葛西敬之(かさい よしゆき、1940年10月20日 - )は、東京都出身の会社経営者で、現在東海旅客鉄道 JR東海会長。松田昌士、井手正敬とともに「国鉄改革3人組」と呼ばれ、日本国有鉄道 国鉄の国鉄分割民営化 分割民営化に尽力した。
1963年 東京大学 東大法学部卒業。日本国有鉄道 国鉄に入社。国鉄を選んだのは、落とした学生証を荻窪駅に受取に行った際、同駅の助役から「東大出身なら国鉄は出世が早いですよ」と勧められたからだと言う。
1987年 国鉄分割民営化によりできた東海旅客鉄道 JR東海の取締役総合企画本部長に就任。
1990年 同社代表取締役副社長に就任。
1995年 同社代表取締役社長に就任。
葛西 稔(かさい みのる、1967年5月5日 - )は、青森県弘前市出身のプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。
東北高等学校 東北高校では佐々木主浩の控え投手兼一塁手として活躍、3年次には夏の全国高等学校野球選手権大会 甲子園でチームをベスト8に導く。その後、法政大学に進学し、アンダースローに転向。2度のベストナインに輝き、東京六大学野球連盟 六大学通算18勝7敗の成績を残す。3年次の第37回全日本大学野球選手権大会 大学選手権一回戦・近畿大学工学部(広島六大学野球連盟 広島六大学)戦では史上4人目となるノーヒットノーランを達成。第17、18回日米大学野球選手権大会 日米大学野球選手権では日本代表に選出され、特に17回大会では0勝1敗ながらも最高殊勲選手に選ばれる大活躍を見せた。ちなみに、六大学では打者として初打席初ホームラン 本塁打も記録している。
葛西 紀明(かさい のりあき、1972年6月6日 - )は、土屋ホーム所属のスキージャンプ選手。日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーン 選手強化キャンペーンのシンボルアスリート制度適用選手。
北海道下川町出身。下川町町民栄誉賞受賞。
1992年のアルベールビルオリンピックに19歳で初出場。以来、リレハンメルオリンピック リレハンメル、長野オリンピック 長野、ソルトレークシティオリンピック ソルトレークシティ、トリノオリンピック トリノと計5回の冬季オリンピックに出場。これは現在、日本人選手としては原田雅彦と並び冬季五輪最多の出場回数になる。次回のバンクーバーオリンピックの時には37歳となるが、6度目の五輪出場も期待されている。
葛西善蔵(かさい ぜんぞう、1887年1月16日-1928年7月23日)は、日本の小説家である。青森県弘前市に生まれた。
生家は広く商売をしていたが、善蔵が2歳のときに没落、一家は北海道や津軽地方を転々とした。善蔵は母の生家の碇ヶ関町に住み、そこで小学校の課程を修了し、商家の小僧をはじめさまざまな職業に就く。文学を志して上京し、東洋大学や早稲田大学の聴講生となるなかで、舟木重雄や広津和郎たちと知り合い、同人雑誌『奇蹟』のメンバーとして迎えられる。1912年、『奇蹟』創刊号に「哀しき父」を発表して、作家としての力量を発揮した。
その後は、しばらく故郷と東京を往復しながら作品を書くも、生活は困難をきわめた。1919年に創作集『子をつれて』を新潮社から刊行し、作家としての地位を確立することはできたが、家族を養うことは難しく、それがその後の葛西の生活におおきな影響をもたらした。葛西の作品は、ほとんどが自らの体験に取材した〈私小説〉といってよいもので、そこに描かれた貧困や家庭の問題は、その真率さで読者に感銘を与える。一方、妻を故郷において東京で別の女性と同棲して、子もなしたことへの批判は当時から根強く、それへの反発が葛西の作品の底流にある。40歳に近づく頃から生活も荒れ、執筆もほとんどが口述筆記となり、嘉村礒多がその任にあたった。肺病が重くなり、1928年、41歳で死去した。
笠井 信輔(かさい しんすけ、1963年4月12日 - )は、フジテレビジョン フジテレビアナウンサー。
東京都出身。 東京都立狛江高等学校、早稲田大学商学部卒。1987年、フジテレビのアナウンサーとして入社。現在、アナウンス室副部長。
宝塚歌劇団や映画に造詣が深い。映画は新作だけで年間130本以上を視聴、フジテレビクラブ会員限定イベント「笠井信輔のシネマン坊トークショー」(年2回程度開催)の司会を務めるほか、「お台場冒険王」内のイベント「The Movie King お台場映画王2005」ではゼネラルプロデューサーに就任した。
比較的鉄道が好きらしく、漫画『鉄子の旅』(作者:菊池直恵、案内人:横見浩彦)に2回(1回目は息子二人をつれており、また家族のみで独自に1回)ほど出ている。
笠井潔(かさい きよし、1948年11月18日 - )は、東京都生まれの小説家、推理作家、SF作家、文芸評論家。和光大学除籍。
作家に転じる前は学生運動に関わり、構造改革派系の共産主義労働者党の学生組織であるプロレタリア学生同盟のイデオローグだった。 当時の筆名は「黒木龍思」。
日本では展望が開けずフランスに飛び、1974年から二年間のフランス滞在を経て、その期間中に草稿を書いた『バイバイ、エンジェル』を1979年に発表し角川小説賞を受賞、デビューする。
執筆と平行して、サイエンス・フィクション SF、推理小説 ミステリー小説への評論活動を行う一方、「ユリイカ」などへの寄稿でも知られる。
加護野 忠男(かごの ただお、1947年-)は日本の経営学者。神戸大学大学院経営学研究科教授。専攻は経営戦略論、経営組織論。大阪府生まれ。大阪府立大手前高等学校卒業、1970年神戸大学卒業、1973年同大学大学院博士課程単位所得退学、1973年神戸大学経営学部助手、1979年同学助教授、1988年同教授。1999年~同学大学院経営学研究科教授。学生時代は占部都美ゼミに所属(18回生)し、関西系の企業の組織論に関する著作や、同学の石井淳蔵(マーケティング論)、伊丹敬之ら一橋大学の学舎との共著も多い。プレジデント社の雑誌『プレジデント』に「経営時論」の連載コーナーを受け持つ(2006年現在)。1979年~1980年ハーバード・ビジネススクール留学。
加古 宜士(かこ よしひと、1937年6月 - )は、日本の会計学者。専門は財務会計論。商学博士。愛知県出身。
1960年早稲田大学第一政治経済学部卒業。1966年同大学大学院商学研究科博士課程修了。
流通経済大学教授、筑波大学教授を経て、早稲田大学商学部教授となる(2006年4月現在)。
大蔵省企業会計審議会委員、金融庁公認会計士審査会委員、公認会計士第二次試験委員、税理士試験委員、不動産鑑定士第二次試験委員などを歴任。
2006年6月現在、金融庁企業会計審議会会長、総務省公益法人会計基準実施検討委員会座長、日本会計研究学会理事、国際会計研究学会会長。
日本会計研究学会・学会賞、太田賞を受賞。
加古 隆(かこ たかし、1947年1月31日 - )は、日本の作曲家・ピアニスト。大阪府出身。
作曲においては、ジャズ・クラシック音楽 クラシック・現代音楽の要素を融合させた独自の作曲形式を確立しており、ピアニストとしては、自身の作品の演奏を中心に活動している。即興性溢れるジャズや自然をテーマにした作品から、絵画・文学・浮世絵・ダンス・建築といった他の様々な芸術から着想を得た作品まで、その音楽のスタイルは極めて自由かつ幅広く、個性に富んでいる。また、近年は映像とのコラボレーションによる音楽も数多く手掛けており、映像音楽の作曲家としても活動の幅を広げている。自身の作品によるコンサートは世界各国に及び、オリジナルアルバムは50作品を超える。シンプルで繊細かつ壮大な心震わせるメロディーと、ピアノから紡ぎ出される透明な音の響きから、「ピアノの画家」と称される。80年代からかぶり始めた帽子がトレードマークとなっており、演奏の際にも必ず身につけている。ピアノはベーゼンドルファーを愛用し、曲の世界に深く入り込むために、演奏は全て暗譜で行う。