閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう、1733年(享保18年) - 1794年(寛政6年))は、江戸時代の皇族。閑院宮直仁親王の皇子で、母は近衛基熙娘。妃は大江磐代。皇子に閑院宮美仁親王 美仁親王、兼仁親王ほか。閑院宮第二代。慶光院(慶光天皇)。
朝廷では、1779年に後桃園天皇が男子を残さないままに崩御してしまった為、典仁親王の第六皇子として生まれた師仁親王(光格天皇)が、急遽即位となった。父である典仁親王の宮中での地位が大臣より低い事から、太上天皇の尊号を贈ろうとしたが、江戸幕府老中・松平定信などに反対され、贈る事はできなかった(尊号一件)。
閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう;慶応元年9月22日 (旧暦) 9月22日(1865年11月10日) - 昭和20年(1945年)5月20日)は日本の皇族、陸軍軍人。
伏見宮邦家親王第十六王子。官位は元帥陸軍大将菊花章 大勲位金鵄勲章 功一級。小松宮彰仁親王、北白川宮能久親王、華頂宮博経親王、伏見宮貞愛親王の弟、東伏見宮依仁親王の兄。三条実美の次女載仁親王妃智恵子 智恵子と結婚し閑院宮春仁王、戸田華子 華子女王を儲ける。
親王は3歳で出家し三宝院門跡を相続するが、明治4年伏見宮に復籍のうえ、翌年閑院宮を継承する。フランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、騎兵学校、陸軍大学を卒業し軽騎兵第7連隊付を経て帰国。 1891年(明治24年)、三条実美の二女 智恵子と結婚。騎兵大隊長、騎兵連隊長を歴任し参謀本部に勤務の後、騎兵旅団長。日露戦争では、満州軍 (日本軍) 満州軍総司令部付きの武官として従軍した。 1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥の称号を賜った。 1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)まで参謀総長を務めた。 この参謀総長就任には時の陸軍大臣荒木貞夫の思惑が在ったという。1945年(昭和20年)5月、81歳で薨去。 国葬を賜る。
菅 英輝(かん ひでき、1942年12月25日 - )は、日本の政治学者。専門は、アメリカ外交史。
オレゴン大学卒業後、ポートランド州立大学およびコネチカット大学大学院で学ぶ。九州大学大学院比較社会文化研究院教授を経て、現在、西南女学院大学人文学部教授。
『米ソ冷戦とアメリカのアジア政策』(ミネルヴァ書房、1992年)
(秋元英一)『アメリカ20世紀史』(東京大学出版会、2003年)
『朝鮮半島危機から平和構築へ』(社会評論社、2004年)
(グレン・フック、S・ウェストン)『アジア太平洋の地域秩序と安全保障』(ミネルヴァ書房、1999年)
(石田正治)『21世紀の安全保障と日米安保体制』(ミネルヴァ書房、2005年)
菅 直人(かん なおと、昭和21年(1946年)10月10日 ‐ )は、昭和・平成期における日本の政治家。衆議院議員(9期)。民主党代表代行。
厚生大臣(第1次橋本内閣 第74代)、新党さきがけ副代表、民主党代表(初代・第3代)等を歴任した。
昭和21年(1946年)10月10日
出生地:山口県宇部市
本籍地;岡山県御津郡建部町
東京工業大学理学部応用物理学科卒業
理学士(東京工業大学)
弁理士
衆・懲罰委員会委員
東京18区
民主党(菅グループ)
代表代行東京都総支部連合会常任顧問
衆・第1議員会館323号室
http://n-kan.jp/ 菅直人の公式ウェブサイト}}
昭和21年(1946年)10月10日、山口県宇部市に父・菅寿雄(元セントラル硝子会長)、母・純子の長男として生まれる(本籍地は岡山県御津郡建部町)。宇部興産工場長だった父の転勤に伴い、三鷹市下連雀に転居した関係で、山口県立宇部高等学校から東京都立小山台高等学校に編入し、1970年東京工業大学理学部応用物理学科を卒業。1971年に弁理士試験に合格。
河原崎長一郎(かわらさきちょういちろう 1939年1月11日 - 2003年9月19日)は、俳優。河原崎長十郎の長男。本名・河原崎統一。妻は女優の伊藤榮子。弟は俳優の河原崎次郎、河原崎建三。東京都出身。東京都立武蔵高等学校卒業。早稲田大学中退。
おしどり夫婦としてしられ、妻の伊藤榮子は河原崎を「長さん」を呼び深い愛情を寄せていた(トーク番組にてたびたび語られていた)
日本の優しい父親像を好演し、40代から50代にかけてホームドラマ全盛期にとってかけがえのない存在となる。糖尿病の持病があり、一時病状が小康を得た頃、昼のドラマ「花の咲く家」にて 昼ドラとしては例外的に主役を務めた。1990年代後半から持病の糖尿病から脳血管障害(脳梗塞)を煩い、療養生活を送る。
瓦 力(かわら つとむ、昭和12年(1937年)4月1日 ‐ )は、昭和・平成期における日本の政治家。衆議院議員(12期)。みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長。
防衛庁長官(47・66代)。建設大臣(70代)。
昭和12年(1937年)4月1日
石川県七尾市
中央大学法学部
法学士
衆議院議員秘書
弾劾裁判所裁判長
比例北陸信越ブロック
自由民主党(丹羽・古賀派)
衆議院議員総会長
衆・第1議員会館716号室
http://homepage3.nifty.com/kawara/ 瓦力ホームページ}}
石川県七尾市出身
石川県立七尾高等学校、中央大学法学部卒業
川柳 川柳(かわやなぎ せんりゅう、1931年3月23日 - )は 埼玉県秩父市生まれの落語家。本名加藤利男(かとう としを) 。落語協会に所属。
1955年 - 三遊亭圓生_(6代目) 6代目三遊亭圓生に入門。前座名は三遊亭さん生。
1958年 - 二つ目昇進
1974年 - 真打昇進。
1978年 - 師匠である三遊亭圓生が落語協会を脱退する際に、圓生門下を離れて落語協会に残り、5代目柳家小さん門下へ。川柳川柳の名をもらう。
昭和の名人、芸の虫の圓生の弟子だったとは欠片も見えない理屈抜きの爆笑系。奇人として知られる一方、個人生活ではクリスチャンでもある。
談志の弟子である快楽亭ブラックによる「川柳の芝浜」では己の欲望の赴くままに享楽に耽る落語家へ奥さんが「あんたぁ、寄席行っておくれよぉ」と訴える。この芝浜の改作のモデルは題名そのままに川柳師とされる。
河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2000年3月27日)は、日本のフランス文学者・評論家。仏文学者としてはモラリストの著作を日本に紹介した。
大阪府堺市出身。旧制大阪府立堺中学校(大阪府立三国丘高等学校)を経て1920年に第三高等学校入学。京都帝国大学仏文科で河野与一に師事。1926年、京都帝国大学仏文科を卒業して関西大学に赴任し、フランス語を教える。
1928年、学校騒動で関西大学を辞職して渡仏し、ソルボンヌ大学に学ぶ。1930年に帰国。堺の生家でジャン・コクトー『山師トマ』を翻訳。
上京後、ファーブル『昆虫記』を三好達治と共訳。1931年、杉捷夫の世話で立教大学に赴任し、1943年までフランス語を教える。1943年、随筆『新釈女大学』がベストセラーとなる。