最近の有名人・芸能人 姓名判断 1628

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最近の有名人・芸能人 姓名判断 1628

辻邦生

辻 邦生(つじ くにお、男性、1925年9月24日 - 1999年7月29日)は、日本の小説家。東京市本郷 (文京区) 本郷区駒込西片町生れ。9月24日生れだったことから、「くにお」と名付けられる。旧制日大三中、旧制松本高等学校を経て東京大学文学部卒。立教大学助教授、学習院大学文学部フランス文学科教授等を歴任。
1957年からのパリ留学後、1963年『廻廊にて』で近代文学賞。その後は、『安土往還記』や『背教者ユリアヌス』などの歴史小説で様々な賞を受賞。
また、映画評や演劇評などの評論も数多く残している。信濃毎日新聞で連載したエッセイは、「死ぬまで続ける」の言葉通り、急逝の直前まで続き、『辻邦生が見た20世紀末』として出版されている。

つげ義春

つげ 義春(つげ よしはる、男性、1937年10月31日 - )は、漫画家、随筆家。本名 柘植義春。『ガロ (雑誌) ガロ』を舞台に活躍した寡作な作家として知られる。
東京葛飾生まれ。父は板前。伊豆大島や千葉県大原などを転々とした後、葛飾区立石に育つ。5歳で父を亡くし、貧しい母子家庭で苦労して育った。戦時中は空襲を避けて新潟県赤倉温泉に学童疎開。
葛飾区立本田小学校を卒業してメッキ工になったが、母の再婚相手と折合いが悪く、鬱屈した心情から密航を企てて、1952年に横浜港からニューヨーク行きの汽船に潜入。しかし野島崎沖で発覚し、横須賀の海上保安部に連行された。
幼少時からの対人恐怖症が昂じたため、独りでできる仕事として漫画家を志し、1955年に若木書房からプロデビュー。当初は「生活の為」貸本漫画誌に数多く執筆していた。しかし作品はなかなか売れず、錦糸町の下宿の支払いを2年分も溜めたため、便所を改造した一畳の部屋に幽閉され、8年間にわたり悶々の日々を送ることとなった。血液銀行に通って売血したのもこの時期のことである。1962年には、自殺未遂を起こして病院に担ぎ込まれたこともある。

柘植久慶

柘植 久慶(つげ ひさよし、1942年6月21日 - )は、日本の作家、軍事評論家。愛知県出身。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。「柘植久慶」はペンネームで、本名は非公開。すでに70年代前半には別ペンネームで雑誌に寄稿しているのが確認されている。
柘植氏が著作で自ら語るところによれば、海外旅行に行く邦人がまだ少なかった時代に海外へ渡り、柔道、空手の素養があったこともあり軍事機関での訓練を経験した、という。同じく、著作によれば、カタンガ傭兵隊やフランス外人部隊格闘技教官、アメリカ陸軍グリーンベレー グリンベレーでの大尉待遇などの経験がある。
著作の中では、柘植氏は大学1年生の夏休みにヨーロッパのホテルでスカウトされ傭兵としてコンゴ動乱に参加、その後フランス外人部隊で格闘技教官となる。その後ラオス軍格闘技教官となり、ラオスの政府高官にCIA宛てに紹介状を書いて貰い、アメリカ陸軍特殊部隊グリンベレーのAチーム(大尉待遇)に所属し、インドシナ、ラオス等で極秘作戦に参加。 グリンベレー時代の給料は「CIAと密接な関係のあるエアアメリカの名義から支払われた」という記述が見られる。

柘植恵水

柘植 恵水(つげ えみ、1971年6月13日 - )は、日本放送協会 NHKのアナウンサー、愛知県出身。
名古屋市立菊里高等学校→南山大学を卒業後、1995年(平成7年)NHK入局。初任地はNHK福井放送局 福井。以後、NHK首都圏放送センター→NHK名古屋放送局で勤務。現在は東京アナウンス室勤務。同じくNHKアナウンサーである寺澤敏行は高校時代の同級生である。
なお青山祐子と同じくNHKを代表する巨乳アナ。番組でタンクトップ姿を披露したこともある。
生活ほっとモーニングもっと知りたい(9時30分~)キャスター
ポップジャム司会(1998年4月~2000年3月)
NHKのアナウンサー つけ えみ
1971年生 つけ えみ

筑波藤麿

筑波 藤麿(つくば ふじまろ;明治38年(1905年)2月25日 - 昭和53年(1978年)3月20日)は、日本の華族。靖国神社宮司を務める。位階勲等は従三位勲一等侯爵。山階宮菊麿王第三王子で、母は鹿児島県島津藩の島津常子。兄に山階宮武彦王・山階芳麿、弟に鹿島萩麿伯爵・葛城茂麿伯爵がいる。
大正14年2月、皇族として貴族院_(日本) 貴族院議員に就任。同年3月23日勲一等旭日桐花大綬章受章。昭和3年7月20日願により臣籍降下が認められ、筑波の家名を賜り侯爵に叙せられる。以後は侯爵議員として昭和22年(1947年)まで貴族院議員を務める。昭和21年(1946年)靖国神社宮司に就任。宮司在任中にA級戦犯合祀が討議された。合祀はするものの時期については慎重に判断すると決まり、結局在任中には合祀しなかった。藤麿は東京帝国大学国史学科を卒業した後歴史研究を志し、自宅に筑波歴史研究室を作った。妻、喜代子との間に3人の子供をもうけた。長男の筑波常治 常治も科学史家で早稲田大学教授となる。長女登喜枝は平戸藩松浦陞の四男松浦擇に嫁ぐ。次男筑波常秀 常秀は勧修寺門跡。勧修寺門跡は藤麿の生家山階宮の初代山階宮晃親王 晃親王もこの職に在った。

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