上戸 彩(うえと あや、1985年9月14日 - )は、東京都練馬区出身の歌手、女優。オスカープロモーション所属。本名同じ。血液型O型。堀越高等学校 堀越学園堀越高校中退(当初は休学していたが、多忙により芸能活動との両立が難しくなった為)。
3人兄妹の末っ子で、2歳年上と16歳年上の兄がいる。幼稚園の頃に長兄の子供が誕生しており、幼くして叔母となった。父親は北海道出身、母親は沖縄県石垣市出身。両親は上戸デビュー後に離婚し、現在は母と2つ上の兄と暮らしている。ただし多忙ななかでも父とも定期的に会うことを欠かさないという。
上戸の母方の祖母は琉球民謡の歌手であり、上戸の母親も跡を継ぎたかったが断念した。そんななか、友人がエキストラをやったと嬉しがっていたのを聞いた上戸は「私もテレビに出てみたい」と上戸の母親に話す。それを聞き、ポストのチラシに入っていた「全日本国民的美少女コンテスト」に上戸に内緒で応募した。自分が断念した夢を上戸に託したのである。上戸の母は、今でもドラマのセリフ覚えの手助けをしたり、スケジュール管理を行うなど、陰のマネージャー的存在である。
上田 佳範(うえだ よしのり、1973年11月18日 - )は、長野県松本市出身のプロ野球選手(外野手)。中日ドラゴンズに所属。
松商学園高等学校 松商学園高ではエースとして1991年の春と夏に甲子園出場。春は準優勝、夏はベスト8まで進んだ。夏の対四日市工において延長16回サヨナラ死球を受けている(相手投手は井出元(元中日→西武))。国体でも優勝経験がある。ちなみに春の甲子園では同学年のイチロー(愛知工業大学名電高等学校 愛工大名電高)をノーヒットに抑えた。打撃にも定評がありハワイ選抜では4番に座った。同年のドラフト1位で北海道日本ハムファイターズ 日本ハムファイターズに投手として入団し、のち外野手に転向。1995年に初めて一軍に昇格し、106試合に出場、49安打を記録した。投手出身ゆえの強肩と好守が持ち味で、1997年には規定打席にも到達し打率3割をマークしたが、その後は不振とケガで伸び悩んだ。
植田 幸弘(うえだ ゆきひろ、1964年7月27日 - )は、和歌山県田辺市出身のプロ野球選手(捕手)。現西武ライオンズバッテリーコーチ。
和歌山県立南部高等学校 南部高から1983年ドラフト会議 ドラフト外で広島東洋カープに入団。全盛期だった達川光男の控えとしてチームを支える。1993年シーズン終了後、鈴木哲 (野球選手) 鈴木哲投手との交換トレードで西武に移籍。伊東勤の控えとしてチームを支えてきたが、1997年に左足靭帯を断裂してからは出場機会が減少し、1999年に現役を引退。2000年にブルペン捕手となる。2001年からの3年間はチームスタッフとして伊原春樹監督を支え、伊東監督の就任に伴い2004年から西武のバッテリーコーチに就任した。どちらかといえば選手当時の実績よりは、縁の下としてのコーチとしての実績の方が功績が高い。
上田真而子(うえだ まにこ 1930年-)はドイツ文学者。和歌山県高野山出身。京都府立女子専門学校卒業後、ドイツへ留学・マールブルグ大学中退。京都ドイツ文化センターに勤務後、ドイツ児童文学の翻訳活動に専念。1982年に『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ原作)で日本翻訳文化賞、1988年に『あの年の春は早くきた』で国際アンデルセン賞国内賞をそれぞれ受賞。『ジム・ボタンの機関車大旅行』、『あのころはフリードリヒがいた』、『熊とにんげん』など翻訳作品多数ある。夫は哲学者の上田閑照。
ドイツ文学 うえたまにこ