中川 晃教(なかがわ あきのり、1982年11月5日 - )は、日本の男性シンガーソングライター。
宮城県仙台市出身。小学生時代から作曲を始め、地元の学校に通いながら音楽活動を続ける。東北高等学校を経て、東北文化学園大学入学。
地元のテレビ局でとり上げられ、徳間ジャパンのプロデューサーの目にとまり、2001年「I WILL GET YOUR KISS」でデビュー。東京放送 TBS系ドラマ「マリア (テレビドラマ) マリア」の主題歌に起用され20万枚を超えるヒットとなる。
2001年、2ndシングル「I say good-bye」(テレビ朝日系ドラマ「最後の家族」主題歌)。2002年リリースの3rdシングル「White Shiny Street」のビデオクリップには、女優の藤原紀香が出演している。
中上 健次(なかがみ けんじ、男性、1946年8月2日 - 1992年8月12日)は、和歌山県新宮市生まれの作家・批評家・詩人。本名は、表記は同じだが読みは「なかうえ」。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀、次女は陶芸家で作家の中山菜穂。部落問題 被差別部落の出身であり、部落のことを「路地」と表現する。初期は、大江健三郎から文体の影響を受けた。デビュー作は、村上龍『限りなく透明に近いブルー』の先行的作品とも呼べる『灰色のコカ・コーラ』。柄谷行人から薦められたウィリアム・フォークナーに学んだ先鋭的かつ土俗的な方法で、紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、「紀州サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。1975(昭和50)年、『岬』で、第74回芥川龍之介賞 芥川賞を受賞。戦後生まれで初めての芥川賞作家として、話題を呼んだ。早世。
中垣内 祐一(なかがいち ゆういち、1967年11月2日 - )は、1992年に行われたバルセロナオリンピック バルセロナ五輪等の多くの国際大会に出場した男子バレーボール元日本代表選手、現在日本バレーボールリーグ機構 Vリーグ・堺ブレイザーズの監督である。90年代を代表する男子バレーボールの名選手でありスーパーエースとして数々の国際大会に出場し世界の舞台で大活躍した。引退しても未だにファンも多くバレーボール界に残した功績は計り知れない。名字に由来する”ガイチ”のニックネームでもよく知られている。福井県福井市出身。身長193cm。最高到達点346cm。全盛期のジャンプ力は1m以上あったといわれている。
長岡 實(ながおか みのる、1924年5月16日 - )は、日本の官僚。財務省 大蔵事務次官。
いわゆる海軍経理学校出の「短現組」として、主計官僚中のエリートとして、大蔵事務次官まで務める。1998年(平成10年)に読売ジャイアンツ 巨人ファンということもあり渡邉恒雄のバックアップも受けながらプロ野球セントラル・リーグ会長に内定しながら、当時の大蔵スキャンダルの風潮もあったのか就任しなかった。一中の後輩で、その後も同じく大蔵事務次官まで上り詰めた吉野良彦が日本銀行総裁を固辞したことと併せ、よく引き合いに出されもした。日本専売公社が日本たばこ産業 (JT) として株式会社化した時に、初代社長として立ち会い、その後大蔵次官経験者の指定席であった東京証券取引所理事長に就任するなど、要職を歴任した。他にも、財団法人資本市場研究会理事長、財団法人アフィニス文化財団理事長。東大ボート部淡青会長、銀杏会長、日比谷高校如蘭会長など。因みに、一中先輩の竹内道雄(元大蔵事務次官)に東大ボート部から大蔵省入りを勧められた。泉鏡花など文芸や音楽などに造詣が深いことでも知られている。
長岡 輝子(ながおか てるこ、1908年1月5日 - )は、日本の女優。
岩手県盛岡市出身。本名:篠原 輝子(しのはら - 、旧姓・長岡)。東洋英和女学院大学 東洋英和女学院卒、文化学院中退。初出演作:「風にそよぐ葦」(1951 春原政久)。1928年にパリに演劇修行に留学し、1930年に帰国。金杉惇郎とテアトル・コメディを設立。1939年文学座へ。1947年、芥川比呂志、加藤道夫、荒木道子、などと共に劇團「麦の會」発会。1971年に文学座退団後は、宮沢賢治の作品や聖書などの朗読をライフワークとしている。
2003年、菊池寛賞受賞。
アテルイ(2002)
おしん(1984)
遠野物語(1982)
華麗なる闘い(1969)
二匹の用心棒(1968)
中尾 隆聖(なかお りゅうせい、本名・竹尾 智晴(たけお ともはる)1951年2月5日 - )は、東京都出身の俳優、歌手、声優。かつては本名や南谷 智晴(みなみや ともはる)名義で活動。81プロデュース所属。
声優としては『アンパンマン それいけ!アンパンマン』(ばいきんまん役)、『ドラゴンボールZ』(フリーザ役)、『にこにこぷん』(ぽろり役)などが代表作。
子供の頃に児童劇団「劇団ひまわり」に入団し、5歳でラジオドラマ『フクちゃん』に出演した。1950年代後半から芸能活動を行なう。中学生で一人暮らしを始め、テレビでも声優を始める。
海外ドラマ『我が家がいっぱい』、アニメ テレビアニメでは1965年の『宇宙パトロールホッパ』の主人公ジュン役がデビュー作となる。高校を卒業すると、新宿でスナックを経営しながら、役者の仕事を続けた。声優でも草分け的存在になるが、声優業と並行して1970年代半ばまで数々のテレビドラマに出演しており、81プロデュースに所属するまでは声優と呼ばれるのに反発していたという。