岡田 英弘(おかだ ひでひろ、1931年 - )は日本の歴史家。学術上の専攻はもともと満州 満洲史、モンゴル史であるが、中国の歴史 中国史、古代日本の歴史 日本史、朝鮮の歴史 韓国史など幅広い分野についても研究、発言し、多くの著作を著している。東京外国語大学名誉教授。
1953年 東京大学文学部卒
1957年 日本学士院賞受賞
1963年 ドイツ連邦共和国ボン大学東洋研究所客員研究員
1966年 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教授
1973年 同教授
1993年 東京外国語大学名誉教授
1996年 常磐大学国際学部教授(-2000年)
岡田は、歴史を理論として確立しているのは、ヘロドトスに始まるヨーロッパ史と、司馬遷らに始まる中国の歴史 中国史だけであり、両者の歴史観はまったく原理を異にしていること、その他の地域の歴史は、両者いずれかの歴史観による焼き直しであることを主張した。この観点から、両者を単に融合して世界史を記述するのではなく、両者を止揚・昇華させた新たな原理による世界史を構築する必要性を説き、世界史の始まりをモンゴル帝国によるヨーロッパ文明・中国文明の接触に求めている。
岡田 斗司夫(おかだ としお、1958年7月1日 - )は、大阪市出身のノンフィクション作家。オタキングを名乗る。血液型はO型。元ガイナックス社長。と学会会員。大阪電気通信大学卒業。
1980年に大阪で開催された「第4回SFショー」*への出展を機会に、1981年、SFグッズ専門店「ゼネラルプロダクツ」を設立。のち、ガイナックス母体となる(1985年)。但し、現在のガイナックスは設立当時とはまるで違うメンバーの別会社と考えるべきである。同社を退社した理由は諸説あり確かではないが、岡田は現在も同社の最大株主の一人であり、よく言われる「追放」ではない。
※日本SF大会とは別物。開催ルールを知らずに「大阪第3回大会(DAICON3)」を開こうとして認められず、この名称となった。事務局長を務めた。なお、80年にはTOKON7が開かれており、本来のDAICON3は81年。
尾方 剛(おがた つよし、1973年5月11日 - )は、広島県呉市出身の陸上選手B型、165cm50㎏。
広島県立熊野高等学校 熊野高から山梨学院大学で箱根駅伝などで活躍。
熊野高3年時の91年の国体1万mで2位となり、高校歴代3位の快記録をマークした。
山梨学院大学では、2年時(94年)に箱根駅伝10区で区間賞。山梨学院大学2度目の優勝の締めくくりを果たした。
しかしその後の競技生活は低迷。ストレスから全身脱毛症になった。
96年に中国電力に入社。しばらくは低迷した状態だったが98年頃から本来の力を発揮し始め、99年福岡で初マラソン。2003年世界選手権のマラソンで12位。2004年の福岡国際マラソンで優勝。2005年にヘルシンキで開催された2005年世界陸上選手権 世界陸上選手権の男子マラソンでは、2時間11分16秒の好成績で銅メダルを獲得した。
岡田 忠之(おかだ ただゆき、1967年2月13日 - )は、茨城県水海道市出身のオートバイ・ロードレースライダー。
血液型はO型。愛称はTADY(タディ)。
高校卒業後、筑波サーキットでロードレースデビューを果たす。当時は筑波サーキットのコースマーシャルをしながらのレース活動であった。
1988年、国際A級に昇格。TS関東(現・アイ・ファクトリー)から全日本ロードレース選手権GP250クラスに参戦。その走りが認められ、翌1989年に本田技研工業 ホンダのサテライトワークス格のキャビンレーシングに加入、ワークスマシンNSR250を手にするや全日本GP250チャンピオンに輝く。1990年にホンダワークスのTEAM ホンダ・レーシング HRCに移籍、1991年まで全日本GP250を3連覇する偉業を成し遂げる。
名前=岡田武史
本名=
愛称=オカチャン
カタカナ表記=オカダ タケシ
アルファベット表記=OKADA Takeshi
原語名=
原語表記=
国=日本
誕生日=1956年8月25日
出身地=大阪府大阪市
身長=175cm
体重=70kg
血液型=A型
所属チーム名=
ポジション=ディフェンダー (サッカー) DF
岡田 貴弘(おかだ たかひろ、1988年2月9日 - )はオリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(外野手)。
履正社高等学校から2005年にオリックスから辻内崇伸のハズレ1巡目で高校生ドラフト会議 ドラフトで1巡目で指名を受け、入団。
甲子園出場こそなかったもの、高校通算で55ホームラン 本塁打を放っている。そして、いつの間にやらHR55という数字や豪快なスイング、体のデカさから松井秀喜の愛称 ニックネームであるゴジラにあやかり、浪速のゴジラとマスコミュニケーション マスコミから呼ばれるように。オリックス入団時には背番号も本人の要望もあり55番を譲り受ける(このとき55番を背負っていたユウキ (プロ野球選手) ユウキは22番に変更)。本家ゴジラである松井秀喜に負けぬほどヘッドスピードが速く、その速さは約150キロに達すると言う。(ちなみに松井秀喜のヘッドスピードは約160キロ。)2006年のシーズンは2軍でほとんどの試合スタメンで出場し、フレッシュオールスターゲームでは本塁打を放った。シーズン後半から1軍に昇格し、プロ初安打を打った。
岡田 尊司(おかだ たかし、1960年 - )は、京都医療少年院所属の精神科医。香川県出身、東京大学哲学科中退・京都大学医学部卒業・京都大学大学院医学研究科修了。医学博士。
小説家でもあり「小笠原 慧」(おがさわら けい)、または「小笠原 あむ」のペンネームを使用している。
1999年に「ヴィクティム」で横溝正史ミステリ大賞奨励賞を受賞(「小笠原あむ」名義)。翌2000年に「DZ」(角川書店)で同賞の大賞を受賞する。その後、2002年に「手のひらの蝶」(同)、2004年に「サバイバー・ミッション」(文藝春秋)を発表。
作品の内容は猟奇殺人を扱ったものが多いが、純粋なミステリではなくサイエンスフィクション SF・オカルト的な要素を含む作風が特徴。特に「手のひらの蝶」は少年犯罪をテーマにしているが、専門家の見地よりも「外的要因により子供が狂わされている」と言う作者の思い込みが先立つ内容となっており、これが後年の「脳内汚染」へと繋がっているのではないかと言う指摘も有る。
尾形 大作(おがた だいさく、男性、1963年1月12日 窶錀 )は、福岡県糟屋郡志免町出身の演歌歌手。「尾形太作」(読み同じ)として活動した時期もある。
武田鉄矢と同じ福岡市立三筑中学校を卒業。1981年にデビューし、1986年に発売した「無錫旅情」(むしゃくりょじょう、作詞・作曲:中山大三郎)が大ヒット。1987年にはNHK紅白歌合戦に出場を果たす。1988年も紅白歌合戦に出場し、幕末の武士を歌った「敬天愛人 幕末青春グラフティ」で日本レコード大賞の企画賞を受賞した。将来を嘱望されたが、所属事務所とのトラブルがあり、一時歌手として廃業寸前にまで追い込まれたこともある。
その後生まれ故郷である福岡に戻り、近年は「土曜ワイド劇場」(テレビ朝日系)の朝日放送制作分や、オリジナルビデオ Vシネマなどに端役出演している。また地元企業のCMソングを歌ったり、九電工のCMに於いては体操のお兄さんに扮するなど、ローカルタレント業もこなしつつ、地域密着型の演歌歌手として引き続き活躍している他、現在でもCDを発売している。