年に東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部付属病院、国立がんセンター、共立蒲原総合病院、同愛記念病院に勤務。
がん治療についての著書を数多く書く。
広島県出身の有名人一覧
日本の医学者 ひらいわまさき
1953年生 ひらいわまさき
平岩外四(ひらいわ がいし、大正3年(1914年)8月31日-)は、愛知県常滑市出身の財界人、経営者。東京電力会長、第7代経団連会長(在任、平成2年(1990年)12月21日-平成6年(1994年)5月27日)。財界随一の読書家として知られる。
6歳で父親を亡くし、母親に育てられる。愛知県立半田高等学校 愛知七中入学祝に母親から夏目漱石全集を贈られる。一族から大学進学を反対されるが、母親が反対を押し切り、東京帝国大学法学部へと進ませてくれた。昭和14年(1939年)に大学を卒業。東京電灯(現在の東京電力)に入社した。しかし、昭和16年(1941年)に陸軍に召集される。配属されたニューギニア戦線でジャングルを敗走し、飢えと熱病のため、平岩のいた隊は107名中、最後には生存者7名という地獄の体験をする。この体験は、平岩に人生を達観させる契機となった。終戦後、会社に戻り、そこで木川田一隆の目にとまり、平岩は木川田を「経営についても人生についても終生の師」と尊敬するようになる。昭和51年(1976年)10月東京電力社長に就任する。昭和59年(1984年)6月社長を退き、会長に就任。
平出 隆 (ひらいで たかし,1950年 - ) は、福岡県門司市(現北九州市門司区)出身の詩人、文芸評論家である。多摩美術大学美術学部芸術学科教授(2006年から2008年まで芸術学科長)兼同大芸術人類学研究所所員。アイオワ大学国際創作学科客員詩人やベルリン自由大学客員教授を歴任。一橋大学社会学部卒業。
1972年、連作詩篇「花嫁」を『ユリイカ』に発表。
1982年詩集『胡桃の戦意のために』で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。1993年北九州市民文化賞及び散文集『左手日記例言』で読売文学賞受賞。2003年小説『猫の客』で木山捷平文学賞受賞及び三島由紀夫賞候補となる。『ベルリンの瞬間』で紀行文学大賞受賞。2004年芸術選奨文部科学大臣賞(評論等)及び第42回藤村記念歴程賞及び造本装幀コンクール経済産業大臣賞受賞。
平出 修(ひらいで しゅう、1878年4月3日 - 1914年3月17日)は日本の小説家・作家・歌人・弁護士。大逆事件(幸徳秋水事件 幸徳事件)で弁護人をつとめた。
新潟県中蒲原郡石山村(現 新潟県新潟市)に庄屋の8男として生まれる。1903年に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、翌1904年に弁護士登録をおこない神田区北神保町で開業する。石川啄木と親交をむすぶ。
2006年現在、生家跡には平出修 生誕の地として記念石碑が建てられている。
『定本平出修集』、春秋社、1965年6月。
『定本平出修集』続、春秋社、1969年6月。
『定本平出修集』第3巻(作品三・資料・研究)、春秋社、1981年7月。
平泉 渉(ひらいずみ わたる、1929年11月26日 - )は昭和後期から平成期(1960年代後半~1990年代前半)の政治家、外交官。元科学技術庁長官・経済企画庁長官。福井県勝山市出身。
国史学者で東京帝国大学教授の平泉澄の三男として生まれる。1952年東京大学法学部政治学科を卒業すると、外務省の在外研究員となり、フランスのグルノーブル大、マルセイユ大などに在学した。その後在仏大使館に勤務。1954年に訪仏した鹿島守之助を案内したことがキッカケで、守之助に見込まれて三女三枝子と結婚する。やがて国連日本政府代表部二等書記官、駐イラン大使館書記官を経て、1965年守之助に呼び戻されて鹿島建設専務取締役となり、同年第7回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補し当選する。
平泉成(ひらいずみ せい、本名・平泉征七郎、1944年6月2日-)は、日本の俳優。主にテレビドラマで活躍。ライトハウス所属。血液型はO型。愛知県額田郡額田町(現・岡崎市)出身。
愛知県立岡崎商業高校卒業後、本名の平泉征七郎で1964年、映画「酔いどれ博士」(大映)でデビュー。大映映画で活躍。その後、芸名を平泉征→平泉成と改名。テレビドラマやバラエティーなど活躍の場を広げる。ケーナ(笛)の制作を趣味とする。
シリアスな役柄が多い中で、日本放送協会 NHKのバラエティー番組「謎のホームページ サラリーマンNEO」(2006年レギュラー化)では新人サラリーマンの役柄でコミカルな演技に挑戦している。
平泉 澄(ひらいづみ きよし、 1895年2月26日(戸籍は15日) - 1984年2月18日 )は、日本の歴史学者。文学博士。白山神社名誉宮司。正四位勳三等。布布木、寒林子、また白山隠士と号す。「青々塾」主宰。
戦前戦中に東京帝国大学教授として、いわゆる皇国史観の提唱者とされる。
金沢工業大学名誉教授・平泉洸、科学技術庁長官・経済企画庁長官を歴任した平泉渉の父。金沢工業大学教授文学博士・平泉隆房の祖父。
1895年(明治28年)
平泉寺白山神社祠官第二十三世・平泉恰合の嫡男として、福井県大野郡平泉寺村平泉寺(現在の勝山市)に生まれる。
1918年(大正7年)
東京帝国大学文科大学史学科国史学科を卒業。
平石 洋介(ひらいし ようすけ、1980年4月23日 - )はプロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する外野手。背番号は33で左投げ左打ち。
学校法人PL学園 PL学園高→同志社大学 同大→トヨタ自動車硬式野球部 トヨタ自動車→東北楽天ゴールデンイーグルス(2004年ドラフト会議 ドラフト7巡目指名)
俊足巧打の外野手。アマ時代はPL学園高校、同志社大学、トヨタ自動車と一貫して名門野球チームでプレーした。高校時代には甲子園で松坂大輔のいた横浜中学校・高等学校 横浜高校と対戦している(1998年春・夏)。2004年ドラフト7巡目指名で東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。1年目は25試合の出場のみにとどまったが、潜在能力はチーム随一。2年目以降の期待は大きい。
平井理央(ひらい りお、1982年11月15日 - )は、フジテレビジョン フジテレビアナウンサー。元タレント。東京都出身。身長163cm、血液型A型。
趣味:音楽鑑賞、映画鑑賞、洋裁、読書、お昼寝(異様に寝つきが良いとのこと)。
好きな映画は「ニューシネマ・パラダイス」、「月とキャベツ」、「スター・ウォーズ」、「ドラえもん」や「ワンピース」など。
特技:英語、ピアノ、料理(特にお菓子作りが得意)。
資格:英語検定2級、スキューバーダイビングCカード、普通自動車免許。
特徴:左利き。
学歴:東京学芸大学附属大泉小学校→東京学芸大学附属大泉中学校→東京学芸大学附属高等学校→慶応義塾大学法学部卒業。
平井 光親(ひらい みつちか、1966年11月8日 - )は、福岡県志免町出身のプロ野球選手(外野手)、コーチ。引退後は千葉ロッテマリーンズ編成部を経て、2006年に二軍打撃コーチ補佐に就任。
東福岡高等学校 東福岡高から愛知工業大学 愛知工大を経て、1988年のドラフト会議 ドラフト6位でロッテに入団。1991年外野のレギュラーとなり、打率.314で首位打者も獲得。以後、シュアな打撃と堅実な守備でチームを支える。1998年にも打率.320で2位。2002年のシーズン終了後に現役を退いた。オールスターゲーム (日本プロ野球) オールスター出場1回。
2006年から二軍打撃コーチ補佐を務める。
身長・体重 175cm 78kg
平井 正史(ひらい まさふみ、1975年4月21日 - )は、愛媛県宇和島市出身の中日ドラゴンズに所属する日本人プロ野球選手である。ポジションは投手で、背番号は36番。右投右打。
故障からカムバック賞を受賞するまでに復活を遂げた右腕。右肘に手術痕が残る。
愛媛県立宇和島東高等学校 宇和島東高校時代は1993年の甲子園に春夏連続出場を果たす。その年のドラフトでオリックス・バファローズ オリックス・ブルーウェーブより1位指名を受け入団(同い年オリックス同期入団には斉藤秀光)。
入団2年目の1995年シーズンに抑えとして42セーブポイント(15勝5敗27セーブ)を挙げ新人王・最優秀救援投手のタイトルを獲得する大車輪の活躍を見せ、イチロー(現シアトル・マリナーズ)らとともに、オリックスの黄金時代(1995年リーグ優勝、1996年日本一)を築く。しかし1996年途中より肘をはじめ度重なる故障に悩まされるようになり次第に登板数が減少、1999年以降の4年間に至っては勝ち星を挙げることができないまま、2002年オフに山崎武司とのトレードで中日に移籍することになった。