最近の有名人・芸能人 姓名判断 2002

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最近の有名人・芸能人 姓名判断 2002

尾崎洋二

尾崎 洋二(おさき ようじ、1938年7月20日 - )は、愛知県出身の天文学者、博士 (理学) 理学博士。専門は、恒星物理学。海野和三郎に師事した。
1961年、東京大学理学部物理学科卒業。1964年東大大学院数物系研究科天文学専攻博士課程中退。同年東大理学部天文学科助手、のち助教授を経て1985年東大教授。この間コロンビア大学、コロラド大学、ニース天文台、マックス・プランク天体物理研究所の研究員として海外生活を送った。1999年に退官、長崎大学教育学部教授に就任。2005年現在、東大名誉教授。
京都大学基礎物理学研究所教授の嶺重慎は尾崎の弟子にあたる。
南山大学教授の尾崎俊治(工学博士)は実弟である。また大阪大学の尾崎朋久(薬学博士)は甥にあたる。

小崎まり

小﨑 まり(おざき まり、1975年7月16日 - )は、京都府出身の女子陸上競技&マラソン選手。立命館宇治高等学校卒、ノーリツ所属。
2001年8月、世界陸上エドモントン大会女子10000m代表に選出、19位。
2003年1月、大阪国際女子マラソンで初マラソン、2時間23分30秒で5位に入る。当時日本女子歴代9位の好記録であった。
2005年1月、大阪国際女子マラソンで二度目のマラソン、2時間23分59秒で日本人トップの2位と健闘する。
2005年8月、世界陸上ヘルシンキ大会女子マラソン代表に選出、2時間30分28秒の15位だった。
1975年生 おさき まり
日本の陸上競技選手 おさき まり
マラソン選手 おさき まり

尾崎匡哉

尾崎 匡哉(おざき まさや、1984年6月2日 - )は北海道日本ハムファイターズに所属する内野手である。
報徳学園中学校・高等学校 報徳学園高校時代は投手としても140k以上のストレートを投げ注目された。甲子園春選抜高等学校野球大会 選抜では、打つ方はさっぱりだったが、遊撃手として全国制覇に貢献。大型内野手としてのプロから高いセンスを評価され2002年のドラフト会議で日本ハムファイターズから1位指名を受けた。
プロ入団から3年間はぱっとした成績を残せていなかったが4年目の今季はイースタン・リーグで打率3割以上をマークし、現在急成長を遂げている。後は守備力の向上だけと言われている。

尾崎秀実

尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日は日本の評論家、ジャーナリスト。近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、また、軍部とも密接な関係を持ち、日中戦争当時の政局の最上層部で活躍したが、太平洋戦争開戦直前、ゾルゲ事件の首謀者の一人として逮捕され、戦中に処刑された。
岐阜県加茂郡 (岐阜県) 加茂郡白川村(現・白川町)で生まれる。幼少の頃は、台湾の台北で育ち、台北第一中学校に進学。1922年(大正11年)、第一高等学校 (旧制) 第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部(現東京大学)に入学。1925年(大正14年)、東大卒業後、一年間、東大大学院に在籍。そこで、大森義太郎が指導する唯物論研究会に参加し、共産主義の研究に没頭する。1926年(大正15年)朝日新聞社に入社し、東京朝日新聞に勤務。社内で『レーニン主義の諸問題』をテキストとした研究会を開催。1927年(昭和2年)、大阪朝日新聞に転ずる。1928年(昭和3年)11月、上海支局に転勤し特派記者となり、3年余、上海で過ごす。その期間に中国共産党と交流するようになる。アグネス・スメドレーと出会い、コミンテルンの諜報活動に参加するようになる。リヒャルト・ゾルゲと出会う。1932年(昭和7年)2月、大阪本社に戻り、外報部に勤務。1934年(昭和9年)10月、東京朝日に転じ、東亜問題調査会に勤務。1937年(昭和12年)4月から昭和研究会に参加。1938年(昭和13年)7月、東京朝日を退社。第1次近衞内閣の嘱託となり、1939年(昭和14年)1月の第一次近衛内閣の総辞職まで勤める。同時に、「朝飯会」のメンバーにもなり、これは、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣までに渡る。1939年(昭和14年)6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務していた。

尾崎秀樹

尾崎 秀樹(おざき ほつき、1928年(昭和3年)11月29日 - 1999年(平成11年)9月21日)は文芸評論家。日本統治時代 (台湾) 台湾台北市出身。
ゾルゲ事件で処刑された朝日新聞記者の尾崎秀実は異母兄。
台北帝国大学医学部中退後、福岡に引き揚げしたが上京。
1959年にゾルゲ事件をテーマとしたノンフィクション『生きているユダ』を出版し、1960年からは「近代説話」の同人として活躍。
1961年には大衆文学研究会の創刊に携わり、大衆文学評論を中心に旧植民地文学・歴史評論・漫画論など幅広く活躍し、多数の著書を残した。
1966年に『大衆文学論』で芸術選奨文部大臣賞、1990年に『大衆文学の歴史』で吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。

尾崎放哉

尾崎放哉(おざき ほうさい、1885年(明治18年)1月20日 - 1926年(大正15年)4月7日)は日本の漂泊俳人。本名は秀雄。
鳥取県鳥取市立川町に鳥取県士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる。1902年(明治35年)旧制高等学校 第一高等学校(一高)入学。1905年(明治38年)9月より東京帝国大学法学部入学。なお東大在学中にいとこにあたる最愛の女性に求婚も、この女性の実兄で医師の男性より「近親婚は医学的見地から歓迎しない」旨反対されこの女性とは引き裂かれる。しかし、それは放哉の晩年まで続く転落・薄幸の連続だった人生の第一章にすぎなかった。
1909年(明治42年)東大卒業。一高時代より俳句を始め当初は号を芳哉と名乗り、後に放哉と改め、「ホトトギス (雑誌) ほとゝぎす」などに投句。のち、一高時代の先輩である荻原井泉水の主宰する「層雲」の門人となる。同年、東洋通信社に入社。しかし入社僅か1ヶ月で退社。

尾崎健夫

尾崎 健夫(おざき たてお、1954年1月9日 - )はプロゴルファーである。通称はジェット、あるいは姓を続けてジェット尾崎。
ジャンボ尾崎こと尾崎将司の弟であり、プロゴルファーとして知られているが、高校野球 甲子園で優勝した兄と同じく徳島県立海南高等学校 海南高校(徳島県海南町)時代は野球部のエースとして活躍した。弟は尾崎直道。
兄と違い甲子園出場の機会には恵まれなかったが、野球選手としての素質は兄を凌ぐともいわれ、県下No.1の剛速球投手として知られていた。伸びのある速球は正捕手の大石(のちのプロ野球選手)の不在時、控えの捕手が怖がって捕れないほどであったという。練習試合では各地の名門強豪校をなで斬りにして「徳島海南に尾崎あり」として知られた。当然プロ野球 プロからも注目され、甲子園に出場していないにもかかわらずドラフト会議では東京ヤクルトスワローズ ヤクルトスワローズに3位指名されたが、兄と同じ道を歩む事を選び入団を拒否、プロゴルファーとなった。

尾崎士郎

尾崎 士郎(おざき しろう、1898年7月2日 - 1964年2月19日)は、日本の小説家。愛知県幡豆郡横須賀村(現吉良町)生まれ。早稲田大学政治科中退。
人生劇場
鶺鴒の巣
出身地の愛知県吉良町に2002年11月竣工。以前に吉良町立図書館内に尾崎士郎記念室としてあったものを尾崎士郎記念館として独立させた。展示品はほとんどが遺族や縁者から寄贈されたものばかりで、総資料数は4,000点以上にもなる。これらの中から直筆原稿、書簡、著書、愛用品等を順次展示している。また、晩年を過ごした東京都大田区にあった書斎も移築されている。
入館は有料(隣接の施設「旧糟谷邸」と共通)で、月曜(祝日の場合を除く)と年末年始は休館となる。

尾崎紅葉

尾崎 紅葉(おざき こうよう、男性、慶応3年12月16日 (旧暦) 12月16日(1868年1月10日) - 明治36年(1903年)10月30日)は、日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」などの号も持つ。江戸生れ。帝国大学国文科中退。
1885年、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され明治期の文壇の重きをなした。1897年から『金色夜叉』を書いたが、未完のまま没した。泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生がいる。
1868年1月10日、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の浜松町)に生れる。父は根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。もともと尾崎家は伊勢屋という商家であると推定されるが、惣蔵の代には既に廃業されていたようである。伊勢屋は呉服屋説と米問屋説があるが不明である。1872年、4歳で母と死別し、母方の祖父母荒木舜庵、せんのもとで育てられる。久我氏の寺子屋、梅泉堂(梅泉学校、現在の桜川小学校)を経て、府第二中学(府第一中と統合し府中学となる。現東京都立日比谷高等学校 日比谷高校)に進学。一期生で、同級に幸田露伴がいるが、中退。岡千仭の綏猷堂で漢学を、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。

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