最近の有名人・芸能人 姓名判断 1232

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最近の有名人・芸能人 姓名判断 1232

吉田秀和

吉田 秀和(よしだ ひでかず,1913年9月23日 - )は、日本を代表する音楽評論家、随筆家。クラシック音楽の豊富な体験・知識をもとに、音楽の持つ魅力や深い洞察をすぐれた感覚的な言葉で表現、日本の音楽評論において先導的役割を果たす。音楽のみならず文学や美術など幅広い分野にわたる評論活動を続け、日本の音楽評論家としては初の個人全集が刊行されて、第2回大佛次郎賞を受けた。大の相撲好きとしても知られる。
朝日新聞夕刊に『音楽展望』を毎月寄稿したり(2006年8月現在寄稿は中断している。2003年11月の夫人の死去による精神的衝撃が大きいためという)、NHKのFM放送での番組解説を行なうなど、90歳を超える高齢となった現在も健在である。

吉田豊彦

吉田 豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日 - )は大分県武蔵町(現・国東市)出身のプロ野球選手で、現在は東北楽天ゴールデンイーグルス所属。背番号49。ポジションは投手。左投左打。愛称は"トヨさん"。あるいは"トヨ"、"トヨヒコ"とも。現在の楽天の本拠地であるフルキャストスタジアム宮城では鉄腕と場内放送される。
小学3年時に野球を始める。大分県立国東高等学校 国東高校、ホンダ熊本硬式野球部 本田技研熊本を経て、1987年のドラフト会議 ドラフト1位で福岡ソフトバンクホークス 南海ホークスに入団(PL学園中学校・高等学校 PL学園から中日ドラゴンズに指名された立浪和義の外れ1位)。速球とチェンジアップを主武器に、1年目から先発ローテーション入りを果たす。チーム名が1989年にダイエーとなり、福岡に移転して以降も本格派左腕投手として大活躍。1994年には自身最多の12勝を挙げ、同期入団で3歳下の捕手吉永幸一郎と共に最優秀バッテリー受賞。

吉田富三

吉田富三(よしだとみぞう、1903年2月10日 - 1973年4月27日)は、病理学者。福島県石川郡 (福島県) 石川郡浅川村(現・浅川町)生まれ。
東北大学、東京大学の教授、癌研究会癌研究所所長、佐々木研究所長等を歴任。1936年に佐々木隆興と共同発表した「肝臓癌生成の実験的研究」で一度目の学士院恩賜賞受賞。更に1953年に鼠の腹水癌「吉田肉腫」の発見で、二度目の学士院恩賜賞受賞。癌研究の他にも医療問題、国語問題にも発言をする。1959年文化勲章受賞。
日本の病理学者 よしたとみそう
1903年生 よしたとみそう
1973年没 よしたとみそう

吉田敏浩

吉田 敏浩(よしだ としひろ、1957年9月11日 - )は、大分県臼杵市出身のジャーナリスト。神奈川県横浜市在住。明治大学文学部在学中には探検部に所属。1985年3月から1988年10月まで、ビルマ(現ミャンマー)北部を長期取材し、自らマラリアに感染し生死をさまよう。その記録をNHK教育テレビジョン NHK番組「回想のジャングル」で発表。記録をまとめた「森の回廊」を出版し、第27回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。現在は各地で講演などを行っている。妻との間に2男の子供がいる。
森の回廊
宇宙樹の森
北ビルマ、いのちの根をたずねて
生命の森の人びと
夫婦が死と向きあうとき
ルポ戦争協力拒否

吉田照美

吉田 照美(よしだ てるみ、1951年1月23日 - )は、フリーアナウンサー、タレント。元文化放送アナウンサー。アミューズ所属。東京都葛飾区出身。血液型O型
東京都立小岩高等学校 都立小岩高校卒業後、一浪し早稲田大学政治経済学部入学。卒業後、1974年文化放送に入社。1985年退社しフリーになった後も、テレビの司会者・ラジオパーソナリティーとして活躍。めがねに横わけの髪型が特徴。「ロバ」とあだ名されることもある。(このあだ名はタレント・歌手の近藤真彦がつけた)コアなファンが多いことでも有名で、深夜枠を聞いていたリスナーが本人と共に年齢を重ね、深夜枠→夜枠→昼枠となっても、生活スタイルの変化と共に長年付いてきていることは特筆すべき点。

吉田鉄郎

吉田 鉄郎(よしだてつろう 1894年5月18日 - 1956年9月8日)は日本の建築家。逓信省で多くのモダニズム建築を設計した。
富山県出身。旧制四高を経て、1919年東京帝国大学建築学科を卒業。逓信省営繕課に入った。逓信省には同時期に山田守らの俊英が在籍していた。初期はドイツ表現主義やラグナル・エストベリ エストベリなど北欧建築の影響を受け、後にモダニズム建築の傑作を生み出した。ブルーノ・タウトが来日した際は桂離宮など各地を案内した。タウトは吉田の設計した東京中央郵便局を、モダニズムの傑作と讃えた。
第二次世界大戦中は故郷に戻り、終戦後、日本大学で教壇に立った。病気のため、辞任。脳腫瘍に侵され寝たきり状態の中、『Der japanische Garten』『スウェーデンの建築家』などを口述で著した。

吉田司

吉田司家(よしだつかさけ)は、大相撲の行司の司家である。志賀清林を祖とする志賀氏の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田家次追風から始まり、代々相撲の司家として代々「追風」の号を名乗る。元来、京都行司を務めていたが、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、以来、熊本県熊本市に住む。
江戸時代に興行としての大相撲の江戸相撲が始まったときに、その司家となった。寛政元年(1789年)11月に第4代横綱谷風梶之助と第5代横綱小野川喜三郎に横綱免許を授与して以来、江戸相撲では吉田司家の免許を持つ者が正式な横綱として認められてきた。当初はこの2人の後には横綱免許は出さないつもりだったらしく、2人の現役中に彗星のごとく登場した雷電爲右エ門のようにずば抜けた強さの大関でも横綱免許は授与されていない者が数名存在する。

吉田民人

吉田民人(よしだ たみと、1931年 - )は社会学者。京都大学文学部社会学専攻卒業。同大学大学院博士課程中退。専門は理論社会学。日本学士院会員。第18期日本学術会議副会長。元日本社会学会会長。東京大学名誉教授。愛知県出身。
機能主義社会学を理論的に追求した。
上野千鶴子や宮台真司などに恩師と仰がれている。
1955年 京都大学文学部哲学科社会学専攻卒業
1957年 京都大学大学院文学研究科修士課程社会学専攻修了
1964年 大阪大学教養学部助教授
1972年 京都大学教養学部助教授
1975年 東京大学文学部助教授
1980年 東京大学文学部教授(1989年 学部長)
1992年 中央大学文学部教授、東京大学名誉教授

吉田玉男

吉田 玉男(よしだ たまお、男性、大正8年(1919年)1月7日 窶錀 平成18年(2006年)9月24日)は、昭和・平成期の人形浄瑠璃文楽の人形遣い。本名・上田末一(うえだ・すえいち)。
大阪府大阪市に生まれる。昭和8年(1933年)吉田玉次郎に入門し、玉男と名乗る。立役(男役)。戦後『曽根崎心中』の徳兵衛役が当たり役となり、生涯で1136回務めた。抑制の効いた、理知的な動きの中に、秘めた情感や品良き色香を表現し、最高峰と謳われた。昭和52年(1977年)重要無形文化財保持者(人間国宝)、平成9年(1997年)朝日賞受賞、平成12年(2000年)文化功労者。
平成18年(2006年)9月24日、肺炎のため逝去。享年87。
浄瑠璃 よしたたまお

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