立川 談春(たてかわ だんしゅん、本名=佐々木 信行、男性、1966年6月27日 - )は東京都出身の落語家。落語立川流所属。出囃子は『鞍馬』。
1984年3月 - 七代目立川談志に入門し、前座名立川談春を名乗る。
1988年3月3日 - 二つ目に昇進、引き続き立川談春を高座名として名乗る。
1997年9月20日 - 真打昇進。
90年代には弟弟子立川志らく、兄弟子朝寝坊のらく(故人・前名立川談々)と立川ボーイズとして深夜番組「ヨタロー」に出演するなど活躍。一次気の迷いからか本名でミュージカルに出演することもあったが、真打昇進を弟弟子の志らくに先を越されてから一念発起し、単なる古典のコピーから時としてオリジナリティを持たせる古典の新解釈を見せるものもあり進境著しい。
立川 談四楼(たてかわ だんしろう、1951年 - )は、群馬県生まれの落語家、作家。本名、高田正一。
1970年、(昭和45年)群馬県立太田高等学校を卒業、立川談志に入門。前座名は寸志。1975年の二つ目昇進後談四楼と改名。1983年、落語協会での真打昇進試験において、談四楼と兄弟子の小談志(後に談志門下を離れ喜久亭寿楽になる)が不合格になる。(これをきっかけに談志は弟子をつれて落語協会を離れ、落語立川流を結成)同年、落語立川流真打に昇進。
落語界の将来に疑問を持ち、書きつづった小説集『シャレのち曇り』で1990年に作家デビュー。
TVやラジオ出演、新聞や雑誌の連載など幅広く活躍中。また130回を越えた東京・下北沢での独演会をはじめ、講演における「話し方教室」で全国行脚を展開中。
立川 談之助(たてかわ だんのすけ、1953年6月22日 - )は、日本の落語家・元参議院議員秘書。群馬県前橋市出身。群馬大学教育学部附属中学校、群馬県立前橋高等学校、明治大学商学部卒業。
1974年 立川談志に入門。参議院議員松岡克由(談志の本名)の私設秘書に就任。
1978年 二つ目に昇進。初代立川談之助を名乗る
1992年 真打昇進
新作落語に取り組む。快楽亭ブラックらと「トンデモ落語の会」に参加
世相講談にも定評がある
TVゲームやアニメなど、オタク関係の知識も豊富であり、雑誌のコラムを執筆していたこともある。
と学会会員。
「禁断のブラック・ギャグ 超過激に笑っちゃう!」
立川 談笑(たてかわ だんしょう、1965年(昭和40年)9月23日-)は、落語立川流所属の落語家。東京都江東区出身。本名は小田桐 英裕(おだぎり ひでひろ)。早稲田大学法学部卒業。出囃子は『野球拳』。身長182cmと落語家の中でも高い方。基本は古典落語だがアレンジ色が強い。
1992年 - 7代目立川談志に入門、前座名「談生」
1996年 - 二つ目に昇進
2003年 - 高座名を「談笑」に改める。
2005年 - 真打昇進
2006年 - 国立演芸場の6月上席(1~10日)に出演予定。1983年の落語協会脱会以後、落語立川流 立川流としては初定席。
情報プレゼンター とくダネ!(フジテレビジョン フジテレビ(FNN/フジネットワーク FNS)系列)のレポーター プレゼンター※真打になるまでは本名で出演していたが現在は高座名。
立川 談志(たてかわ だんし)は落語の名跡。当代は7代目。
7代目立川 談志(1936年1月2日 - )は、1960年代以降の落語界を代表する噺家(落語家)の一人である。本名は松岡克由。古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けている。古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおそうという野心的努力は評価されているが、古典本来の持つ格調高さを損なう場合も有る。落語のほか講談、漫談をも得意とするなど、芸域は広い。自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。出囃子は『木賊刈』。
1936年1月2日、東京・小石川に生まれる。
立川 談慶(たてかわ だんけい、1965年(昭和40年)11月16日-)は、落語立川流所属の落語家。長野県上田市(旧丸子町)出身。本名は青木 幸二(あおき こうじ)。慶應義塾大学経済学部卒業。出囃子は『インザムード』。
サラリーマン、今は無き吉本興業福岡事務所第一期、立川流CコースからAコース正式入門と経歴が特殊。
1988年 4月、ワコール 株式会社ワコール入社、福岡支社に配属
1991年 4月、同社を退社。翌月に立川流Aコースに正式入門、前座名「ワコール」
2000年 12月、二つ目に昇進、談志の命名により「談慶」に改名
2005年 3月、真打昇進(慶応大学では初の落語家)
2006年 3月、ひかり荘で25時間連続落語、25席を演じる。
立川 志らく(たてかわ しらく、本名=新間一弘、男性、1963年8月16日 - )は東京都世田谷区出身の落語家。落語立川流所属。出囃子は『鳩ぽっぽ』。
1985年10月 - 七代目立川談志に入門し、前座名立川志らくを名乗る。
「志らく」の名はフランスの政治家、ジャック・シラクにちなむとされる。
1988年3月 -まぁまぁだったので 二つ目に昇進、高座名は引き続き、立川志らくを名乗る。
1995年11月 - 真打ち昇進。
90年代には兄弟子朝寝坊のらく、立川談春を利用し、立川ボーイズとして深夜番組「ヨタロー」に出演するなど活躍。その後真打ち昇進までは古典に打ち込み、真打昇進後はシネマ落語等の分野を開拓。
立川 志の輔(たてかわ しのすけ、1954年2月15日-)、は富山県新湊市(現射水市)出身の落語家。本名、竹内 照雄(たけうち てるお)。オフィスほたるいか所属。出囃子は『梅は咲いたか』。
富山県立新湊高等学校を経て、明治大学経営学部卒業。上京して渋谷パルコで安部公房脚本、仲代達矢主演の演劇『友達』を鑑賞し、東京の文化を直に触れて大きな衝撃を受け大いに感銘する。大学在学中は落語研究会所属。落研では伝統ある高座名「紫紺亭志い朝」を先輩の三宅裕司から引き継ぎ、後輩の渡辺正行に譲る。大学卒業後は劇団昴 劇団「昴」所属や広告代理店勤務を経験するが落語のことが忘れられず、大学落研で同級生だった立川談之助に相談し、憧れていた古今亭志ん朝一門は前座の間はアルバイト禁止だが立川流は問題ないとのアドバイスを受け、すでに妻子ある身であったために1983年29歳の時立川談志に入門。同期に立川談幸がいる。
立川 左談次(たてかわ さだんじ、1950年12月2日 - )は落語家。本名、山岡通之。東京都調布市出身。落語立川流所属。出囃子は『あの町この町』。
1968年4月七代目立川談志#7代目立川談志 立川談志に入門し、前座名立川談奈を名乗る。当時は落語協会所属。同年、談志出演の映画『昭和元禄ハレンチ節』にワンシーンながら出演。
1973年9月二つ目に昇進し、立川左談次に改名。
1982年12月真打昇進。
1983年談志の落語協会脱会及び落語立川流の創設に伴い、落語立川流所属となる。
江戸っ子らしいキレのいい口調とひょうげた調子の芸風で客席の笑いを取る、正統な江戸落語家。但し、時折噺のネタの枝葉を平気で切り落とし、さっさと楽屋へ引き上げることも有名である。
舘内 端(たてうち ただし、1947年 - )は、自動車評論家、レーシングエンジニアである。群馬県出身。日本大学理工学部卒業。日本EVクラブ代表。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。
初期の著作は、レース活動にまつわる内容のものだが、1990年代ごろからは、自動車にまつわる環境問題を技術的側面から捉えたものが多い。
東京大学宇宙航空研究所勤務の後、ベルコ・レーシング入社。1977年からはフリーランスとして活動し、同年のF1日本グランプリ (4輪) 日本グランプリでは高橋国光のチーフ・エンジニアを務める。
1994年、低公害車#超低公害車・無公害車 ZEF(ゼロ・エミッション・フォーミュラ)を自費製作し、アメリカの電気自動車レースに参戦、3位入賞を果たす。
立岩真也(たていわ しんや, 1960年8月16日-)は、日本の社会学者。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。
新潟県両津市(現・佐渡市)生まれ。新潟県立両津高等学校、東京大学文学部卒業後、同大学大学院社会学研究科修了。日本学術振興会特別研究員、千葉大学文学部助手、信州大学医療技術短期大学部講師・助教授、立命館大学政策科学部助教授を経て、2004年から現職。
『私的所有論』(勁草書房, 1997年)
『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社, 2000年)
『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店, 2004年)
『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院, 2004年)
1978年、中央大学大学院法学研究科修士課程修了。経済誌編集者、週刊誌記者などを経て、1988年に独立。企業経営者が主な取材対象で、松下幸之助の生涯を丹念に取材した『復讐する神話』(文藝春秋)でデビュー。書籍、月刊誌、週刊誌などに多数の企業レポートを執筆している。西武グループの堤義明・堤清二兄弟やソフトバンクの孫正義社長などが世間一般から高く評価されていた頃から、厳しい評価を下していたことでも知られる。また、ソニーに対しては比較的好意的な著書が多い。多くの経済ジャーナリストがテレビに出演することを好むが、立石はテレビ出演を避けているようで、コメンテーターとして顔を出すことは滅多に無い。現在も、講談社、文藝春秋、小学館、日本経済新聞社、プレジデント社などから意欲的に作品を発表し続けている。また、テレビ出演はしないものの講演活動やライター養成講座の講師などは積極的に引き受けている。
立石 尚行(たていし なおゆき、1970年5月14日-)は北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。千葉県習志野市出身。
主な登板機会は中継ぎ(セットアッパー)だが、チーム状況によっては先発もロングリリーフもこなす。投手力に弱点を抱える日本ハムにとって貴重な戦力である。あまり知名度は高くない投手だが、チーム内で屈指の安定感を誇っている。
スープカレーが大好物で、2005年の契約更改では立石カレーの開発を提案した。
日本ハムは食品会社であるためフロントも快諾、実行へ向けて進んでいる。
身長・体重 177cm、81kg
投打 右/右
出身地 千葉県習志野市