最近の有名人・芸能人 姓名判断 1539

姓だけ入力すると画数の良い命名候補が一覧できます
 有名人の画数を占ってみよう

最近の有名人・芸能人 姓名判断 1539

南部陽一郎

南部 陽一郎(なんぶ よういちろう、男性、1921年1月18日 -)は、福井県出身の物理学者である。1960年代に量子色力学とヒッグス粒子の分野で先駆的な研究を行った。日本からアメリカ合衆国に帰化した。
旧制福井中学(現・福井県立藤島高等学校)、第一高等学校 (旧制) 第一高等学校を経て1942年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、1949年に大阪市立大学助教授、翌、1950年に教授になった。1952年に渡米、プリンストン高等研究所を経て、1956年シカゴ大学助教授、1958年に同大学教授になった。1991年シカゴ大学名誉教授である。
1978年、文化勲章受勲。1982年には、アメリカ科学界最高峰の栄誉とされる、アメリカ国家科学賞を授与された。

南部靖之

南部 靖之(なんぶ やすゆき、1952年1月5日-)は兵庫県神戸市出身の実業家 企業家。人材派遣会社株式会社パソナ創業者。株式会社パソナ代表取締役グループ代表兼社長。兵庫県立星陵高等学校、関西大学工学部卒業。学位は学士 工学士(関西大学)。
ベンチャー企業の起業家が一般的ではなかった1970年代当時、ソフトバンクの孫正義、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄とともにベンチャー三銃士と称された。
関西大学在学中、「家庭の主婦の再就職を応援したい」という思いで卒業を一月後に控えた1976年2月に人材派遣会社「テンポラリーセンター」を設立した。当時、オイルショックの影響もあり、各企業ともに経営縮小を余儀なくされており、南部の派遣ビジネスは多くの企業から歓迎され、事業は急成長を遂げる。

南部虎弾

南部虎弾(なんぶ とらた 本名:佐藤 道彦 1951年7月14日 - )は、コメディアン・パフォーマーであり、電撃ネットワーク(海外では東京ショックボーイズの名称)の一員である。
山形県鶴岡市出身。山形県立鶴岡南高等学校卒業、高崎経済大学中退。元日本青年社構成員。
黒澤明監督の『影武者 (映画) 影武者』に端役で出演している。出演者クレジットは南部虎太となっている。
デビュー当初のダチョウ倶楽部でリーダーだった。テレビ番組収録中、生意気な口をきいたところ受けたため、悪乗りして更に別の番組で生意気な口利きのギャグをやり(山本晋也を参照)、プロデューサーを怒らせてダチョウ倶楽部を強制脱退させられた。

南部忠平

南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年5月24日 - 1997年7月23日)は、戦前のオリンピック選手 オリンピック陸上選手。北海道出身。
北海中学時代から陸上選手としてならした。雪のため練習ができないと、札幌の百貨店へいって階段でトレーニングを行ったりして、従業員にたたき出されたというエピソードが残っている。
早稲田大学在学中の1928年、アムステルダムオリンピックで陸上男子三段跳びで4位に入賞。続く1932年8月4日のロサンゼルスオリンピック (1932年) ロサンゼルスオリンピックの同種目では、優勝(金メダル)の快挙を成し遂げた。また、走り幅跳びでも銅メダルを獲得。
1931年10月27日には神宮で走り幅跳び7m98(+0.5)の世界記録を樹立。この記録は相当にレベルが高く、70年以上たった現在でもいまだに日本歴代13位に位置している。ゆえに40年近く日本記録として残り、1970年6月7日に山田宏臣が8m01を跳ぶまで破られなかった。現在でもこの記録をマークすれば、ことによれば日本選手権優勝もありえる。当時は土の助走路でスパイクも旧式であり、現在のタータンと最新のスパイクの性能を考えると、いかに南部の記録が突出していたかがわかる。

南原清隆

南原 清隆(なんばら きよたか、1965年2月13日 - )は、日本のお笑いタレントで、香川県高松市出身。お笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」のひとり。通称「ナンチャン」。相方は通称「ウッチャン」こと内村光良。主に漫才#ボケとツッコミ ツッコミ担当。マセキ芸能社所属。水瓶座。AB型。身長174.6cm。
ヒロミと同じ生年月日。また学生時代からの盟友・出川哲朗は1才違いで同じ誕生日である。
横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)の演劇科9期卒。1985年、同級生だった内村光良と漫才の授業をきっかけにコンビを結成。その際に講師を務めていた内海桂子・内海好江 好江を師匠に持つ。『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ放送網 日本テレビ系)出演をきっかけに人気を獲得。以後、1990年代のお笑い界をリードした「お笑い第3世代」の一翼として現在も活躍中。

南原繁

南原 繁(なんばら しげる、1889年(明治22年)9月5日 - 1974年(昭和49年)5月19日)は日本の男性政治学者。東京大学 東京帝国大学の総長を務めた。
香川県大川郡相生村(現在の東かがわ市)出身。
南原の家は、楠を姓とし、製糖を業としていたが、明治期に没落、家名を南原(訓はみなみはら。のち、なんばらとなる)と改め、婿養子を迎えた。しかし、繁の幼少時に最初の婿養子であった実父が出奔、母は2歳の繁を戸主として届け出、二度目の婿養子を迎える。
家庭を助けるために、高等小学校在学中に教員養成所に入所、準教員の資格を得るが、周囲の勧めで香川県立大川中学(現香川県立三本松高等学校)に進学、第一高等学校 (旧制) 第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に入学する。入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。

南陀楼綾繁

南陀楼綾繁(なんだろうあやしげ、1967年 - )とは、島根県出雲市出身の古書評論を得意とする文筆家そして収集家 蒐集家。本名河上進として編集者の顔も併せ持つ。『季刊・本とコンピュータ』(トランスアート)誌の編集長。過去にゆまに書房で『宮武外骨全集』の編纂にも関わっていた。学生時代は、浅羽通明の「見えない大学本舗」に参加していた経歴を持つ。原点は、主筆だった大学の民俗サークルの機関紙が発展してミニコミ誌になったことだと云う。現在は本業のほかに、本好きの編集者、ライターの集まり「BOOKMANの会」を主宰。ミニコミ『物数奇』発行人。フリーペーパー「モクローくん通信」発行人。『sumus』の同人。著述業の方では、「本とコンピューター」、「彷書月刊」、「東京古書通信」をはじめ各種ミニコミ誌、古書関係書誌などに多くの文章を載せている。そのすさまじい量の古書収集癖は、切手、絵葉書、マッチ箱などあらゆる紙片に及び、無尽蔵である。古書探索の方も神田の古書店街からチェコプラハの古書店まで、ジャンルもあらゆる分野に及ぶ。現代の東京に生きる粋な好事家の一人である。そういう南陀楼綾繁ワールドのエッセンスが地方出版の雄、秋田の無明舎出版から出された。なお、ペンネームの南陀楼綾繁は、江戸時代に実在した俳人で青梅の人だったと云う。妻の内澤旬子も異文化や建築をテーマにするライターで、『遊牧民の建築術』『アジア路地裏紀行』、『東方見便録』などの共著がある。

南條範夫

南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - 2004年10月30日)は、小説家、経済学者。本名古賀英正。東京都出身。
東京帝国大学法学部、経済学部卒業。中央大学、國學院大學で教鞭をとる傍らで懸賞小説に応募し入選、作家としてデビュー。教授として教鞭をとりながらの2足わらじで、時代小説作家として活躍。多数の作品が映画など映像化された。『駿河城御前試合』は、平田弘史、山口貴由(『シグルイ』)によって漫画化された。
2004年10月30日午前4時、肺炎のため死去。享年95。なお「條」は旧字のため南条範夫とも表記される。
1951年:週刊朝日懸賞小説に入選(『出べそ物語』、デビュー作)

Page Top