三遊亭 小遊三(さんゆうてい こゆうざ、本名:天野 幸夫(あまの ゆきお)、1947年3月2日 - 、A型)は山梨県大月市出身(神奈川県横浜市生まれ)の落語家。明治大学経営学部卒。現在は練馬区在住。出囃子は『ボタンとリボン』。人気演芸番組『笑点』(日本テレビ)の笑点の大喜利 大喜利メンバーとして知られる。
高校時代、卓球部キャプテンを務めていたことから東京オリンピックの聖火ランナーに抜擢される。しかし、母校の近くの区間を走らなかったので誰も見に来なかった。2005年12月、山梨県より「富士の国やまなし観光大使」委嘱。またらくご卓球クラブ(監督は林家こん平)のコーチであるほか落語家6人で組んだバンド「にゅうおいらんず」ではトランペットを担当している。
三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば)は落語の名跡。当代は#4代目 4代目。
3代目三遊亭 金馬(1884年10月25日 - 1964年11月8日)は江戸噺家(落語家)。本名は加藤 専太郎。
当初は講釈師(講談師)を目指したが、1913年三遊亭圓歌#初代 初代三遊亭圓歌門に移り、三遊亭歌当を名乗る。二つ目昇進で2代目三遊亭歌笑を襲名。のち三遊亭圓洲に改名。1918年、真打昇進。1926年、3代目三遊亭金馬を襲名。
1934年、東宝の専属となり、東宝名人会の常連となるが、東宝演芸場他東宝系以外の寄席には出演しなくなった。
芸風は明瞭で、「楷書で書いたような落語」といわれ、老若男女誰でも分かり易いと定評があった。
三遊亭歌笑(さんゆうてい かしょう)は落語の名跡。当代は4代目。
3代目三遊亭歌笑(1917年9月22日 - 1950年5月30日)は東京都西多摩郡五日市町(現:あきる野市)出身の落語家。本名 高水 治男。
1937年、三遊亭金馬#3代目 3代目三遊亭金馬(2代目歌笑でもある)に入門。のち寄席に出演するため、寄席に背を向けていた金馬門を離れ、三遊亭圓歌#2代目 2代目三遊亭円歌門に移る。1940年歌笑襲名。1948年真打昇進。
エラの張った顔が特徴で、極度の斜視であるため目配りが必要な古典落語の道を諦め、自作の新作落語で活躍。特異な風貌や奇声と共に終戦直後の荒んだ世相に明るい笑いを提供。「爆笑王」「笑いの水爆」と呼ばれ、一世を風靡。柳亭痴楽#4代目 4代目柳亭痴楽、9代目柳家小三治(のちの5代目柳家小さん)ら同年代の若手落語家に多大な刺激を与えた。
三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく)は江戸噺家の名跡。当代は5代目。
初代圓楽は、後に3代目三遊亭圓生を襲名。
2代目圓楽は、かつての初代三遊亭小圓朝であり、のち「三遊一朝」を名乗る。
3代目圓楽は、後に5代目蝶花楼馬楽から8代目林家正蔵を経て、林家彦六を名乗る。
4代目圓楽は、3代目三遊亭圓遊の弟子で、後に3代目柳亭市馬を名乗る。
5代目 三遊亭 圓楽(1933年1月3日~)は、東京都台東区生まれの落語家。実家は日照山不退寺易行院(通称助六寺)。本名、吉河 寛海(よしかわ ひろうみ)。埼玉県立杉戸農業高等学校卒業。血液型はAB型。かつて人気演芸番組『笑点』(日本テレビ)の回答者・司会者を勤めていたことで知られる。
三遊亭 圓彌(さんゆうてい えんや、1936年7月20日 - 2006年4月29日)は、落語家。東京都新宿区出身。本名 林 光男(はやし みつお)。
1958年10月、8代目春風亭柳枝に入門。「枝吉」と名乗る。柳枝の死後は三遊亭圓生_(6代目) 6代目三遊亭圓生の門下となり、「舌生」と改名。1961年9月、二つ目昇進を機に「円弥」と改名。日本放送協会 NHK『お好み演芸会』の噺家横丁(大喜利)では「幻の噺家」をキャッチフレーズにしていた。1972年9月、真打ち昇進。名を「円弥」から「圓彌」に改めた。
2006年4月29日、肝臓癌のため都内の病院で死去。享年69。
落語家 さんゆうてい えんや
三遊亭 圓窓(さんゆうてい えんそう)は落語家の名跡。当代は6代目。
三遊派における重要な名跡の一つに数えられている。
初代圓窓は、後に圓丈、柳窓、柳昇などを経て、6代目司馬龍生を襲名。本名は永島勝之助。
2代目圓窓は、後に三遊亭花圓遊を経て、本来の初代柳家三語楼。
3代目圓窓は、後に橘家圓蔵を経て、三遊亭圓生_(5代目) 5代目三遊亭圓生を襲名。
4代目圓窓は、3代目の義理の息子が受け継ぎ、先代と同様に橘家圓蔵を経て三遊亭圓生 (6代目) 6代目三遊亭圓生を襲名した。→三遊亭圓生 (6代目)を参照のこと。
5代目圓窓は、3代目の実弟が襲名した。一時期桂 圓窓と名乗っていたこともある。
三代目三遊亭 圓丈(さんゆうてい えんじょう、1944年12月10日-)は主に新作を演じる落語家。愛知県名古屋市出身。本名は大角 弘(おおすみ ひろし)。明治大学文学部演劇学科中退。出囃子は『官女』。定紋は三ツ組橘だが、ローリング・ストーンズのベロマーク(タンロゴ)を着物に貼付して高座に出ることもある。
1964年に三遊亭圓生_(6代目) 六代目三遊亭圓生に入門。前座名は三遊亭ぬう生。1969年に二ツ目、1978年に真打ちに昇進。この年、落語協会が分裂し師匠の圓生とともに脱会し落語三遊協会に参加。圓生の死後の1980年に落語三遊協会は解散、落語協会に復帰した。2003年に落語協会監事に就任。
三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう)は落語家の名跡。
三遊派の本流中の本流。六代目以降、断絶している。
三遊亭圓生 (1代目) 初代三遊亭圓生 (山遊亭猿生)
三遊亭圓生 (2代目) 二代目三遊亭圓生 本名: 尾形清治郎 落語中興の祖と言われる三遊亭圓朝の師。
三遊亭圓生 (3代目) 三代目三遊亭圓生 本名: 嶋岡新兵衛
三遊亭圓生 (4代目) 四代目三遊亭圓生 本名: 立岩勝次郎
三遊亭圓生 (5代目) 五代目三遊亭圓生 デブの圓生、本名: 村田源治
三遊亭圓生 (6代目) 六代目三遊亭圓生 (1900年9月3日 - 1979年9月3日)柏木の圓生、本名: 山崎松尾
落語の名跡 さんゆうてい えんしょう
落語家 さんゆうてい えんしょう
三遊亭 圓歌(さんゆうてい えんか)は、落語家の名跡。当代は3代目。
3代目は東京出身で、岩倉高等学校卒業後、学徒動員によって日本国有鉄道 国鉄に就職し、山手線新大久保駅の駅員 駅係員をしていた経歴を持つ。吃音の矯正の為に2代目に入門したが、その2代目もまた吃音者であった、と彼は「中沢家の人々」の中で語っている。
歌奴時代、黎明期のテレビ演芸番組に多く出演し、1960年代の演芸ブームでは売れっ子芸人の一人に目される。一時期「笑点」の大喜利レギュラーとして出演していた。1967年に御前公演をした。この頃に自作の「授業中」で人気を博したことから、この時代の世代からは圓歌襲名後も「歌奴」と呼ばれることがあるという。
三遊亭 圓右(さんゆうてい えんう)は落語家の名跡。「円右」とも記す。
初代三遊亭 圓右(1859年 - 1924年)は江戸噺家。本名 沢木勘次郎。2代目三遊亭圓橘#2代目 三遊亭圓橘門下。
4代目橘家圓喬と並び称される明治期から大正期にかけての名人。一代で圓右の名跡を築いた。1924年に2代目三遊亭圓朝を名乗ることを許されるが、すでに身体は病魔に冒されていた。結局病床で襲名するも間もなく逝去。享年65。
2代目圓朝となったのは事実であるが、殆ど活躍せずに没したため「幻の2代目」と言われる。一方、圓右時代の功績が華々しかったためか、一般には「初代圓右」として認識される。「名人円右」といえば、初代の事を指す。
三遊亭 歌之介(さんゆうてい うたのすけ、1959年4月8日 - ) は落語家。鹿児島県肝属郡錦江町(旧:大根占町)出身。本名は野間 賢(のま さとし)
1978年3月3代目三遊亭圓歌に入門。1987年5月真打ち昇進。初代三遊亭歌之介となる。出囃子は『我は海の子』。
古典落語と新作落語の両方を器用にこなし、さらには地元の鹿児島に戻ったときは、鹿児島弁での落語も披露する芸達者な落語家。特に、新作落語の方は自分の少年時代や母親の事を題材にする事もある。
本人曰く、「私はテレビには出ない主義の芸人です。」という通り、メディアへの露出は少ない。しかしながら、鹿児島では年に一度鹿児島弁の落語をテレビで見る事ができ、販売されているCD・テープ・ビデオも鹿児島弁のものの方が多く発売されており、地元での人気の高さを物語っている。師匠の鹿児島弁の落語は、地元の人間にとっては大爆笑であっても、鹿児島弁がわからないと半分も意味がわからないようだ。
三宮 恵利子(さんみや えりこ、1974年9月19日 - )は、ローカルタレント、元スピードスケート選手。トヨタ自動車所属。
北海道釧路市出身。中学時代に全国優勝を果たし、北海道釧路星園高等学校を経て富士急行入り。
1998年長野オリンピック 長野、2002年ソルトレークシティオリンピック ソルトレークシティーと、2度の冬季オリンピックに出場。その間、1000mでの日本記録樹立、世界スプリントスピードスケート選手権大会 世界スプリントで総合2位を記録するなど、日本女子短距離界を代表する活躍を見せた。ライバルの1人でもあった岡崎朋美は、高校~社会人を通じて先輩にあたる。
引退後は、スケート教室の講師をはじめ、テレビ出演や講演などのイベント活動もこなし、さらにレーシング・ドライバーデビューも果たした。