羽根 泰正(はね やすまさ、昭和19年(1944年)6月25日 - )は、棋士 (囲碁) 囲碁棋士。三重県出身。日本棋院所属。
故島村俊廣九段門下。羽根直樹九段は実子。門下生に、加藤祐輝五段、青葉かおり四段、浅野泰子二段。
高中国流の布石からの「戦いの碁」を得意とする。
昭和33年入段、36年二段、37年三段、38年四段、39年五段、41年六段、43年七段、46年八段、56年九段。
王座 (囲碁) 王座 平成2年(1990年)
『羽根泰正の中国流で勝つ (NHK囲碁シリーズ)』 1994年 日本放送出版協会 ISBN 4140160683
『羽根ファミリーの囲碁強化合宿』(共著) 2003年 誠文堂新光社 ISBN 4416703228
日本の囲碁棋士 はね やすまさ
羽根 直樹(はね なおき 1976年8月14日 - )は囲碁の棋士 (囲碁) プロ棋士。三重県志摩市磯部町出身。血液型 A型。日本棋院中部総本部所属。父は元王座 (囲碁) 王座の羽根泰正で、親子タイトルホルダーは史上唯一。妻は羽根しげ子初段。
父・羽根泰正の指導の下に幼少の頃より囲碁を志し、1991年に15歳で入段。2002年に九段(入段から11年3ヶ月で九段到達は日本棋院最短記録。)
棋風は腹八分目と言う様に無理をせずに進むべきときは進み、退く時は退くのが特徴。しかし2003年末の天元 天元戦の時から棋風が積極的な攻撃碁に変化してきた。韓国・中国棋士に弱いことがたびたび指摘されるため、今後は国際戦での活躍が課題となる。
羽生生 純(はにゅにゅう じゅん、本名:羽生純、1970年12月25日 - )は、日本の漫画家。男性。長野県上伊那郡飯島町出身。
高校在学中から映画撮影に熱中し、卒業後は一人でもできる映画的表現ということで漫画家を志した。1992年のデビュー以降、アスキー-エンターブレイン系列の雑誌を中心に活躍。線描の多さ、読み手の意表をつく濃厚なストーリーなどが特徴で、多くのクリエイターから注目を集める。
青(オールー)
恋の門 - 2004年に松尾スズキ監督で映画化された。
ワガランナァー
サブリーズ
強者大劇場
ファミ通のアレ(仮題) (原作:竹熊健太郎)
羽生生純の1ページでわかるゲーム業界
埴谷 雄高(はにや ゆたか、男性、1909年12月19日 - 1997年2月19日)は、小説家、評論家。本名は、般若 豊(はんにゃ ゆたか)。代表作は存在の秘密や大宇宙について語った思弁的な大長編小説『死靈』。世界文学史上未曾有の形而上小説であるが未完に終わった。アナキズムに強いシンパシーを抱き続けた元マルクス主義 マルクス主義者で、検挙後に転向した。イマヌエル・カント カント、フョードル・ドストエフスキー ドストエフスキーなどから甚大な影響を受けた。
子供の頃から身体が弱く常に死を身近に感じていたという。子供心に台湾において支配者日本人を強く意識し、罪悪感を感じていた。
埴原 和郎(はにわら かずろう、1927年 - 2004年)は、日本の自然人類学者。東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授。福岡県出身。
東京大学大学院(旧制)修了。東京大学、国際日本文化研究センター各教授を歴任。人類学の「二重構造モデル」を展開した事で知られていた。
「人類進化学入門」
「骨を読む」
「歯と人類学の話」
「日本人の成り立ち」
「日本人と骨のルーツ」
「日本人の顔」
「人類の進化試練と淘汰の道のり」
人類学者 はにわら かすろう
羽仁未央(はに みお 1964年 - )はエッセイスト、メディアプロデューサー。東京都出身。
映画監督の羽仁進と女優の左幸子を両親に持ち、叔母は女優の左時枝。
祖父は歴史学者の羽仁五郎。
幼い頃から海外生活が長く、5~7歳までをパリで、9~11歳までをケニアで過ごす。
小学校4年生の時に学校教育を否定し、話題になる。
それ以後は学校にも通わず、義務教育も受けず、家で教育を受ける。
今ではホームスクーラーの先駆けとも言える存在。
10代の頃からコラムや映画の批評、短編小説、エッセイ等を執筆し1987年から香港在住。
著書に「親が知らない娘の本」(1983年)「陽気な憂鬱症」(1985年)「香港は路の上」(1989年)「夢見る場所は場所も夢見る」(1992年)がある。
八二一(はに はじめ)は、大阪府の写真家ユニット。来秀則(らい ひでのり、12月14日生まれ)と藤原なつみ(ふじわら なつみ、7月4日生まれ)の二人組である。
ユニット名の八二一はハナ肇をもじったものである。カタカナのハニー(はにー)と間違えられてしまうため、ホームページのプロフィールに漢字で書くと最初に注意書きされている。
ネコや犬の写真撮影を中心に活動しており、『あにまるパラダイス』など動物系の雑誌に連載を持つ。また自らの飼い猫”はっちゃん”の写真集は、ユニークなポーズを捉えた写真で人気を集めている。
また、ガムテープで補修されたものに着目した「ガムテープであれが治る」など、ウェブサイト『デイリーポータルZ』や、雑誌『猫びより』の連載等で、街にある変わった物も題材にしている。
羽仁進(はにすすむ、男性、1928年10月10日-)は映画監督。
マルクス主義の歴史家の羽仁五郎と婦人運動家の羽仁説子の間に生まれる。祖母の羽仁もと子が創立した自由学園卒業後、共同通信社記者を経て、1949年、岩波映画制作所の設立に加わる。最初は「岩波写真文庫」の編集などの仕事に携わっていたが、1952年に「厚生省(現・厚生労働省)」がスポンサーの『生活と水』で監督デビューする。
1954年の撮った『教室の子供たち』で、授業中の子供達の姿を生き生きとフィルムにおさめ、大好評となる。引き続き、1956年に制作した記録映画『絵を描く子どもたち』は、当時の記録映画としては珍しく劇場公開され、その名を天下に知らしめた。その作風は、その後の記録映画に大きな影響を与えた。
塙 義一(はなわ よしかず、1934年3月16日 - )は、日産自動車の元社長、会長、現名誉会長。東京大学経済学部卒。
1957年に日産自動車入社。主に米国を中心に工場開設や販売台数増に尽力。1985年には取締役に就任。以後、1988年常務取締役、1990年専務取締役、1991年代表取締役副社長を経て、1996年に代表取締役社長に就任した。
1990年代、2兆円という膨大な有利子負債を抱え、経営危機的状況に陥っていた日産自動車を立て直すため、提携先を模索する。第一候補としてダイムラークライスラーが上がったが、話はまとまらず、最終的にルノーとの提携を決断した。
1999年にはルノーより、カルロス・ゴーン氏を最高執行責任者として受け入れ、代表取締役会長兼社長兼CEOに就任。2000年に代表取締役会長兼CEO、2001年に代表取締役会長に就任し、経営トップをゴーン氏に徐々に移行。V字回復を見届け、2003年に退任。相談役名誉会長に就任した。