重泉充香(しげいずみ みか、1982年10月8日 - )は、東京都出身の日本のファッションモデル・女優である。血液型はO型。芸名を重泉みかや松本充香としていた時期もあった。
現在は女性ファッション誌『Ray (雑誌) Ray』専属モデルでもある。ブレイブ所属。
加藤家へいらっしゃい! ~名古屋嬢っ~(名古屋テレビ放送 2004年)
おはスタ(テレビ東京 1998年)
ワンダフル(第5期ワンダフルガールズ、東京放送 2001年)
Deep Love Deep Love アユの物語 (2004年)
トリック劇場版2 (2006年)
クール・ディメンション (2006年)
ブレスエイド(ライオン) (2006年)
東京都出身の人物 しけいすみみか
日本のファッションモデル しけいすみみか
10代式守与太夫(しきもりよだゆう、1925年12月4日-1983年5月25日 本名:関口清三郎)は大相撲の元三役格行司、長野県出身。立浪部屋所属。1966年11月から1982年9月まで番付書きを担当していた。
かけ声が非常に独特で、少なくとも「のこったのこった・・・」と言っているようには聞こえない。
なお、漫画家のやくみつる氏は、彼のかけ声は「まちばり、まちばり、わったった縲怐vであった、と表現している。
1937年夏:初土俵、式守政吉。のち政臣と改名
1952年1月:十両格昇格(清三郎と改名?)
1958年7月:幕内格昇格
1966年7月:三太夫_(行司) 与太夫襲名
1970年3月:與太夫と改名
1971年5月:与太夫に戻す
式守秀五郎(しきもりひでごろう)は日本相撲協会の年寄名跡のひとつで、通称は式秀(しきひで)と呼ばれており、その由来は行司系統として行司名がそのまま名跡となったもので、安永時代(1772年~1981年)に創設したとされている。
代目の太字は、部屋持ち親方。
代目!!引退時しこ名!!最高位!!所属部屋!!襲名期間!!備 考
初代 式守秀五郎 --- ---
2代 式守伊之助(7代) --- 式守伊之助-伊勢ノ海部屋
3代 北ノ海十五郎 --- 伊勢ノ海部屋 1894年?-1908年9月(死去)
4代 有明吾郎 小結 伊勢ノ海部屋 1912年?-1943年2月(死去) 二枚鑑札
5代 有明五郎 前11 錦嶋部屋 1943年5月-1959年7月(死去) 二枚鑑札
6代 不動岩三男 関脇 粂川-双葉山-時津風部屋 1960年3月-1961年11月(廃業) 借株
式守 慎之助(しきもり しんのすけ)は、大相撲の行司の名跡の一つ。これまでは二所ノ関部屋の行司が襲名している。この名跡は他と違い、十両格以上でなくても襲名されている。初代と2代目の途中までは式守真之助を名乗っていた。
初代 最高位は幕内格。5代式守錦之助を襲名するまで名乗った。その後、7代三太夫_(行司) 式守錦太夫、9代三太夫_(行司) 式守与太夫を襲名。
2代 初代の養子。1958年9月から1984年11月まで名乗った。その後、9代式守錦太夫、28代式守伊之助、木村庄之助_(29代) 29代木村庄之助を襲名。
3代 最高位は三役格。1985年11月から1994年7月まで名乗った。1994年9月から式守錦太夫_(10代) 10代式守錦太夫を襲名。2005年7月場所で引退。
式守 錦之助(しきもり きんのすけ)は、大相撲の行司に代々伝わる名跡である。
明治初期に創設され、明治30年代まではいわゆる三太夫_(行司) 三太夫や式守與之吉とともに、伊勢ノ海部屋系統の部屋の行司のみが名乗っていた。
現在は時津風部屋 時津風一門_(相撲) 一門・伊勢ヶ濱部屋 伊勢ヶ濱一門所属の行司が名乗る事が多く、現・式守錦之助は2001年1月場所、伊勢ヶ濱部屋所属の式守国浩が十両格昇進とともに襲名。本名:菊池浩。
行司 しきもり きんのすけ
9代式守勘太夫(しきもりかんだゆう 1942年8月17日- 本名:三浦国男)は大相撲の三役格行司、血液型O型。青森県三戸郡五戸町出身。
掛け声が小さく、動きがやや緩慢であるため、行司ファンにはあまり支持されていないようである。ただし、差し違いは特に多い訳ではない。
1958年5月:初土俵、式守洋一
1979年3月:改名、太一郎
1984年1月:十両格昇格
1990年1月:8代式守與之吉襲名
1994年1月:幕内格昇格
2001年1月:三太夫_(行司) 式守勘太夫襲名
2006年3月:三役格昇格
行司 しきもりかんたゆう9
1942年生 しきもりかんたゆう9
式守 伊之助(しきもり いのすけ)は、大相撲の立行司の名前である。また、木村庄之助に次いで2番目の地位の行司である。
式守伊之助は、三役格行司から立行司に昇格する行司が代々襲名し、2006年5月場所から36代目が襲名。
軍配には紫白の房、装束には紫白の菊綴じを着用し、木村庄之助同様、短刀を差す。
現在は一日に2番裁くが、1959年11月場所までは木村庄之助と同様に一日1番が原則であった。
木村庄之助 (20代) 15代(1926年夏~1932年10月)
式守伊之助 (16代) 16代(1932年10月~1939年夏)
木村庄之助 (21代) 17代(1939年夏~1940年春)
木村庄之助 (22代) 18代(1940年夏~1951年7月)
式守伊之助 (19代) 19代(1951年9月~1959年11月、ヒゲの伊之助)