最近の有名人・芸能人 姓名判断 1840

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最近の有名人・芸能人 姓名判断 1840

小林亜星

小林 亜星(こばやし あせい、1932年8月11日 - )は、作詞家、作曲家、俳優。東京都杉並区出身。慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。作曲を服部正に師事する。息子は「太陽戦隊サンバルカン」などに出演した元俳優で、「国語の神様」の異名を取る学習塾講師・小林朝夫。
J-scat(日本作詞作曲家協会)理事。タレント作曲家である。大日本肥満者連盟(大ピ連)初代会長を務めた。
一般に知られている名前の漢字表記は「亜星」であるが、本人は「亞星」と書くようである。
子供時代、戦争により長野県小諸市に疎開し、疎開の子供たちの悲惨さをTV番組で語り、涙を誘ったこともある。

小林彰

小林彰太郎(こばやししょうたろう、1929年-)は、日本の代表的自動車評論家で作家。自動車評論においては、草分け的存在。
東京都に生まれ、少年時代は飛行機好きの軍国少年として育ち、終戦間際では、動員された海軍技術研究所で、アルミ製の予定だった、中島十八試陸上攻撃機「連山」を鋼鉄製に変える開発に関わっている(液体酸素を研究所まで運ぶ仕事。尚、スチールの連山の計画があった事は、公開されている実録にも載っていない。)。1945年に第二次世界大戦が終結し、連合国による飛行禁止令が出て以降は徐々に自動車へその興味が移り始める。その後東京大学在学中に、アメリカ大使館付随の語学学校で大使館員に日本語教育をするアルバイト(給料は当時の学生のアルバイトでは破格だったという)を1年間続け、1932年型オースティン (自動車) オースティン・セブンを購入し、本格的に車の世界へ入り込む。

小林旭

小林 旭(こばやし あきら、1938年11月3日 - )は、俳優、演歌歌手 歌手である。ニックネームは、マイトガイ。
東京都出身。第三期日活ニューフェイスに合格。明治大学中退。
1959年公開の「南国土佐を後にして」で脚光を浴びる。
以降「渡り鳥」シリーズ、「旋風児」シリーズに主演。石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。
映画の『ギターを持った渡り鳥』『銀座旋風児(ぎんざまいとがい)』など主題歌、挿入歌を歌いヒットさせる。また、『自動車ショー歌』(※2005年に放送されたアサヒビールの《カクテルパートナー》のCMソングはこの【自動車ショー歌】をアレンジした『カクパーショー歌』)、『山手線#その他 恋の山手線』などのコミックソング、『昔の名前で出ています』などの演歌も歌う。

小林昭二

小林 昭二(こばやし あきじ、1930年9月6日 - 1996年8月27日)は、東京市北区(現在の東京都北区 (東京都) 北区)出身の日本の俳優、声優。日本大学芸術学部映画学科中退。劇団俳優座の出身で、同期には小沢昭一や土屋嘉男がいる。
1952年に日活の映画『殺人容疑者』でデビュー。
映画や円谷プロダクションや東映製作のTV作品多数で活躍。『ウルトラマン』のムラマツ・キャップ、『仮面ライダー』の立花藤兵衛役などが有名。また、市川崑監督の金田一耕助シリーズには全作に顔を出している。そのほか、時代劇などでもゲストや脇役としても出演するなど、幅広い役柄を演じることが出来、存在感の見せることのできる俳優として活躍した。またジョン・ウェインの吹き替えなど、声優としての仕事も多数ある。

小早川毅彦

小早川 毅彦(こばやかわ たけひこ、1961年11月15日 - )は、広島県安芸郡 (広島県) 安芸郡府中町出身。プロ野球選手(内野手)。現役時代は広島東洋カープ、東京ヤクルトスワローズ ヤクルトスワローズで活躍した。現在は広島打撃コーチ。
両親とも小学校の教師。3歳のときに重度のネフローゼを発病し、小学校6年生まで運動を許可されなかった。中学から野球を始め、高校は学校法人PL学園 PL学園に野球留学し2度甲子園出場。法政大学 法大に進み、法大では1年から4番を務め、2年秋季リーグでは三冠王を獲得した。
1983年ドラフト会議 ドラフト2位で広島に入団。「赤ヘルの若大将」として衣笠祥雄や山本浩二の後継者として期待された。初年度からクリーンナップに座り1984年最優秀新人 (野球) 新人王。以降赤ヘルの中軸打者として活躍した。母親が重篤でありながらも試合に出場し本塁打を放った直後に母親の死を知らされたという。また法大の6年先輩読売ジャイアンツ 巨人・江川卓 (野球) 江川卓投手を引退に追い込むホームランを放ったことでも知られる。その後野村謙二郎や前田智徳ら若手の台頭で出場機会が減り、1996年オフに自由契約となりヤクルトに移籍。

小浜逸郎

小浜 逸郎 (こはま いつお、1947年-) は評論家。横浜国立大学附属横浜中学卒、東京教育大附属駒場高校(現筑波大学附属駒場高校)卒、横浜国立大学工学部建築学科卒業。国士舘大学客員教授。
大学卒業後、学習塾を経営しながら評論活動を続け、家族論、学校論、ジェンダー論などを世に問う。保守、革新といった旧来のイデオロギーとは一線を画した、生活人の実感を尊重した議論で支持を得る一方で、小市民主義といった批判もある。
2001年10月から、私立麻布学園の一室を借り、小浜が認める知識人を講師として呼ぶ連続講座「人間学アカデミー」を主宰する。過去の講師には呉智英、竹田青嗣、小谷野敦、橋爪大三郎、長谷川三千子、滝川一廣など。2005年9月から第5期講座を開始。講師は西垣通、伏見憲明、苅谷剛彦、竹田青嗣、小浜逸郎の5名。

木幡美子

木幡 美子(こばた よしこ、本名:岡 美子【おか よしこ、旧姓:木幡】、1967年3月3日- )は、フジテレビジョン フジテレビアナウンサー。東京都出身。血液型はB型。
母は、国際線の客室乗務員だった。
1歳~3歳までベイルート、11歳~14歳までニューヨークで生活。
英語は得意で、英語検定1級所持、TOEIC915点。
千葉県立船橋東高等学校卒業。上智大学外国語学部英語学科卒業。(同期の田代尚子アナウンサーとは大学の同級生)
大学在学中、1987年度にミスソフィア(ミス上智大学)に輝く。通訳の学校にも通っていた。
もともと、フジテレビが第1志望だった。日本テレビも受けたものの、最初の試験で不合格。

小橋賢児

小橋 賢児(こはし けんじ、1979年8月19日 - )は、俳優。東京都出身。血液型はA型。
日本放送協会 NHK大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANGU」(1992年、NHK)
人間・失格~たとえばぼくが死んだら(1994年、TBS)
指輪 (テレビドラマ) 指輪(1995年、THK)
禁じられた遊び(1995年、NTV)
家なき子 (テレビドラマ)#家なき子2 家なき子2(1995年、NTV)
我慢できない!(1995年、CX)
金田一少年の事件簿 (テレビドラマ) 金田一少年の事件簿(1995年、オペラ座館殺人事件 犯人 有森裕役 NTV)
ようこそ青春金物店(1996年、NHK)
若葉のころ(1996年、TBS)
しようよ2 女教師ナズナの場合(1996年、ANB)
ガラスの仮面(1997年、ANB)

古波蔵保好

古波蔵 保好(こはぐら ほこう、もしくはこはぐら やすよし 1910年 - 2001年8月30日)沖縄県出身のエッセイスト、評論家。沖縄県首里市(現那覇市)出身。
1931年、当時県域新聞社として発行していた沖縄日日新聞(現沖縄日報)の記者として入社。その後毎日新聞に移籍し社会部記者、論説員。退社後はエッセイスト、評論家として、日本エッセーストクラブ賞を獲得した「沖縄物語」を始め、沖縄の歴史、文化・世相風俗、食などに関する著書を多数発表。また那覇市の沖縄料理専門店「美栄」(びえい)を主宰のほか、1972年・第1回ベストドレッサー賞(学術・文化部門)受賞者に輝いた。
2001年8月30日、肺ガンにより91歳で死去。沖縄県を代表する文化人として各界から賞賛を浴びた。

古葉竹識

古葉 竹識(こば たけし、1936年4月22日 - )は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手・プロ野球監督。旧名は「毅(たけし)」(1964年に改名)。赤ヘル黄金期を築いた名将。
熊本県立済々黌高等学校から1955年に専修大学に進学。同年夏休み、母校の高校のグラウンドに出向き後輩にプレーを見せていたところ、偶然来校していた日鉄二瀬監督(当時)の濃人渉の目にとまり日鉄への入社を勧められる。古葉は実家の経済状況を考慮して専大を中退し日鉄に入社、日鉄二瀬野球部に入部した。1957年12月、日鉄二瀬の同僚である江藤愼一の入団交渉に来ていた広島東洋カープ 広島カープの白石勝巳監督に対し濃人は古葉を売り込み、古葉は広島へ入団の運びとなった。この入団契約の席に古葉は参加していない。契約当日なんとぎっくり腰になってしまい、「契約取消になってはまずい。何がなんでもカゼで通そう」と兄が代理で契約にあたった。

近衛甯子

三笠宮甯子(みかさのみや やすこ、1944年4月26日 - )内親王は、日本の旧皇族女性である。日本赤十字社副総裁 三笠宮崇仁親王と崇仁親王妃百合子 親王妃百合子(子爵高木正得の子。)の長女。近衛忠てる 近衛忠煇(日本赤十字社社長)と結婚し近衞甯子となる。学歴は学習院大学文学部英文科卒業。学位は学士 文学士(学習院大学)。
聖心女子学院幼稚園(現在は廃園)、学習院初等科、女子中等科、女子高等科を経て、学習院大学文学部英文科に入学。
1966年12月18日、日本赤十字社職員(現・社長)の近衞忠煇と結婚。近衞忠煇は、細川護煕の実弟で、近衞文麿元内閣総理大臣 首相の孫である。結婚後3年7ヵ月の1970年7月18日、長男・近衛忠大 忠大が誕生。近衛忠大は、武蔵野美術大学卒業後、日本放送協会 NHKに入局教養番組部配属。1995年退職し、海外遊学。現在、SUNプロデュースに所属し、テレビ番組やイベント企画を担当。

近衛通隆

近衛 通隆(このえ みちたか)は、歴史学者。近衛文麿の次男で近衛文隆の弟、近衛忠煇の叔父にあたる。東京大学史料編纂所教授、霞山会、児玉文庫再興委員会会長。陽明文庫理事長を歴任。
近衛文麿が青酸カリによる服毒自殺を図る前日鉛筆で記した、「自分は多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない」と書かれたメモを受け取った。
近衛家

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