石井 政之(いしい まさゆき、1965年7月 - )は日本のジャーナリスト。愛知県名古屋市出身。豊橋技術科学大学物質工学(有機化学)課程卒業。医療雑誌の編集記者を経て、1990年よりフリーライターとして活動を始める。生まれつき顔に大きな赤あざ(単純性血管腫)があり、そのことをきっかけに顔面や肉体の奇形・変形についての著作を多く書いている。NPO法人ユニークフェイス代表。 ユニークフェイス研究所代表。東京放送のテレビドラマ『3年B組金八先生』の第7シリーズで登場する、顔にあざのある養護学校教諭・青木圭吾(演・加藤隆之)のモデルとなった。現在、カモフラージュメイクの事業化と、ドキュメンタリー映画『ユニークフェイス・ライフ』の制作に取り組んでいる。
石井 正弘(いしい まさひろ、1945年11月29日 - )は、岡山県知事。元建設省職員。岡山県上道郡光政村(現・岡山市)出身。東京大学法学部卒業。知事3期目。(2004年)
1945年11月:岡山県上道郡光政村政津(現・岡山市政津)生まれ。
1952年4月:光政村津田村組合立政田小学校入学。(1953年2月から西大寺 (岡山市地名) 西大寺市立、現・岡山市立政田小学校)。(~1958年)
1958年4月:西大寺市立上南中学校入学。(現・岡山市立上南中学校)。(~1961年)
1961年4月:岡山県立岡山操山中学校・高等学校 岡山県立岡山操山高等学校入学。(~1964年)
1965年4月:東京大学法学部入学。(~1969年)
1969年4月:建設省入省。
石井 眞木(いしい まき、1936年5月28日 - 2003年4月8日)は、日本の作曲家、指揮者。東京都出身。
同じく作曲家の石井歓は兄。父は舞踏家の石井漠。幼少より、父の舞踏音楽を担当した縁で伊福部昭の薫陶を受け、その後正式に師事。
1958年、ベルリンに留学し、国立ベルリン音楽大学作曲科でボリス・ブラッハー、ヨーゼフ・ルーファーらに師事。62年に帰国後、十二音技法などを使った作曲をしていたが、その後、アジア圏の民族音楽、たとえば声明やガムランなどに影響された音楽を作曲。国際的な交流活動にも積極的で、日独現代音楽祭や日中友好合作現代音楽祭の企画等も行なっていた。
石井ふく子(いしい ふくこ、1926年9月1日 - )は、日本のテレビプロデューサー。父は新派劇 劇団新派の俳優だった伊志井寛。母は分川本の君鶴と呼ばれた芸者で小唄の家元となった三升延。伊志井は養父であり実の父は別にいる。そのため伊志井の孫・石井希和(テレビ朝日アナウンサー)とは血縁関係はない。
東京都出身。東京女子経済専門学校(現東京文化学園)卒業後、新東宝の女優などを経て、東京放送 TBS入社。プロデューサーとして「肝っ玉かあさん」、「ありがとう (テレビドラマ) ありがとう」、「女と味噌汁」、「カミさんと私」など数々のホームドラマをヒットさせる。特に脚本家・橋田壽賀子とコンビを組む「渡る世間は鬼ばかり」は15年以上にも及ぶ長寿番組となっている。
石井 弘寿(いしい ひろとし、1977年9月14日 - )は、千葉県市原市岩崎出身の東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手である。ポジションは投手。左投げ左打ち。背番号は61番。愛称は「ゴリ」「ゴリさん」。
1995年のドラフト会議で、東京ヤクルトスワローズ ヤクルトスワローズから4位指名を受け入団。ルーキー年となる1996年にいきなり13試合に登板し、防御率3.38の好成績を残すも、その後は制球に苦しみ2年目は僅か1試合の登板、3年目は故障の影響で一軍登板無しに終わる。25試合投げた1999年も、防御率は6.28と不本意な成績に終わり、翌シーズン前に打者転向を示唆されるほどであった。石井は打者と投手の練習を並行して進めるという逆境にめげず、伊東昭光コーチ指導の下で課題の制球を徐々に克服。2000年から中継ぎに定着し、チームのリリーフ陣にとってなくてはならない存在として成長していく。
石井 裕也(いしい ゆうや、1981年7月4日 - )は、プロ野球・セントラル・リーグ、中日ドラゴンズ所属のプロ野球選手(投手)。背番号は30番。
即戦力左腕として2004年ドラフト会議 ドラフトで中日が6巡目指名。得意球は、スライダーとスクリュー。
左耳は全くきこえず、右耳も先天性感音性難聴のハンディを持つ。
小2で野球に熱中し、小5で外野手と投手を兼務し始めたときはノーコンで有名だった。
その後、横浜商工高に進学。横浜商工高では3年生の夏に5試合を投げてベスト8に進出。37個の三振を奪い「サイレントK」と称された。尚、当時から現在においてもマウンドに上がると補聴器をオフにすることが多い。
石井 浩郎(いしい ひろお、1964年6月21日 - )は、秋田県南秋田郡八郎潟町出身の元プロ野球選手。現役時代は大阪近鉄バファローズ 近鉄バファローズ、読売ジャイアンツ、千葉ロッテマリーンズ、横浜ベイスターズに在籍した。ポジションは内野手(三塁手、一塁手)。右投げ右打ち。
ロッテ時代の応援歌の原曲はイ・ジョンヒョンの『ワ』
八郎潟町立一日市小(6年生の時に統合して八郎潟小となる)、八郎潟中学校を卒業後、県内でも野球強豪校であり、県内一の進学校である秋田県立秋田高等学校 秋田高校に進学。惜しくも甲子園出場を逃したが、早稲田大学第二文学部(夜間)に進学(一般入試・現役合格)し、日米野球選手権にも出場した。社会人のプリンスホテル硬式野球部 プリンスホテルに3年間在籍し、通算32本塁打を記録。中長距離打者として知られ、全日本でも4番を務めた。
石井久(いしいひさし、1923年5月13日 - )は、日本の実業家。立花証券の父として知られる。
13人兄弟のうちの7番目の五男として福岡県筑紫郡大野村(現大野城市)牛頸(うしくび)の農家藤井家に生まれる。地元の尋常高等小学校を卒業ののち、昭和13年(1938年)4月に渡辺鉄工所(九州飛行機)に入所。8年後の昭和21年(1946年)8月に弁護士を志して上京するが、警視庁警察練習所に入所、のち昭和22年(1947年)3月をもって24歳で巡査となる。同年11月に5歳年下の石井愛子と結婚、石井姓へ。警視庁を退官ののち昭和23年(1948年)6月に東京自由証券株式会社に入社、株式新聞の記者などを経て、昭和28年(1953年)3月29歳のときに石井株式研究所を創立する。同年9月に江戸橘証券株式会社を創立、昭和32年(1957年)6月には立花証券株式会社を買収し江戸橘証券とこれを合併、4年後の昭和36年(1961年)10月には同社の取締役社長に就任、昭和63年(1988年)12月には同社取締役会長に就任する。その後平成12年(2000年)の6月をもって同社取締役相談役に就任、現在にいたる。
石井 一(いしい はじめ、1934年8月17日 - )は、日本の政治家。前衆議院議員(11期)。
通称「ピンさん」。国土庁長官、自治大臣、民主党_(1996-) 民主党副代表などを歴任。参議院議員、自由連合幹事長などをつとめた石井一二は弟。
昭和9年(1934年)8月17日
兵庫県神戸市須磨区
甲南大学経済学部スタンフォード大学大学院政治学研究科修了
政治学修士
衆議院議員
兵庫県第1区 兵庫1区
(自由民主党→)(新生党→)(新進党→)(国民の声→)(民政党→)民主党(羽田グループ)
兵庫県総支部連合会顧問
兵庫県第1区総支部連合会代表
昭和9年(1934年)8月17日兵庫県神戸市須磨区に石井廣治、久子夫妻の長男として生まれる。甲南高等学校・中学校 甲南高等学校を経て、昭和32年(1953年)甲南大学経済学部を卒業する。その後、アメリカに留学し、昭和35年(1960年)スタンフォード大学大学院政治学研究科を修了し、政治学修士号を得る。帰国後、郷司浩平の知遇を得、その縁で日本生産性本部に入る。
石井 直方(いしい なおかた、1955年-)は、日本のボディビル ボディービルダー、東京大学大学院総合文化研究科教授、理学博士。
日本ボディビル選手権大会(ミスター日本)優勝者(1981年・1983年の2回)、1982年IFBBミスターアジア優勝者。
日本のボディービルダー
石井 智也(いしい ともや、1984年5月14日-)は日本の俳優、タレント。東京都出身。太田プロダクション所属。父は俳優の石井愃一。
デビュー作はフジテレビ系列テレビドラマ「ウォーターボーイズ WATER BOYS」。お菓子好きでぽっちゃり体型だが、実は水泳が得意な石塚太役を好演。役作りのために相当太る努力をしたという。
その後舞台「キッチン」、ドラマ「ライオン先生」、「ファイト (朝ドラ) ファイト」、「南くんの恋人」、映画「隣人13号」等で活躍する一方、その明るく親しみやすいキャラクターで「世界ウルルン滞在記」「天才!志村どうぶつ園」等でのレポーターとしても活躍。特技はバスケットボールと通販番組のモノマネ。
石井 トミコ(いしい とみこ、本名;山根富子、1935年1月12日 - )は、日本の女優である。旧芸名;石井富子。大阪松竹歌劇団出身者。夫は演出家の山根優一郎。
大阪府出身、血液型はB型。身長154cm。水泳、日舞などが趣味。
現在、1000本以上のテレビドラマや映画に出演している名脇役。近所のおばさん役や主人公の親戚役など、典型的なおばさん役を見事に演じる。出演1000本突破の際には「いつみても波乱万丈」にゲスト出演した。
バラエティー番組でのキャラクターも人気で、「踊る!さんま御殿!!」にも出演。独特の存在感で明石家さんまを圧倒し、パワフルなトークを展開した。
天までとどけ
石井 亨(いしい とおる、大正15年(1926年)~)は、宮城県の政治家、官僚。仙台市長(在任期間 昭和59年(1984年)12月23日~平成5年(1993年)7月3日)。
北海道出身。東京大学法学部卒業後、旧自治省に入省。千葉県開発部管理課長などを経て、昭和38年(1963年)宮城県知事山本壮一郎に宮城県職員として招かれる。その後総務部次長、商工労働部長、総務部長を務め、昭和49年(1974年)に宮城県副知事に就任。ポスト山本一番手と見られていたが、昭和59年(1984年)に革新系の島野武仙台市長が急死したため、保守系の市長候補として担ぎ出される。本人は知事になりたかったため、当初非常に消極的だったと言われる。選挙の結果石井は当選し、仙台市長となる。
石井 輝男(いしい てるお、1924年1月1日 - 2005年8月12日)は、日本の映画監督。70年代は東映のエログロ作品とアクション作品を量産し、90年代はつげ義春、江戸川乱歩の世界へ傾倒した。東映プロデューサーの天尾完次は石井は同じ東宝出身の黒澤明と対極に位置すると評している。
1924(大正13)年1月1日、東京都中央区_(東京都) 中央区生まれ。生家は浅草の綿問屋。
1939(昭和14)年、早稲田実業学校 早稲田実業を中退。後に東宝へ撮影助手として入社。
1945(昭和20)年、召集。復員後。東宝に戻る。
1946(昭和21)年、新東宝に参加。撮影部より演出部に移る。
1947(昭和22)年3月、渡辺邦男監督の助監督につき演出の仕事を始める。この後、清水宏 (映画監督) 清水宏、成瀬巳喜男の助監督にもつく。
石井 竜也(いしい たつや、1959年9月22日 - )は、茨城県北茨城市出身の日本のJ-POP ポップ音楽家 ミュージシャンである。文化学院卒業。1985年「米米CLUB」のボーカリストとしてデビュー。「米米CLUB」活動中の名前はカールスモーキー石井。愛称は「テッペイちゃん」。身長178cm。
元米米CLUBのダンサーで歌手のMINAKO(本名:金子〈旧姓:石井〉美奈子)は実の妹。彼女が米米CLUBメンバーの金子隆博と結婚したため、金子は義弟となる。
1982年頃、お茶の水にある文化学院において米米CLUBを結成(初期は「ドナルド平原」と名乗り、のちに「カールスモーキー石井」と改名)。
アマチュア時代の活動は、「アバンギャルドで理解不能、思考停止必至」と言われており、関東でも有名なアマチュアバンドとなり、1985年にレコード会社13社の争奪の末に「焼肉をごちそうしてくれたから」という理由で、CBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりデビューした。