片桐 淳至(かたぎり あつし、1983年8月1日 - )は、日本のサッカー選手。(フォワード)。
身長・体重 177cm・68kg
血液型 O型
出身地 岐阜県
経歴 岐阜県立岐阜工業高等学校→名古屋グランパスエイト→ロサリオ・セントラル→キルメス・アトレチコ→名古屋グランパスエイト→アルテ高崎→FC岐阜
プロ入り年度 2002年(名古屋グランパスエイト)
ポジション フォワード FW
名古屋グランパスエイト(2002年 - 2003年)
ロサリオ・セントラル(2004年)
キルメス・アトレチコ(2004年)
名古屋グランパス(2005年)
アルテ高崎(2005年)
FC岐阜(2006年)
高校時代に全国高校サッカー選手権大会得点王に輝いた。その大会でインタビュアーの質問に対して「この大会は僕にとって就職活動の場」と発言したことは有名。
片上 大輔(かたがみ だいすけ、1981年8月28日 - )は、日本の棋士 (将棋) 将棋棋士。初の東京大学卒のプロ棋士。東京大学法学部卒業。広島県広島市出身。森信雄六段門下。
村山聖、山崎隆之などの棋士を生んだ広島将棋センター出身。山崎は1学年上で少年時代から鎬を削り1万局は指したという。
修道中学校・修道高等学校 広島修道高等学校から東京大学法学部に進む。同大3年在学中の2004年2月に四段昇段、将棋史上初の東大生プロ棋士となり多くのメディアに取り上げられた。2005年同大卒業。同年、第18期竜王戦ランキング戦6組で優勝し決勝トーナメント準々決勝に進出した。また初参加の順位戦では8勝2敗とあと一歩で昇級を逃した(次点)が大健闘した。2006年2月、女流棋士 (将棋) 女流棋士の北尾まどかと婚約した。
片岡礼子(かたおか れいこ、1971年12月20日 - )は愛媛県松前町 (愛媛県) 松前町出身の女優である。身長は160cm。血液型はA型。愛媛県立伊予高等学校、明星大学理工学部卒業。
ジャッキー・チェンに憧れて、幼い頃から将来の照準を女優に定めていた。1991年に『週刊朝日』の表紙モデルに抜擢されたことを契機に芸能界デビュー.翌1992年には映画『二十才の微熱』でデビュー。1995年に公開された原田眞人監督作品『KAMIKAZE TAXI』の演技が認められ、ヨコハマ映画祭助演女優賞を獲得。2001年公開の『ハッシュ!』ではキネマ旬報賞及びブルーリボン賞 (映画) ブルーリボン賞の主演女優賞を獲得。『愛の新世界』(1994年)や『北京原人』(1997年)といったカルト作品における活躍はその筋では有名。
片岡 易之(かたおか やすゆき、1983年2月17日 - )は、千葉県千葉市花見川区出身のプロ野球選手である。3人兄弟のうちの末っ子。西武ライオンズに所属する内野手で、背番号は7。
本名は「片岡保幸」だが、社会人時代に怪我が多かったため、登録名だけを「片岡易之」にしたという経緯がある。
小学生の頃は作新ヤンキースの4番打者として活躍。中学校に入学すると学校の軟式野球部には在籍せず、千葉北シニアリーグ(OBには現・ヤクルトの五十嵐亮太投手もいる)に所属。2年の頃からレギュラーで活躍。3年時には1番打者・三塁手・主将としてチームを全国大会に導く。
中学校卒業後、栃木県の宇都宮学園高等学校(現・文星芸術大学附属高等学校)に進学。2人の兄がそれぞれ宇学で活躍し有名であったことから片岡が入学後「片岡3兄弟」としてさらに知名度が増す。高校3年の時には3番打者・遊撃手として甲子園へ導くが甲子園では2回戦敗退。後の話では甲子園出場中、肺に穴が空いていたという逸話もあった。その影響で実力が発揮できず目立った成績を残せなかった。
片岡 秀太郎(かたおか ひでたろう)は、歌舞伎役者。屋号は松嶋屋。 当代は2代目。定紋は七ツ割丸に二引。
片岡秀太郎 (初代) - 片岡仁左衛門(11代目)と同じ。
片岡秀太郎 (2代目) - 片岡仁左衛門 (13代目)の次男。本名は片岡彦人。1941年(昭和16年)大阪市生まれ。
1946年京都・南座での『吉田屋』禿(かむろ)で初舞台。1956年大阪・歌舞伎座での『河内山』波路で2代目秀太郎を襲名。
兄は片岡我當(5代目)、弟は片岡仁左衛門 (15代目) 。片岡愛之助(6代目)の養父。
歌舞伎役者 かたおか ひてたろう
片岡仁左衛門(かたおか にざえもん)は、歌舞伎役者の名跡の一つ。屋号は松嶋屋。 当代は15代目。定紋は七ツ割丸に二引。
片岡仁左衛門 (初代) - 大坂の役者。敵役で人気を得た。
片岡仁左衛門 (2代目) - 初代の子。
片岡仁左衛門 (3代目) - 初代の妹婿。
片岡仁左衛門 (4代目) - 3代目の子。
片岡仁左衛門 (5代目) - 4代目の養子。
片岡仁左衛門 (6代目)
片岡仁左衛門 (7代目) - 途絶していた名跡を再興。
片岡仁左衛門 (8代目) - 7代目の養子。
片岡仁左衛門 (9代目) - 8代目の養子。
片岡仁左衛門 (10代目) - 8代目の三男。
片岡仁左衛門 (11代目) - 8代目の四男、10代目の弟。明治中期の名優。片岡十二集を制定。
片岡 富枝(かたおか とみえ、1944年11月2日 - )は、千葉県出身の女優、声優。劇団青年座所属。血液型はA型。
所属する青年座主催の演劇での活動を主とするが、他劇団主催の演劇や、テレビドラマにも出演。またアニメ声優としても活動している。
アニメでは、『オバタリアン』の絹代、『ツヨシしっかりしなさい』の井川美子など、おばちゃん役を得意としている。
わたしのアンネット アルプス物語 わたしのアンネット(モレル)
オバタリアン(絹代)
カウボーイビバップ(VT)
牧場の少女カトリ(ヘンリッカ)
雲のように風のように(ナレーション)
サイボーグ009(津山)
小公女セーラ(イライザおばさん)
片岡 鶴太郎(かたおか つるたろう、1954年12月21日 - )は、東京都荒川区出身のタレント・俳優・画家。本名は荻野 繁雄(おぎの しげお)。愛称は「鶴ちゃん」。太田プロダクションに所属。
10才のとき動物のものまねでフジテレビの素人参加番組にテレビ出演。その時のADが後に笑っていいとも!のプロデューサーとなる横澤彪だった。早くから芸人を志し高校へ進学するつもりだったが、家庭の経済事情で授業料の安い公立高校しか行けないと言われた。中学3年生の時、成績が下から2、3番だったが、夏休みの1ヶ月間で小学校6年生の教科書からやり直し上位10番に入る。無事公立高校(竹台高校)に入学し演劇部に所属、3年次には部長を務めた。
片岡 球子(かたおか たまこ、1905年(明治38年)1月5日 - )は、日本画家。北海道札幌市出身。
1926年(大正15・昭和元年)女子美術専門学校(現女子美術大学)日本画科高等科卒業。
卒業後は神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校に勤めながら創作を続ける。帝展(現日展)に三度落選、1930年(昭和5年)第17回日本美術院展に「枇杷」で初入選。その後、何回もの落選を経験するが、1939年(昭和14年)第26回院展に「緑陰」が入選し院友に推挙され、以後は毎回入選する。1955年(昭和30年)に横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師となる。1960年(昭和35年)に助教授、1965年(昭和40年)には教授となる。1966年(昭和41年)に愛知県立芸術大学が開校、日本画科主任教授、1973年(昭和48年)より客員教授。
片岡孝太郎(かたおか たかたろう 昭和43年(1968年)1月23日-)は、日本の歌舞伎役者、俳優。本名、片岡 康雄(かたおか・やすお)。父は十五代目片岡仁左衛門 (15代目) 片岡仁左衛門、妹がふたりおり、ともに女優の汐風幸・片岡京子、息子に片岡千之助がいる。屋号は松嶋屋で、1973年年7月歌舞伎座『夏祭』の市松で初代片岡孝太郎を名のり初舞台。1994年に名題昇進。
伝統歌舞伎保存会会員である。
若女形としてめざましい活躍を見せ、歌舞伎界の新世代として、注目を集める。
芸風は上方歌舞伎の特色である、気品と格調を兼ね備えたもので、お姫様や娘役を得意とし、高い評価を得ている。最近は『傾城反魂香』のおとくなど女房役や『毛谷村』のお園など強い女性の役にも積極的に挑戦している。上方歌舞伎にも力を入れており、『女殺油地獄』のお吉や『河庄』の小春といった役もしっとりと演じて好評を得る。
十五代目片岡仁左衛門(じゅうごだいめ かたおか にざえもん、昭和19年(1944年)3月14日 - )は、歌舞伎役者、日本の俳優。本名・前名は片岡孝夫(かたおか たかお)。今も「仁左衛門」より前名の「孝夫」と呼ぶ人は多い。
現代の歌舞伎を代表する人気歌舞伎俳優。すらりと背が高く色気のある二枚目。『女殺油地獄』の与兵衛が絶賛され、坂東玉三郎 (5代目) 五代目坂東玉三郎との孝玉コンビが人気を集めるなどの実績から、長男の継承が多い中で三男にして片岡仁左衛門に抜擢された。爽やかな芸風で義太夫狂言の立役はもちろん、江戸と上方の役を演じわけ、南北物、新歌舞伎まで得意としている。