遠藤 徹(えんどう とおる、1961年 - )は、日本の作家である。兵庫県生まれ。
東京大学文学部・農学部~早稲田大学大学院。同志社大学で英語を講じる。同大学言語文化研究センター所属。研究テーマは現在音楽、フリークス、モンスター等多岐に渡る。研究の傍ら小説を書き始め、あついすいか名義で応募した「姉飼」で第10回日本ホラー小説大賞を受賞、他に「弁頭屋」等。専門分野の著作に「ポスト・ヒューマン・ボディーズ」「プラスチックの文化史」等がある。
日本の小説家 えんとう かおる
遠藤 太津朗(えんどう たつお、1928年1月30日 - )は、京都府京都市出身の俳優。旧名:遠藤辰雄。
かつてフジテレビジョン フジテレビで放送していた大川橋蔵主演の人気時代劇「銭形平次」で、平次のライバル岡っ引きの、三輪の万七役がなんと言っても有名。悪役からコミカルな三枚目まで演技の幅は広く、時代劇での『悪代官』のイメージを確立した役者のひとりでもある。またヤクザ映画ファンには、『仁義なき戦い』シリーズの空恐ろしさを感じさせた大幹部役が印象深い。昭和3年(1928年)生まれながら、現在もテレビに、舞台に、精力的に出演し続けている。
銭形平次(三輪の万七役)
遠藤 周作(えんどう しゅうさく、男性、1923年3月27日 - 1996年9月29日)は、日本の小説家。東京生れ。慶應義塾大学仏文科卒。
12歳でカトリック教会 カトリックの洗礼を受ける。1950年フランスへ留学。帰国後発表した『白い人』で芥川龍之介賞 芥川賞。1958年『海と毒薬』で新潮社文学賞・毎日出版文化賞、『沈黙』で谷崎潤一郎賞など。キリスト教に関する作品を多く執筆。海外での受賞も多かった。「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の名で書いたユーモアのある作品もある。
東京市巣鴨区(東京都豊島区)に鳥取県士族である遠藤常久と郁の次男として生まれる。父は鳥取県東伯郡三朝町出身で東京大学法学部卒の銀行員。母は東京音楽学校でヴァイオリンをモギレフスキーに師事。3歳のときに父の転勤で旧満州の大連に移る。大連市大広場小学校入学するも、10歳のとき父母の離婚によって母とともに帰国し、神戸市の六甲小学校に転校する。
遠藤 浩一(えんどう こういち、1958年-)は、 評論家、石川県金沢市出身、駒沢大学法学部卒業。
叔父の遠藤欣之助(民社研『改革者』誌を編集)と指導教授だった高橋正則の影響を受け民社党職員となる。反共産主義の立場を取り、日本社会党には批判的であった。1989年、第15回参議院議員通常選挙で民社党が敗北し、社会党が大勝した。この時点の民社党執行部は社会・公明党 公明・民社の「社公民」協力態勢を取っていたが、遠藤は消費税で社会党のように反対ではなく、より「現実的」な修正案を出すべきとの姿勢を取り、社会党と距離を置くように主張。この時は却下されたが、翌年の第39回衆議院議員総選挙 第39回総選挙で民社党が惨敗すると、反社公民の大内啓伍が委員長となり、社公民路線とは距離を置くことになった。遠藤は、民社党が自民党より保守的な立場を取ることを是としていた。
遠藤憲一(えんどう・けんいち:本名同じ、1961年6月28日 - )は日本の俳優。身長183cm。体重70kg。血液型はO型。愛称は「エンケン」。東京都品川区出身。
劇団フジ、無名塾を経て現在アクターズカンパニー所属。崔洋一、三池崇史監督などの作品の出演で注目された。『Distance』の演技で第16回高崎国際映画祭助演男優賞受賞。善も悪も演じ分ける幅広い演技力・眼力が特徴。
とてもいい声の持ち主でCMのナレーションに多数出演している。
1週間で逃げ出したとは言うものの、無名塾に所属したことにプライドを持っているらしく、プロフィールなどでも出身校には、本来の母校ではなく「無名塾」と書き込んでいる。
遠藤 久美子(えんどう くみこ、1978年4月8日 - )は、日本のタレント、女優である。愛称は『エンクミ』。プロフィール上は東京都葛飾区出身。血液型O型。中学・高校は埼玉県三郷市にある前川中学校・埼玉県立三郷高等学校。所属事務所はアイント。
ショートカットヘア、大きな瞳、太い眉、独特のハスキーな声が個性的である。
高校1年生の頃『ステーキのどん』でアルバイトしていた時に姉の知り合いの芸能プロダクションマネージャーにスカウトされて芸能界入りした。
マクドナルドでアルバイト中というのはガセネタ。
デビュー直後は地方限定のCMや少年誌グラビア、マイナーなテレビドラマ等で地味に活動していたが、1995年に全国ネットで放映されたマクドナルドのテレビコマーシャル CM、証明写真編で一躍トップアイドルに躍り出た。その後、土曜9時の日本テレビ放送網 日本テレビの連続テレビドラマを中心にバラエティ番組にも積極的に出演し、アイドルタレントの王道としての道を突き進んだ。また、当時、広末涼子や内田有紀らと共にショートカットヘアアイドルの代表としてしばしメディアにとりあげられた。一時期、髪を伸ばしてロングヘアにしていた時期もあったが、やはりショートの方が似合っていた為か、今は再びショートヘアに戻している。
遠藤 要(えんどう かなめ、大正4年(1915年)10月31日~ )は、昭和、平成期の日本の政治家。自由民主党 (日本) 自由民主党参議院議員、第3次中曽根康弘内閣の法務大臣。
宮城県白石市出身。白石高等小学校を卒業する。昭和22年(1947年)宮城県議会議員選挙に立候補し当選する。以後当選回数7回。昭和46年(1971年)には宮城県議会議長に選出される。昭和49年(1974年)第10回参議院議員通常選挙に自民党公認で立候補し当選する。以後当選回数4回。自民党では、田中角栄 田中派、竹下派(平成研究会 経世会)を経て、小渕派(平成研究会)に所属する。この間、昭和61年(1986年)第3次中曽根内閣の法務大臣に就任した。第14回参議院議員通常選挙(衆参同日選挙)で運動員の中から大量の選挙違反を出したため、法相就任が妥当か問題になった。参議院竹下派(参経会)の実力者であったが、平成10年(1998年)第18回参議院議員通常選挙で落選した。平成11年(1999年)勲一等旭日大綬章受章。