伊東 乾(いとう けん、1965年1月27日 - )は日本の作曲家、指揮者。
東京生まれ。早世した父・正男の青山学院時代の同級生に團伊玖磨、母方の祖父・藤田香苗の関西学院大学 関西学院時代の後輩に山田耕筰がある。藤田は川崎重工の初期エンジンの設計者だが、山田とともに関西学院でグリークラブを創始したのを始め、日本の洋楽草創期に貢献し、その息子たち(伊東の伯父に当たる)は三井グループから桐朋学園の創設に関わった。外山雄三は双従兄弟。
虚実ない交ぜの彼の経歴はなにかと話題になる。伊東は東京大学に進み物理学を専攻し、同大学院理学系研究科物理学専攻 修士課程に進み、博士課程で中退する。その一方、作曲を松平頼則、松村禎三、高橋悠治、近藤譲、指揮をレナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに師事したとされ(ただし、近藤は伊東を教えた事はないと証言しているほか、多くの作曲界の巨匠の名が並ぶ伊東の師事歴に疑問を呈する声は非常に多い)、国際コンクール等でキャリアを重ねた。また初期には武満徹のもとで音楽雑誌編集にも携わった。
伊藤桂一(いとう・けいいち(1917年8月23日 - ))は、作家。三重県三重郡神前村(現四日市市)生まれ。旧制世田谷中学卒業。中学時代から投稿・詩作をはじめ、1938年より軍隊に勤務する。終戦後は出版社の編集者などを経験し、1949年第1回「群像」懸賞小説に『晩青』にて佳作入選しデビュー。1985年紫綬褒章を受ける。作品は戦場小説、時代小説が多い。
1949年、「晩青」で第1回「群像」懸賞小説佳作受賞。
1952年、「夏の鶯」で第4回千葉亀雄賞受賞。
1961年、「螢の河」で第46回直木賞受賞。
1983年、「静かなノモンハン」で第34回芸術選奨文部大臣賞および第18回吉川英治文学賞受賞。
日本の小説家 いとう けいいち
伊藤邦雄(いとう くにお、1951年 - )は会計学者。日本ベンチャー学会副会長、日本IR学会理事
、ディスクロージャー研究学会副会長、東京証券取引所上場会社ディスクロージャー表彰委員会座長。
曙ブレーキ工業取締役、NEC経営諮問委員会委員、信越化学工業取締役等を歴任。
1975年 一橋大学商学部卒業
1980年 一橋大学大学院博士課程修了
1996年 一橋大学商学博士
1980年 一橋大学商学部専任講師
1984年 一橋大学商学部助教授
1992年 一橋大学商学部教授
2002年 商学部長・商学部研究科長
2004年 一橋大学副学長
日本会計研究学会学会賞、1993年
経営科学文献賞、1995年
日本会計研究学会太田・黒沢賞1997年
伊藤 清永(いとう きよなが、1911年 - 2001年6月5日)は、昭和期の洋画家である。裸婦像の名手として知られる。
兵庫県出石町下谷(現在の豊岡市)生まれ。日展および白日会を中心に活躍した。
1911年 - 兵庫県出石町下谷に生まれる
1928年 - 岡田三郎助門下生となり本郷研究所入所
1935年 - 東京美術学校油絵科卒業
1936年 - 文部省美術展で「磯人」が選奨(特選)受賞
1947年 - 日展で「I夫人像」が特選受賞
1948年 - 日展で「室内」が特選受賞
1953年 - 伊藤絵画研究所創設
1956年 - 日展審査員
1962年 - 渡欧し、フランスとオランダで制作
1977年 - 「曙光」が日本芸術院恩賜賞および日展内閣総理大臣賞受賞
伊藤 清(いとう きよし、1915年9月7日 - )は、日本の数学者。京都大学数理解析研究所名誉教授。日本学士院会員。三重県北勢町(現・いなべ市)出身。東京帝国大学理学部数学科卒業。内閣統計局統計官、名古屋帝国大学助教授、京都大学教授を経てプリンストン高等研究所研究員。オールフス大学、コーネル大学教授を歴任し、1976年より京都大学数理解析研究所所長。1979年より現職。数学者の伊藤清三とは兄弟。弟子には渡辺信三・京都大学名誉教授らがいる。
確率微分方程式を生み出した。伊藤の補題(伊藤の定理)でその名を知られる。さらに、確率積分を計算する上で重要な伊藤の公式(伊藤ルール)は確率解析学において革命的な公式といえよう。
伊藤克信(いとう かつのぶ、本名古橋克信(ふるはし かつのぶ)、 1958年6月27日-)は俳優、タレント。栃木県日光市出身。城西大学卒業。株式会社スカイコーポレーション所属。芸名は旧姓。栃木弁のイントネーションが特徴。実家は日光の老舗旅館だったが、現在は廃業している。
趣味の競輪は専門解説者並の知識を誇っており、競輪中継番組のゲストとして出演するだけでなく、雑誌コラムの連載や競輪場内イベントでの司会進行などを行なうこともある。
かつて原宿でおニャン子クラブの高井麻巳子(現・秋元康夫人)をスカウトしたことでも知られる。
大学時代は落語研究会に所属しており、日本テレビ放送網 日本テレビの全日本大学落語王座決定戦では敢闘賞を受賞。その延長で1982年の映画『の・ようなもの』において主役としてデビュー。この映画は森田芳光の監督デビュー作でもあり、この縁から以降の森田作品にも数度出演している。
伊藤 一彦(いとう かずひこ、1943年9月12日- )は、日本の歌人。宮崎県立看護大学教授。
宮崎県生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。「早稲田短歌会」を経て、「心の花」会員。「現代短歌・南の会」代表。若山牧水研究家でもある。
『海号の歌 伊藤一彦歌集』 (雁書館、1995年)
『伊藤一彦作品集』 (本阿弥書店、1997年)
『日の鬼の棲む 伊藤一彦歌集』 (短歌研究社、1999年)
『空の炎 時代と定型 評論集』 (砂子屋書房、1994年)
『あくがれゆく牧水 青春と故郷の歌』 (鉱脈社、2001年)
『歌の自然人の自然 伊藤一彦評論集』 (雁書館、2003年)
『短歌のこころ 実作と鑑賞』 (鉱脈社、2004年)
伊東 一雄(いとうかずお、1934年4月7日 - 2002年7月4日)は、日本のプロ野球パシフィック・リーグ元広報部長で野球解説者。東京都台東区出身。「パンチョ伊東」の愛称で広く知られた。
1934年4月7日、東京都に生まれる。
子供時代から父親の影響で野球好きとなり、後楽園球場の読売ジャイアンツ 大日本野球倶楽部戦、明治神宮野球場 神宮球場の大学野球に通ってはスコアカード記入などを行っていた。
子供時代に、ニューヨーク・ヤンキース来日パレードを見に出かけ、ジョー・ディマジオに万年筆を差し出してサインをねだったところ、ネジ式の万年筆に慣れていなかったディマジオは(当時アメリカの万年筆のキャップはかぶせるだけのタイプだった)、伊東に「オープン!」と万年筆を突き返し、伊東は万年筆のキャップを外して直筆のサインをもらった。彼とメジャーリーグとの最初の出会いである。
伊藤 良恵(いとう かずえ、1977年12月22日 - )は、日本のソフトボール選手。全日本の不動の3番・一塁手として1990年代後半からの日本ソフトボール界を引っ張った。シドニーオリンピックに出場し、日本の銀メダル獲得に大きく貢献。日本の日立&ルネサス高崎所属。群馬県館林市出身。館林第十小学校・館林第三中学校を経て白鴎大学足利高等学校卒業。
1995年、世界ジュニア選手権出場
1996年、日立製作所入社
1998年、世界選手権出場
1999年、日本リーグ打点王・ベストナイン
2000年、シドニーオリンピック出場
2004年、アテネオリンピック (2004年) アテネオリンピック出場
2005年、引退を表明
伊藤 英成(いとう えいせい、昭和16年(1941年)12月1日 ‐ )は、昭和・平成期における日本の政治家。元衆議院議員(6期)。愛知県渥美郡渥美町(現・田原市)出身。
昭和39年(1964年)
名古屋大学経済学部卒業
トヨタ自動車株式会社入社
昭和58年(1983年)
第37回衆議院議員総選挙(旧愛知4区・民社党公認)当選
昭和61年(1986年)
第38回衆議院議員総選挙(旧愛知4区・民社党公認)2期目当選
平成2年(1990年)
第39回衆議院議員総選挙(旧愛知4区・民社党公認)3期目当選
平成5年(1993年)
第40回衆議院議員総選挙(旧愛知4区・民社党公認)4期目当選 - 178,501票
民社党では副書記長などを歴任する。
伊藤 勲(いとう いさお、 1942年5月14日 - )は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(捕手)。
1961年に宮城県・東北高等学校 東北高校から横浜ベイスターズ 大洋ホエールズに入団。1964年から正捕手として活躍し始める。1969年には、自己最多の23本塁打、60打点を挙げる。1973年には青田昇監督の下で、初のフル出場をマークした。しかし、打率の低さがネックになり、秋山登監督が就任した1975年頃からは、台頭著しい福嶋久晃捕手との併用が続く。別当薫監督が就任した1977年からは、完全にレギュラーを奪われるようになる。
1978年オフに捕手難に苦しむ福岡ソフトバンクホークス 南海ホークス・広瀬叔功監督に請われる形で南海に移籍。南海では伊藤の大洋時代の背番号5を和田徹が付けていたのを伊藤勲に譲り渡しているところからもいかに伊藤を必要としていたかが伺える。1979年には広瀬監督に重用され、10本塁打を放つと共に、長打率は自己最高の4割7分5厘を記録し、南海の最下位脱出に貢献した。
伊藤 歩(いとう あゆみ、1980年4月14日 - )は日本の女優。東京都出身。身長166cm、B82、W62、H86。ユマニテ所属。
1993年、大林宣彦監督の映画『水の旅人-侍KIDS-』でデビュー。
1996年、岩井俊二監督の映画『スワロウテイル』で少女・アゲハを演じ、翌1997年の第20回日本アカデミー賞で新人俳優賞および優秀助演女優賞を受賞し、若干16歳ながら女優としての地位を確立した。その後も『カンゾー先生』(今村昌平監督)や『のど自慢 (映画) のど自慢』(井筒和幸監督)に出演し、好評を得る。
2001年、再び岩井俊二監督作品『リリイ・シュシュのすべて』に出演した。劇中、本当に剃髪して丸坊主にしたシーンは衝撃を与えた。