関根勤 (せきね つとむ、 1953年8月21日 - )は、東京都港区 (東京都) 港区生まれのタレント・俳優。浅井企画所属。娘はタレントの関根麻里。旧芸名はラビット関根。通称:「ラビット」、「ラビ」、「ラビー」、「カンコンキン」
東京都内に四人兄弟の末っ子(兄ふたりに姉ひとり)として生まれる。父は東京消防庁勤務の消防吏員 消防士で、謹厳実直な家庭であったと関根自身が回想している。東京都立八潮高等学校を卒業。薬師丸ひろ子は高校の後輩に当たる。
1974年、日本大学法学部管理行政学科在学中に東京放送 TBSテレビ「ぎんざNOW!」の素人コメディアン道場で初代チャンピオンとなる。その時の審査員の一人にいた現所属事務所・浅井企画の浅井社長に見出され、芸能界デビューすることになる。
関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年3月15日 - )は、埼玉県出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。左投左打。ポジションは投手・外野手。現役時代は大阪近鉄バファローズ 近鉄、読売ジャイアンツ 巨人で活躍し、引退後は広島東洋カープ 広島のコーチ。その後横浜ベイスターズ 大洋、東京ヤクルトスワローズ ヤクルトの監督を歴任した。後述のように、現役時代の背番号は一貫して19。2003年、野球殿堂入り。現在はフジテレビジョン フジテレビ・ニッポン放送の野球解説者。
日本大学第三中学・高等学校 旧制日大三中時代に藤田省三 (野球) 藤田省三監督に指導を受ける。その後、法政大学に進み、4年間にわたりエース(4年春に主将)として活躍、低迷していたチームの屋台骨を支え、当時最強の早慶に対抗した。3年秋(1948年)にチームを戦後初のリーグ優勝に導き、翌年秋には戦後初・史上2人目の通算40勝を記録した。大学通算79試合登板、41勝30敗。毎試合のように先発し、当然のように1試合を投げきった。エースの連投が当たり前だった当時の東京六大学ではあったが、通算658イニング、勝敗通算71(若林忠志と同数)の記録は、今後永遠に破られることはないだろう。1949年秋には来日したサンフランシスコ・シールズ相手に好投した。
関根紀代子(せきね きよこ 1940年12月15日-)は女流棋士 (将棋) 女流棋士。女流棋士番号2で女流一期生のうちの一人、現役最年長女流棋士。夫は関根茂九段。
アマチュア時代に女流アマ名人。男性強豪との紙上対決等によって頭角を見せることによって、女流棋界創設の際に蛸島彰子のライバル格として注目され、女流棋士となった。
強い一方でポカの多い棋風であったためにタイトルには手が届かず、タイトル数に縁のなかった升田幸三になぞらえ、「女升田」と呼ばれた。
ポカの例として冬の対局で服(厚いセーター)に香車を引っ掛けて駒台に落としてしまい、それを気づかずに持ち駒として打って反則負けを喫した対局がある。
関塚 隆(せきづか たかし、1960年10月26日 - )は、日本の元サッカー選手、コーチ・監督。現役時代のポジションはフォワード。現在はJリーグ・川崎フロンターレの監督。
千葉県船橋市生まれ。千葉県立八千代高等学校 八千代高校から一年の浪人期間を経て一般入試で早稲田大学教育学部に進学。卒業後、日本サッカーリーグ JSL1部に昇格したばかりの本田技研(現・ホンダFC)に進み、チーム隆盛の礎を築く。
1991年に現役を引退し、指導者へと転身。母校・早稲田大のコーチを経て、1993年鹿島アントラーズにコーチとして招聘され、そこで大学時代の恩師である宮本征勝の薫陶を受ける。1995年には宮本の清水エスパルス監督就任に伴い鹿島を後にするが、翌年鹿島に復帰。ジーコ、ジョアン・カルロス、トニーニョ・セレーゾら多くのブラジル人指導者の下で「勝者のメンタリティー」を学ぶ。1998年、1999年には鹿島の監督代行も務めた。
関沢 英彦(せきざわひでひこ)は1946年東京生まれの東京経済大学専任教授(2003年より)。
慶応大学法学部卒。
前・博報堂総合生活研究所所長。
1946年生 せきさわひてひこ
関口 由紀(せきぐち ゆき、1981年11月30日 - )は、日本の女性歌手である。
栃木県宇都宮市出身。血液型はAB型。テイチクレコード所属。バンタン芸術学院(現 ワタナベエンターテイメントカレッジ)卒。
幼少期から音楽をはじめ、18歳からボイストレーニングを習う。
2005年2月に「桜通り十文字」でメジャーデビューを果たす。
キャッチフレーズは、"DNAが歌わせる"。彼女の歌は現在の日本音楽界の中心的なスタイルであるJ-POPとも、演歌とも一線を画す。どちらかといえば、1970年代~1980年代の歌謡曲といったところだろうか。日本語を大切にした歌詞の内容は、ストレートでありながらも言葉あそびを用いたりするなど彼女らしい独特な部分がところどころ見られる。