木暮剛平(こぐれ ごうへい、1924年9月19日 - )は、電通社長・会長を経て電通相談役。日本広告業協会理事長・日本広告業協会会長として広告代理店業界の発展に尽力。経済同友会副代表幹事・通商産業省(現在の経済産業省)情報処理振興審議会会長として行政運営の円滑化ににも手腕を発揮した。また、俳人としても知られ、「万象」同人。国際俳句交流協会会長を務めた。群馬県出身。
群馬県立渋川高等学校時代は、部活に熱中
大学卒業後、電通に入社
1985年、電通育英会理事長に就任
1988年、佐藤純彌監督の「敦煌」で、製作統括をつとめる
1992年、黒澤明監督の「まあだだよ」で、製作総指揮をつとめる
小久保 裕紀(こくぼ ひろき、1971年10月8日 - )は、プロ野球選手。ポジションは内野手(三塁手)。
身長・体重:182cm、88kg
投打:右投右打
出身地:和歌山県和歌山市
血液型:AB型
球歴・入団経緯:和歌山県立星林高等学校 星林高-青山学院大学 青学大-福岡ソフトバンクホークス ダイエー(1994年-2003年)-読売ジャイアンツ 巨人(2004年-)
プロ入り年度・ドラフト順位:1993年(2位・逆指名)
英語表記:KOKUBO
推定年俸:30000万(2006年)
守備位置:三塁、一塁、(二塁)
1992年、バルセロナ五輪の野球日本代表として銅メダル獲得に貢献。
1994年、ドラフト2位で青山学院大学-福岡ソフトバンクホークス 福岡ダイエーホークス入団。背番号は9。
国分 太一(こくぶん たいち、1974年9月2日 - )は、日本のタレント。ジャニーズ事務所所属の男性アイドルグループTOKIOのメンバー(キーボードを担当)。元平家派。苗字は「”こくぶ”」ではなく「”こくぶん”」(昔はかなりの確率で名字を間違えられたらしい)
東京都東久留米市出身。
血液型はO型。公式携帯サイトで国分太一の日記「タヒチ」は毎日更新。
東久留米市立東中学校卒。
箸の使い方があまり上手ではなかったが『ザ!鉄腕!DASH!!』の番組内企画により改善された。
司会業に定評があり、TOKIO全員が出演する番組以外にも、スポーツ番組やバラエティ番組で司会を担当することが多い。
國分康孝(こくぶ やすたか,1930年-)は、日本の心理学者。陸軍幼年学校、東京高等師範学校、東京教育大学(教育学)、同大学大学院修士課程(ガイダンス・カウンセリング)、ミシガン州立大学大学院博士課程(カウンセリング心理学)に学ぶ。Ph.D.
カウンセリング心理学と臨床心理学を識別する立場を取っている。認知行動療法の一つである論理療法を日本に紹介。霜田静志・友田不二男・モーガンに教育分析を受け、アルバート・エリスからスーパービジョンを受ける。
更に、構成的グループエンカウンターを開発した。多摩美術大学助教授、フルブライト交換研究教授、 東京理科大学教授、 筑波大学教授、 聖徳栄養短期大学教授、上智大学などの非常勤講師を歴任。現在は、東京成徳大学教授。日本カウンセリング学会会長。日本教育カウンセラー協会会長。
国府 弘子 (こくぶ ひろこ 1959年8月26日-) は、日本のジャズ・ピアニスト、作曲家、編曲家である。
出生地:東京都渋谷区西原
血液型:B型
星座:乙女座
身長:163cm
趣味:温泉、マッサージ、料理等
資格:普通免許、高校教員免許
その他:左利き
モア・ザン・ユー・ノウ 1987/10/21
グローブ・トロッティング 1988/11/21
ポイント・オブ・ノー・リターン 1990/01/21
ライト・アンド・カラー 1991/05/21
ピュア・ハート 1992/08/26
ヘヴン 1993/9/22
ヘヴン・アンド・ビヨンド 1995/9/21
国分佐智子(こくぶ さちこ、1976年12月5日 - )は、日本人俳優 女優・タレント・ファッションモデル・グラビアアイドル。東京都出身。血液型はAB型。愛称は「コクコク」、「さっちゃん」。恵泉女子短期大学卒業。
所属事務所は株式会社ぱれっと。
身長163cm B83 W58 H85
星座 射手座
特技 英会話・ウクレレ・水泳・ブレイクダンス
好きな食べ物 ケーキ、豆腐、バナナジュース、和食
苦手な食べ物 生の魚
小学校から中学校まで6年間オーストラリアのメルボルンで生活しており、英会話に堪能。オーストラリアから帰国後は大阪に居住し、その後東京に転居。性格は、マイペースでありのんびり屋。天使グッズで自ら天使論を語るほどの天使好きである。テディベアの人形集めにも凝っている。得意料理は和食。普段はのんびりしているが、踊るときはキビキビと別人になる。二重の大きな目が特徴である。
穀田 恵二(こくた けいじ、昭和22年(1947年)1月11日 - )は、日本の政治家、衆議院議員(5期)。岩手県水沢市(現・奥州市)出身。日本共産党国会対策委員長、中央委員会常任幹部会委員。妻の誠子は染色家であり、妻方の実家は呉服店経営。
昭和22年(1947年)1月11日
岩手県水沢市(現・奥州市)
立命館大学文学部 卒業
文学学士
京都市議会議員
衆議院国土交通委員会委員
衆議院議院運営委員会委員
世襲ではない
比例近畿ブロック
日本共産党
国会対策委員長
衆・第2議員会館438号室
昭和40年(1965年)
:岩手県立盛岡第一高等学校 卒業
国生 さゆり(こくしょう さゆり、1966年12月22日 - )は、昭和後期・平成期(1980年代後半 - )の日本の俳優 女優・タレント・歌手。
鹿児島県鹿屋市出身。清水ヶ丘高等学校 (広島県) 清水ヶ丘高等学校(広島県呉市)卒。(父親が海上自衛官で、鹿屋基地から呉基地に転勤にともなうもの。)
1985年4月おニャン子クラブの会員番号8番としてデビュー。
1986年、シングル「バレンタイン・キッス」でソロデビュー。
芸名を國生 さゆりと改名して、活躍していた時期もある。
高校在学中の1984年、第3回ミス・セブンティーンコンテストに出場して特別賞を受賞。(同コンテストの同期は渡辺美里。1986年に渡辺のラジオ番組で国生と対談)資生堂の美容部員の就職が決まり上京して、その時知り合ったコンテスト協賛元のCBSソニーのプロデューサーの薦めで、1985年2月、フジテレビの深夜番組『オールナイトフジ』の“女子高生スペシャル”に出演。番組内で行った“美少女コンテスト”において優勝するなどして、同年4月からの同局で始める新番組『夕やけニャンニャン』のおニャン子クラブの一員としてスカウトされ、おニャン子クラブ会員番号8番として番組開始とともにデビューした。
粉川 哲夫(こがわ てつお、1941年 - )は批評家。早稲田大学大学院博士課程修了。映画評論、政治等について発言。「自由ラジオ」の提唱者。元和光大学、武蔵野美術大学教授。現在は東京経済大学教授。
ニューヨーク街路劇場
メディアの牢獄
これが「自由ラジオ」だ!
ニューメディアの逆説
ニューヨーク情報環境論
ミクロポリティクス ポスト戦後政治の読み方
スペースを生きる思想
カフカと情報化社会
シネマ・ポリティカ 粉川哲夫映画批評集成
和光大学教授時代に「現象学」という授業を担当。1000人以上いる受講生をグラウンドに集合させテストする。答案には問題が書かれておらず白紙のままでそれをバラまく。「ふざけるな」などと批判・罵声を書いたものだけに単位をあたえた。
小鴨 由水(こかも ゆみ、本名:松永 由水(まつなが ゆみ)1971年12月26日 - )は日本の元女子マラソン選手。兵庫県明石市出身。
兵庫県立明石南高等学校卒業後、1990年ダイハツ工業に入社。
当時はまったく無名のランナーであった。1992年の大阪国際女子マラソンで初マラソン。これはもともと、バルセロナオリンピック代表を目指していた、チームメイトの浅利純子のペースメーカー役という意味合いもあっての出走だった。
ところが、小鴨は関係者の予想外のペースで走り抜ける。36Km過ぎまで小鴨と浅利は先頭で併走していたが、その後浅利が脱落。そして浅利と同じくバルセロナ五輪女子マラソン代表選出を狙った、松野明美(彼女も初マラソン)のレース後半の追い上げも退けて優勝を果たした。大阪国際女子マラソンでは日本人初の優勝者、しかもタイムの2:26:26は日本最高記録で女子の初マラソン世界最高記録という快挙であった。20歳1ヶ月で一躍日本女子マラソン界のトップに立ったのである。
小金沢昇司 (こがねざわ しょうじ、1958年8月31日~) は、神奈川県大和市出身の日本の演歌歌手。北島音楽事務所所属。血液型はAB型。身長は175cm。特技はサーフィンと空手。 国士舘大学卒業。
北島三郎の付き人として下積み生活を経た後、1988年『おまえさがして』でデビュー。全国各地への講演活動などを通じて歌手として順調にキャリアを重ねるが、小金沢の名を一躍全国的なものにしたのは1992年に放送された、口腔用ヨード剤「フィニッシュコーワ」のテレビコマーシャルにおける「歌手の小金沢君」である。このキャッチフレーズは同年の流行語大賞において大衆部門の銀賞を受賞する。以降も甘いマスクと様々なジャンルの歌に挑戦する積極的な姿勢で幅広い支持を得ている。
小掛 照二(こがけ てるじ、1932年 - )は、広島県甲奴郡上下町出身の元陸上選手。陸上競技指導者。元三段跳び世界記録保持者。日本陸上競技連盟(日本陸連)副会長、現・名誉副会長。日本オリンピック委員会(JOC)元副会長。
中国山地山間の町、上下町の農家の長男として生まれる。両親とも運動選手で幼少時からスポーツ万能だった。同郷の先輩・織田幹雄(アムステルダムオリンピック(1928年))、から南部忠平(ロサンゼルスオリンピック (1932年) ロサンゼルスオリンピック(1932年))、田島直人(ベルリンオリンピック(1936年))まで三大会連続で金メダルを獲り、当時は日本のお家芸だった三段跳びを教師の勧めで始める。近年は幅跳びと言えばカール・ルイスしか思い浮かばないが、当時は子供が"ホップ・ステップ・ジャンプ"、と遊びで使うほど、三段跳びは人気種目だった。広島県立上下高等学校 広島県立上下高校から三段跳びや走り高跳び、走り幅跳びなどで多くのタイトルを獲った。前述の織田、西田修平らの誘いで早稲田大学に進学。