遠藤 一彦(えんどう かずひこ、1955年4月19日 - )は、プロ野球選手(投手)。身長・体重 183cm、75kg。 現役時代は横浜ベイスターズ 横浜大洋ホエールズのエースとして活躍した。原辰徳は東海大学の後輩にあたる。学生時代から江川卓 (野球) 江川卓を常にライバル視していた。現役時代は横浜大洋一筋で活躍した。
現役時代はしなやかなフォームから繰り出される快速球とフォークが武器。走塁中にアキレス腱を断裂した際、片足けんけんで三塁へ向かうその姿はファンの涙を誘った。その後、ケガを治し、ストッパーとしてカムバック。晩年は大洋の守護神として働いた。最後は、佐々木主浩に守護神の座を譲る形で引退を表明。引退試合は消化試合での「巨人戦」であったが満員の観衆の中、2回を無失点、140キロを超えるストレートとフォークで有終の美を飾った。引退セレモニーではチームの選手が涙で引退を惜しみ、斉藤明夫は涙で抱き合った。引退後も「大遠藤様」などと呼ばれ、ホエールズ低迷期を支えた大エースとして、大洋(横浜)ファンの心に残っている。その後は横浜のコーチを歴任。現在は球団に籍を置きながらテレビ神奈川 tvkの野球解説者を務めている。
遠藤章造(えんどう しょうぞう, 1971年7月13日 - )は漫才コンビ・ココリコのメンバーで、ツッコミ担当。大阪府豊中市出身。O型。藤井学園寒川高等学校(香川県さぬき市)卒。おおち(ダイノジ)とは誕生日と所属事務所が同じ。
結婚の前後から眉毛をいじったり顎ひげをたくわえるようになり、お笑い界きってのイケメンと言われるようになった。が、かつては意外にぽっちゃりしたタプンタプンの体型(本人も「ラ・フランス (梨) ラ・フランス」の様な体型だと自虐的に言っていた)、いわゆる”隠れ肥満”だった。そこで「いきなり!黄金伝説。」の企画で肉体改造を行い、体型を引き締めた。
円地 文子(えんち ふみこ、本名(富美 ふみ)、1905年10月2日 - 1986年11月12日 )は、日本の作家。
東京都浅草出身。日本女子大学付属高等女学校4年次中退。東京大学国語学教授上田萬年の次女。夫は東京日日新聞記者円地与志松。
幼い頃より、病弱で病気の問屋と呼ばれることも有った。学校も休み休み通っていた状態でその為中退し、その後は父などから個人教授を受け、戯曲及び古典日本文学に深い関心を持つようになった。デビューのきっかけとなった、戯曲及び劇作家としての成功の後、数々の病気に見舞われる。また小説家としては、当初評価されず苦労した。後に、女性の心理を露にした新時代的小説と源氏物語の現代語訳に代表される古典文学の両輪により高く評価され、文化勲章を受章するまでに至った戦前戦後を代表する、女流作家の一人である。
江利 チエミ(えりちえみ-、本名/久保智恵美、1937年1月11日 - 1982年2月13日)は、昭和期に活躍した日本の歌手である。
1937年(昭和12年)1月11日、東京・下谷に3男1女の末娘として生まれる。血液型A型。
父(久保益雄)は北九州の出身。独学でクラリネット奏者になったが、軍事徴用での工場の作業で指の先を痛め、以降再び独学でピアノ弾きに転向したりと、ともかく「音楽センス」の素晴らしい人だったらしく、彼女が生まれた頃は船のバンドマスター、吉本興業の所属になっていた(デビュー当時のチエミも吉本の所属。その頃の吉本は今のようではなく花菱アチャコ・チエミくらいしか稼げるスターはいなかった)。バンドマスターを経て吉本所属(東京吉本)の大スター、柳屋三亀松(三味線漫談)の相三味線やピアノ伴奏を務める。(三亀松の語りにあわせての効果音的なピアノ伴奏は絶妙で、三味線もコードを変えて音を重ねるなど巧みな腕を持っていた。)この三味線、ピアノも独学で習得。チエミの音楽素養のなかの「順応性、適合性」はこの父親の遺伝子によるものと思われる。