伊藤久男(いとう ひさお、1910年7月7日 - 1983年4月25日)は、歌手。福島県安達郡本宮町 (福島県) 本宮町出身。本名四三男は生年の明治43年に由来。
東京農業大学に入学後、ピアニストを志して退学、帝国音楽学校に進む。同校では同郷の声楽家平間文寿に師事する。
1932年同じく同郷の作曲家古関裕而の勧めにより、1933年「伊藤久男」名義でリーガル(コロムビアの廉価盤)から「今宵の雨」でデビュー。コロムビアからのデビューは同年9月の「ニセコスキー小唄」で、宮本一夫の名前で発売。出身地本宮をひっくり返した芸名だった。その間、アルバイトでタイヘイで内海四郎名義でもレコーディング。その後、コロムビアでは伊藤久男、リーガルで宮本一夫を使用していたが、1935年「別れ来て」の発売を機に芸名を伊藤久男と改める。
伊藤 華英(いとう はなえ, 1985年1月18日 - )は、埼玉県大宮市(現さいたま市)出身の水泳選手。背泳ぎを専門とする。東京成徳大学高等学校を卒業し、日本大学に進学する。(2006年現在、4年生に在学中)身長173cm、体重62kg。
長身と、日本人離れした手足の長さを生かした伸びやかな泳ぎが特徴的。長い腕による無駄の少ない軌跡により、効率的に水をかいて推進力を生み出していると評される。抜群のスタイルで、同種目の寺川綾と並ぶ日本女子水泳界のアイドル的存在になった。寺川とはライバルであると同時に、親友でもある。
2004年のアテネオリンピック (2004年) アテネオリンピックには出場できなかったが、2005年のモントリオール世界水泳選手権で大活躍を見せ、100m背泳ぎで6位、200m背泳ぎで4位に入賞した。2006年のパンパシフィック水泳選手権の100m背泳ぎで1分0秒63のタイムで優勝した。
伊東豊雄(いとうとよお、1941年 - )は建築家、日本統治時代の京城に生まれる。
伊東豊雄建築設計事務所代表。
当初は個人住宅など、安価かつ禁欲的・ミニマルな作風で注目を浴びた。
1986年、横浜駅西口に作ったシンボルタワー兼地下街換気塔「風の塔」は、無数の穴を開けた金属板(パンチメタル)と照明多数で構成された半透明な簡素な塔であるが、夜間は風などの周囲の気象条件に合わせて表面にカラフルな光が浮かび上がるようプログラミングされており、金属板の斬新な使用方法や環境に対する相互作用性で注目を浴びた。以後、1990年代に入り、次第に構造上でも実験的で、なおかつ官能的な外観・内部空間を有する作風に移りつつある。新建築では槇文彦から「野武士」と名づけられている。2006年には王立英国建築家協会よりゴールドメダルを受賞するなど、世界でも重要な建築家の一人とみなされつつある。
伊藤 智仁(いとう ともひと、1970年10月30日 - )は平成期(1990年代後半~2000年代前半)のプロ野球選手(投手;右投げ右打ち)である。京都府京都市出身。
花園中学校・高等学校 花園高を経て、三菱自動車工業 三菱自動車京都から1992年のドラフト会議 ドラフト1位で東京ヤクルトスワローズ ヤクルトスワローズに指名され入団。(同年のドラフトは読売ジャイアンツ 巨人、中日ドラゴンズ 中日、阪神タイガース 阪神、福岡ソフトバンクホークス ダイエーの4球団競合の松井秀喜に対し、伊藤も負けじ劣らずヤクルト、広島東洋カープ 広島、オリックス・バファローズ オリックスの3球団が競合するBIGなドラフトであった。)メジャーリーグ 大リーグのピッチャーを彷彿とさせるダイナミックなフォームで150km/hに迫る直球と、球界一の変化球と呼ばれた真横に滑るような140km台の高速球種 (野球) スライダーを武器にしてルーキー時代の1993年に7勝2敗、防御率0.91という驚異的な成績を残し、1試合で16三振を奪うなど華々しいデビューを飾った。同年の後半戦は故障でシーズンを棒に振ったにも関わらず前半戦の華々しい活躍が認められ、ライバルと目された松井を抑えて最優秀新人 (野球) 新人王を獲得した。しかし、以後のプロ野球人生は故障との戦いとなる。
伊藤 俊人(いとう としひと、 1962年2月16日 - 2002年5月24日)は新潟県新潟市出身の日本の俳優。
1983年脚本家三谷幸喜らと劇団東京サンシャインボーイズを旗揚げしたと思われているが、実は後期のメンバーである。そもそも三谷とは、日大の同期であったが、卒業後は就職しサラリーマンになっていた。しかし、ある時街中で偶然に三谷と再会。サンシャインボーイズへ参加する事となった。大学時代は落語研究会に所属。
初参加は1990年7月の「12人の優しい日本人」初演舞台から。以降のほとんど作品に出演している。新潟明訓高等学校、日本大学芸術学部演劇学科演技コース卒。2000年10月、『ショムニ (テレビドラマ) ショムニ』の撮影で出会ったスタイリストの女性と交際半年でスピード結婚。
伊藤俊治(いとう としはる、1953年-)は、美術評論家、写真評論家、美術史家。秋田県生まれ。
東京大学文学部美術史学科卒業。西洋美術史を専攻した。多摩美術大学教授を経て、2005年現在、東京芸術大学美術学部先端芸術表現科教授。
日本を代表する美術評論家であるが、翻訳を含め、特に内外の写真史において重要な著書を多数刊行しており、写真の分野でも日本を代表するといってよい。
1985年のつくば写真美術館”85の企画にも参加。
1987年にその著書『ジオラマ論』により、サントリー学芸賞を受賞している。
日本近代写真の成立/金子隆一 (写真) 金子隆一、柏木博、長谷川明と共著/青弓社/1987年
名前=伊東輝悦
本名=
愛称=テル
カタカナ表記=イトウ テルヨシ
アルファベット表記=ITO Teruyoshi
原語名=
原語表記=
誕生日=1974年8月31日
出身地=静岡県静岡市清水区
身長=168cm
体重=72kg
血液型=B型
所属チーム名=清水エスパルス
ポジション=ミッドフィールダー MF
背番号=7
伊藤 哲朗(1948年10月-)は、第85代警視総監。福岡県出身。東京大学法学部を卒業後、1972年に警察庁へ入庁。石川県警本部長、警視庁警備部長、皇宮警察本部長、警察大学校長などの要職を経て、2006年1月19日に警視総監へ就任。
1991年(平成3年)1月18日 警察庁刑事局保安部外勤課長(警視長)
1992年(平成4年)4月1日 石川県警察本部長
1993年(平成5年)8月24日 警察庁交通局交通規制課長
1995年(平成7年)9月8日 警察庁長官官房会計課長
1997年(平成9年)9月1日 警察庁長官官房首席監察官
1998年(平成10年)1月9日 警視庁警備部長(在任中に警視監)
2000年(平成12年)1月11日 千葉県警察本部長
2002年(平成14年)8月2日 皇宮警察本部長(皇宮警視監)
伊東 勤(いとう つとむ、1962年8月29日 - )は、熊本県熊本市長嶺町出身のプロ野球選手・プロ野球監督。右投げ右打ちの捕手。現役時代は西武ライオンズで活躍し、引退後は西武の監督となり現在に至る。西武黄金時代の司令塔として鳴らした。
1980年、熊本県立熊本工業高等学校 熊本県立熊本工業高校(定時制)野球部の捕手として、県大会決勝で秋山幸二がエースだった熊本県立八代高等学校 八代高校を破り全国高等学校野球選手権大会 夏の甲子園に出場。西武の根本陸夫監督にその才能を認められ他球団から守るために西武に囲い込まれた。翌1981年に西武球団職員として雇われ、昼間は練習生として活動し、夜は埼玉県の埼玉県立所沢高等学校(定時制)に通学した。ただ、伊東のように練習生からドラフト指名されたのは極めて稀なケースである(当時の練習生はドラフト外でそのまま入団するケースが普通であった)。
伊東 忠太 (いとう ちゅうた、 慶応3年10月26日 (旧暦) 10月26日(1867年11月21日) - 昭和29年(1954年)4月7日) は明治~昭和期の建築家、建築史家である。
米沢市 米沢生まれ。少年時代を東京、佐倉市 佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)卒業。博士 (工学) 工学博士、東京大学 東京帝国大学教授。法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。また「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った築地本願寺などの作品を残す。1943年には建築界ではじめて文化勲章を受章した。
円柱の中央部に膨らみをつけて立体感を付ける技法をエンタシスという。法隆寺の支柱の胴張りとギリシャ建築のエンタシスを無根拠に関連づけたのは、和辻哲郎の『古寺巡礼』である。これに関する伊東の論文(1893年)は、具体的証明を示していない。日本はシルクロードの終着点、といった言説とともに日本でよく語られる説であるが、学問的には立証されていない。