井出 竜也(いで たつや、1971年4月19日- )は、山梨県南都留郡富士河口湖町出身のプロ野球選手(外野手)。右投げ右打ち。
山梨県立吉田高等学校から日本通運硬式野球部 日本通運を経て1993年のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズ 日本ハムファイターズから2位指名され入団。守備には定評があり、2年目に129試合に出場し中堅手の定位置を確保した。1997年には初のゴールデングラブ賞獲得。打率は高くはなかったものの、勝負強いバッティングを見せチームの勝利に貢献した。
2003年シーズン終了後には入来祐作との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。巨人ではタフィ・ローズや清水隆行、高橋由伸がいたため守備固めとしての起用が多く先発は3試合のみ。23打数で1安打しか放つことが出来ず、オフに自由契約で福岡ソフトバンクホークスへ移籍。移籍1年目の2005年も守備固めとしての起用が多かったが、左投手の場合は先発としても起用され、復調の兆しが現れた。
井出 卓也(いで たくや 1991年3月12日 - )は東京都出身のタレント。スペースクラフト所属。うお座。
デビュー初期は雑誌の子供モデルやCMに出演。
2001年から2004年までNHK教育の天才てれびくんワイド・天才てれびくんMAXにてれび戦士として4年間出演。独自の明るさとツッコミで場を盛り上げた。
新人当初はヘタレキャラであったが、4年目には最年長として、てれび戦士をまとめるリーダーに。
レッド吉田とは仲が良かったらしい。
番組卒業後の2005年11月には、教育フェア2005の天てれライブ午後の部にてれび戦士OBとして出演。
”04でのキャッチフレーズは【縁の下の苦労人】だった。
ツッコミ担当。
井手 正太郎(いで しょうたろう, 1983年10月10日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手。ポジションは外野手。背番号69。愛称『イデラッキョ』。
日南学園高等学校 日南学園では3番バッターとしてチームメイトの寺原隼人とともに、2001年全国高等学校野球選手権大会 夏の甲子園でベスト8進出に貢献。
ホークスが重視している九州ブランドの選手だが入団当初は評価は低く「寺原を入団させるための人質」とまで言われたが、プロ入り後急成長。3年目となる2004年シーズンにオープン戦で結果を出し、9番右翼手 ライトで開幕スターティングメンバー スタメンに抜擢された。しかし、4月6日の大阪近鉄バファローズ 近鉄戦で負傷。一軍定着のチャンスを逃した。
井手 コウジ(いで こうじ、本名・旧名:井手 功二(読み同じ)、1971年1月11日 - )は東京都出身の作詞家・作曲家・歌手・ラジオパーソナリティー。
1994年にラップユニット「ブランニュー・モンキーズ」でメジャーデビュー。
1995年からは、ニッポン放送「井手功二のゲルゲットショッキングセンター」のパーソナリティーを勤め、「カリスマラジオパーソナリティー」の異名を持つ。
1997年にベーシスト 高砂圭司と「チャーミースマイル&グリーンヘッド」を結成。
ブランニュー・モンキーズ時代から他アーティストへの楽曲提供・プロデュースなどを行う。
また、アニメへの造詣が深いことからアニメソングをパンク・ロック風に演奏する「アニパンク」のプロデュースや、当時大流行した「新世紀エヴァンゲリオン」に関する本を出す。
五輪 真弓(いつわ まゆみ、1951年1月24日 - )は、日本のシンガーソングライター。東京都中野区出身。
1972年10月、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)より、シングル『少女』でデビュー。ファーストアルバム『五輪真弓/少女』はアメリカ合衆国カリフォルニア州のクリスタル・スタジオでレコーディングされ、このレコーディングにはキャロル・キングも参加し、五輪自身もマスメディアで「和製キャロル・キング」と呼ばれた。
その後、アダモの紹介によりフランスでも人気を博す。
1977年に発表されたアルバム『蒼空』はシティ・ポップスの名盤として今日再評価されている。
逸見 政孝(いつみ まさたか、1945年2月16日 - 1993年12月25日)は日本の男性タレントで、司会 司会者、元フジテレビジョン フジテレビアナウンサーであった。愛称はいっつみい。血液型はB型。大阪府大阪市阿倍野区出身。妻はエッセイストの逸見晴恵、長男は俳優の逸見太郎、長女はタレントの逸見愛、実弟は元学生相撲大関で、トーメンに勤務し、後に胃がん(スキルス)で他界した逸見憲治である。
フジテレビ時代は特にニュースキャスターとして活躍。1988年にフリーアナウンサー フリーとなり、テレビでのバラエティ番組の司会やラジオ番組のパーソナリティーなどで人気を博した。
1993年9月6日に、異例の「癌告白会見」を行い芸能界を論議の渦に巻き込んだが、3ヶ月後の12月25日午後0時47分、癌性悪液質(スキルス)のため東京女子医科大学付属病院で死去した。
逸見太郎(いつみ たろう、1972年12月24日~)は、日本の俳優。東京都出身。父は元フジテレビジョン フジテレビアナウンサーの逸見政孝。母は随筆家 エッセイストの逸見晴恵。妹はタレント、レポーターの逸見愛。叔父は元学生相撲大関の逸見憲治。
15歳でアメリカ合衆国 アメリカに留学。帰国後の1998年、父・逸見政孝と親友であるビートたけし 北野武監督の映画『HANA-BI』で俳優デビュー。その後テレビドラマや舞台に多数出演。その他、得意なスポーツを活かしてスポーツ番組にも多数出演している。
『HANA-BI』
『ロズウェル ファンタジー紀行』
『ブラザーズ BROTHERS』
『OUT ~妻たちの犯罪~』
逸見 愛(いつみ あい、1975年3月10日 - )は、日本の俳優 女優、タレント、レポーター。東京都出身。父は元フジテレビジョン フジテレビアナウンサーの逸見政孝。母は随筆家 エッセイストの逸見晴恵。兄は俳優の逸見太郎。叔父は元学生相撲大関の逸見憲治。
1990年にイギリスに留学。Wadhurst collegeにてダンス、英語、音楽、バレエの歴史、美術を学ぶ。帰国後、数々の舞台やテレビドラマ ドラマに出演し、女優として注目を浴びる。
また趣味の絵画の分野では「第24回世田谷区民絵画展」に初挑戦で銅賞を受賞。現在は得意の英語力と父親ゆずりの洞察力で、メジャーリーグ・ニューヨーク・ヤンキース ヤンキースの松井秀喜の番記者・レポーターとしてニューヨークを拠点に活躍。「ズームイン!!SUPER」のスポーツコーナー「GO GO GODZILLA」他、不定期に日本テレビ放送網 日本テレビのニュース番組に出演。
一本木 蛮(いっぽんぎ ばん、1965年1月4日 - )は漫画家。女性。既婚。神奈川県横浜市出身。いわゆるコスプレアイドルの元祖的な存在であり、愛地球博で開催された「世界コスプレサミット」の審査員も務めた。また日本のオタク文化を欧米へ紹介する活動も行なっている。
アメリカからの帰国子女。
学校法人田園調布雙葉学園 田園調布雙葉高等学校卒業。
玉川大学農学部中退。
中学生時代より一本木蛮として同人誌活動を開始。
高校生時代から20代前半にかけては『うる星やつら』のラムのコスプレでも有名であった。
漫画家としての活動のほかにバンド、バイク、映画出演など多方面での活躍をしている。
井筒 仁康(いづつ ひとやす、1971年3月20日 - )は、大阪府大阪市出身の元オートバイ・ロードレース (オートバイ) ロードレースライダー。2000年・2004年全日本ロードレース選手権チャンピオン、2004年鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝。マシン開発力にも定評がある。2004年限りで引退。
1990年 - ロードレースデビュー
1992年 - ジュニア昇格
1993年 - 国際A級昇格
:全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング10位(BEET)鈴鹿8時間耐久ロードレース16位(BEET)
1994年 - 鈴鹿8時間耐久ロードレース 10位(和泉美智夫/BEET/川崎重工業 カワサキ1ZXR750 ZXR750R)
1995年 - 全日本ロードレース選手権GP250 ランキング10位(SP忠男レーシング)
井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年5月4日 - 1993年)は、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、形而上学者。ギリシャ思想、ギリシャ神秘主義と言語学の研究に取り組み、ギリシャ語、アラビア語、ヘブライ語、ロシア語など20ヶ国語を習得・研究した。
株式会社井筒ポマードの創業者一族に生まれる。父は書家で、在家の禅修行者。座禅や公案に親しんで育つ。
旧制青山学院中学で初めてキリスト教に触れる。当初はキリスト教に激しい嫌悪感を抱き、礼拝の最中に嘔吐したこともある。このころ、西脇順三郎のシュルレアリスム文学理論に傾倒。
当初から文学部志望だったが父の反対を受け、1931年4月、慶應義塾大学経済学部予科に入学。同級に加藤守雄や池田弥三郎がいた。しかし経済学の講義に興味なく、西脇順三郎教授を慕って、1934年4月、文学部英文科に転じる。在学中、旧約聖書に関心を持ち、神田の夜学で小辻節三からヘブライ語を習う。さらに、夜学の先輩関根正雄と意気投合し、アラビア語の教科書をドイツから取り寄せて、関根と共にアラビア語を学ぶ。同時にロシア語や古典ギリシア語・ラテン語も学習。一度に10ヶ国語を学んだ。ただし「新しい外国語を一つ習得する時は、その国の大使館のスタッフを自宅に下宿させた」という有名な伝説は自ら否定している(「三田文学」1988年11月1日掲載の安岡章太郎との対談「思想と芸術」)。1937年に卒業後、ただちに慶應義塾大学文学部の助手となる。
井筒 和幸(いづつ かずゆき、1952年12月13日 - )は男性映画監督、タレント。奈良県大和郡山市出身。奈良県立奈良高等学校卒業。
「井筒和生」の名義で1975年 ピンク映画『行く行くマイトガイ 青春の悶々』を初監督。上京後もピンク映画を続け、そのうちのひとつ、『色情女狩り』から「井筒和幸」名義となる。その後、『ガキ帝国』がヒットし、『赤い復讐 暴姦』を最後にピンク映画から遠ざかる。
1991年9月映画『東方見聞録』撮影中に当時21歳であった俳優の林健太郎 (俳優) 林健太郎が鎧を着けたまま人工の滝壺に入り溺死する事故が発生し社会問題となった(井筒は書類送検されたと伝えられている)。製作を担当したディレクターズ・カンパニーは倒産し遺族への慰謝料は全額井筒が支払ったと言われている。
イッセー尾形(いっせーおがた、1952年2月22日 -)は、福岡県出身の俳優。一人芝居のスタイルを確立し、日本における一人芝居の第一人者となる。本名:尾形一成(おがたかずしげ)。東京都立豊多摩高等学校卒業。
日本テレビ放送網 日本テレビの「お笑いスター誕生!!」で金賞を獲得して広く認知されるようになった。この直後の『意地悪ばあさん』(青島幸男主演)では早野金造巡査を演じ、認知度は一気に高まった。
現在では日本国内のみならずアメリカ合衆国 アメリカやヨーロッパといった海外でも巡業を行っている。また一人芝居の他にも桃井かおりや小松政夫との二人芝居、映画、ドラマ・CM・司会、小説の執筆、絵画など幅広く活動を行なっている。