知久 寿焼(ちく としあき、1965年2月10日 - )は、元・バンド『たま (バンド) たま』のメンバーであったミュージシャン。本名:寿明。埼玉県川口市出身。埼玉県立川口高等学校卒業。
ライブハウスで弾き語りをしていた頃、石川浩司、柳原幼一郎(現・陽一郎)と出会いバンド結成。(詳細はたま (バンド) たまの項目を参照されたい)
東京放送 TBS系音楽番組『三宅裕司のいかすバンド天国』出身バンド(イカ天バンド)の代表格『たま』のギター・マンドリン・ウクレレ担当として活動。シュールな歌詞にアコースティックなサウンドを合わせた個性的な音楽、そしてキノコのような髪型にチャンチャンコ・下駄履きというスタイルで大きなインパクトを与える(なお現在は坊主頭で帽子を着用している事が多い)。
千頭 ひなた(ちかみ ひなた 1972年1月24日)は日本の小説家。高知県出身。大阪芸術大学文芸学科卒業。2003年、『ダンボールボートで海岸』で第27回すばる文学賞受賞。
水曜セカイ
ダンボールボートで海岸
モンスターフッズ・エンド
日本の小説家 ちかみひなた
近田春夫(ちかだはるお、1951年-)は日本のミュージシャン、音楽プロデューサー、音楽評論家。「作詞センター」「作曲研究所」のペンネームを使用することも多い。東京都出身。慶応義塾大学中退。
日本のヒップホップ創成期の伝説的バンド、ビブラストーンを率いたことで有名。他にも、ソロ、ハルヲフォンでの活動でも知られる。
タモリ倶楽部の空耳アワーの出演者として常連で、自身もネタ投稿経験あり。ネタはストロベリー・パスのイエローZから、「Woman Called Yellow Z」(どのように聞こえるかは推して知るべし)で、安斎肇からは「近田さん50になったのに・・・」と呆れられた。(もっとも、「ストロベリー・パス」のメンバーだったつのだ☆ひろによれば、もともとそのように聞こえるように作詞したのだというこぼれ話がある。)
地井 武男(ちい たけお、1942年5月5日 -)は、日本の俳優。千葉県八日市場市(現・匝瑳市)出身で、旧・八日市場市および匝瑳市の名誉市民となっている。また、実家は果物店を営んでいた。愛称は「チイチイ」(ダウンタウンが命名)。また現在はCMにて、「人ふくろう」として有名である。
千葉県立匝瑳高等学校を卒業し、俳優座養成所に第15期生として入所。同期には原田芳雄、林隆三、前田吟、夏八木勲、秋野太作、栗原小巻など、錚々たるメンバーがいた。
養成所卒業後はテレビ・映画で活躍。岡本喜八監督『斬る』で映画初出演し、1972年には今井正監督『海軍特別年少兵』で初主演。以降は、渋い脇役や悪役から、良きマイホームパパまで、幅広い役柄を演じ分けて活躍、近年はバラエティ番組やCMにも多く出演し、広い世代から認知されている。
千秋 実(ちあき みのる、1917年4月28日 - 1999年11月1日)は、北海道中川郡恩根内村(現・美深町)生まれの俳優。本名は佐々木 勝治(ささき かつじ)。
呉服、洋品雑貨店の三男として生まれる。幼少期に上砂川町に移住し小学校時代を過ごす。札幌の北海中(現・北海高等学校)では陸上部に所属し、400m走者として活躍したが、足首捻挫で陸上競技を断念。 中央大学専門部法科在学中から芝居に興味をもち、1936年、新築地劇団に研究生として入団。同年、築地小劇場での劇団公演、山本有三作『女人哀詞』で初舞台を踏む。1946年、薔薇座を結成。同劇団の舞台『堕胎医』(菊田一夫作で、映画『静かなる決闘』の原作)を見た黒澤明監督から映画出演を勧められ、1949年、『野良犬』でデビュー。以後、11作の黒澤作品に出演する。『七人の侍』では、7人の中で最初に討ち死にしてしまうが、明るく人のよい貧乏侍を好演した。『隠し砦の三悪人』で藤原釜足と演じた農民コンビは、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』に登場した2体のロボット、R2-D2とC-3POのモデルとなった。1975年に脳内出血で倒れたが、1976年に日本テレビのドラマ『喜びも悲しみも幾歳月』で再起。1985年、『花いちもんめ。』(伊藤俊也監督)で日本アカデミー賞第9回主演男優賞を受賞。1989年、勲四等瑞宝章受章。1999年11月、急性心肺不全のため東京都府中市内の病院で死去。
丹保 憲仁(たんぼ のりひと 1933年3月10日-)は、日本の工学博士。放送大学学長。国際水協会日本国内委員会委員長。元北海道大学校長 総長。北海道出身。
1951年 北海道札幌東高等学校卒業
1957年 北海道大学大学院工学研究科土木工学専攻修士課程修了
1957年 北海道大学工学部講師
1958年 北海道大学工学部助教授
1964年 フロリダ大学化学科研究員
1965年 博士 工学博士(北海道大学)
1969年 北海道大学工学部教授
1987年 土木学会環境工学委員会委員長
1993年 北海道大学工学部長
1995年 北海道大学総長
1997年 日本学術会議会員
2001年 放送大学学長、北海道大学名誉教授、土木学会会長、国際水協会日本国内委員会委員長
丹波 義隆(たんば よしたか、1955年7月13日-)は、東京都出身の俳優。俳優・故・丹波哲郎の長男。曽祖父は丹波敬三。先祖は丹波康頼。東京都立杉並高等学校卒業。成城大学文芸学部中退。
高校在学中の1973年、大森健次郎監督第1回作品『二十歳の原点』(東京映画)に角ゆり子扮するヒロイン高野悦子の弟役で映画デビュー。ついで岡本喜八監督の東宝映画『青葉繁れる』に名門高校の劣等生役で主演しユニークな個性を発揮。1977年には『アラスカ物語』で丹波哲郎と父子共演を果たす。テレビは、1975年日本放送協会 NHK『水色の時』を皮切りに多数出演。中でも「ジャッカー電撃隊」では、主役の桜井五郎役(スペードエース)に抜擢され、その活躍は当時番組を見ていた多くの子どもたちに強く印象付けられたほどである。俳優養成所「丹波道場」主宰でもある。趣味はラジコンの模型作り。また鉄道模型のZゲージとスキーとスキューバーダイビングとゴルフと社交ダンスにも造詣を持ち、自身のホームページで紹介している。妻は父・丹波哲郎のマネージャーも務めており、両親は社交ダンスのインストラクター。一男二女の父でもあり、子どもたちとは旅番組で共演する事もある。
丹波 康頼(たんば の やすより、延喜12年(912年) - 長徳元年(995年))は平安時代の医家。官職は針博士、丹波介、左衛門佐。
丹波国天田郡の出身。中国からの渡来人の流れを汲む坂上氏の分かれであり、遠祖には後漢の霊帝 (漢) 霊帝があるという。丹波氏に改める前は劉芳氏。同時代における東洋医学の権威であり、永観2年(984年)に『医心方』全30巻を編集し朝廷に献上するなど、日本医学史において大きな足跡を残した。
そうした功績をもって朝廷より丹波宿禰姓を賜り、以来医家として連綿と続く丹波氏の祖となる。子孫は代々典薬頭を世襲し、侍医に任じられる者を輩出した。うち著名な者としては、『医略抄』を著した曾孫の丹波雅忠、あるいは後世において豊臣秀吉の侍医を務めた施薬院全宗や江戸幕府の奥医師・多紀元孝などが挙げられる。
丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 2006年9月24日)は、東京都新宿区出身の日本の男性俳優。
本名は、丹波正三郎。東京・大久保の名家の三男。祖父丹波敬三 敬三は大正時代を代表する薬学者として知られ、系図を遡ると平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼に辿り着くという(丹波の国の農民だから丹波と名乗ったとの説もある)。
成城学校(新宿区原町)を卒業後、旧制第二高等学校(東北大学)や陸軍士官学校への入学試験に失敗、中央大学法学部英法科卒業。在学中に学徒出陣・GHQ通訳のアルバイトを経験。卒業後は団体職員となるも俳優を志し、創芸小劇場、文化座を経て、1952年「殺人容疑者」(新東宝)にて主演級の役でデビューしたが、その後、脇役ばかりの日々を過ごす。
丹野 みどり(たんの みどり、1973年7月3日 - )は、中部日本放送 中部日本放送(CBC)のアナウンサーである。愛知県名古屋市生まれ。名古屋大学文学部卒業。血液型はA型。
1996年にCBC入社。デビュー当初はラジオ深夜番組などバラエティー系を数多く担当していたが、現在はテレビにおける夕方の顔として報道番組を中心に活躍している。
1999年にはたいせー(シャ乱Qのキーボード)プロデュースの女子アナユニットLove Power Beautyのメインボーカルとして「Din Don Dan」「Cool Bless Cool」をリリース。また2000年には「燃えよドラゴンズ! 燃えよドラゴンズ!2000(ミレニアム)」にコーラス(CBCアナウンサーズ)として参加した。
丹野 忍(たんの しのぶ、1973年 - )は、茨城県生まれのイラストレーター。
1997年、立命館大学文学部史学科卒業。イラスト技術を独学で習得し、エンターブレイン/ファミ通文庫編集部に持ち込んだ際に当時徳間文庫から再刊行されていた『銀河英雄伝説』の口絵の仕事を紹介されたことがイラストレーターになったきっかけ、と本人語る。デビューとなった徳間文庫『銀河英雄伝説』第10巻は1998年6月に刊行されている。以後、小説の挿画、テレビゲームのイラストレーション、ゲームキャラクターのデザイン、CDジャケットデザイン、アニメーションデザインなど幅広く活躍している。
装幀・挿入画