原 広司(はら ひろし)は、建築家。1936年に神奈川県で生まれる。東京大学名誉教授。世界中の集落調査を基盤に、アトリエファイでの設計活動を展開している。
小説家の大江健三郎と親交が深いことで有名である。
ヤマトインターナショナル 村野藤吾賞
田崎美術館 日本建築学会賞
梅田スカイビル
京都駅
札幌ドーム (新建築0107)
東京大学生産技術研究所(駒場キャンパス)
広島市立基町高等学校
佐倉市立下志津小学校(第1校舎)
『集落の教え100』
『集落への旅』
山本理顕
宇野求
隈研吾
原 日出子(はら ひでこ、1959年11月10日 - )は、女優・歌手。東京都出身。本名は「渡辺 法子(旧姓・馬込)」。芸名の姓は、尊敬する女優の原節子、名は、「夕焼けのマイウェイ」でお世話になった、若い根っこの会会長の加藤日出男から二字頂いたと、本人が語っている。母親からの遺伝で霊感が強い。
学生時代はサッカー部のマネージャー。また当時、日本のサッカー不毛時代における、唯一のサッカー番組「ダイヤモンドサッカー」を視聴していた事から、ヨーロッパサッカーにかなり詳しい。ドイツのクラブチームが好きだったらしい。FIFAワールドカップ サッカーワールドカップのコメントは、ステレオタイプなコメントしかできない他のタレントとは一線を画る。
原 ひさ子(はら ひさこ、1909年8月6日 - 2005年12月4日)は静岡県静岡市出身の女優。本名は石島 久(いしじま ひさ)。不二高等女学校(現:静岡雙葉高等学校)卒業。旧芸名に原緋紗子、原緋沙子がある。
女学校卒業後、伯父夫婦の養子となるために上京。1933年に前進座に入座し、以後11年間活動の拠点とする。『石川啄木』の啄木の妻を当たり役とした。この間の1935年に『街の入墨者』で映画初出演。1938年に同じく前進座所属の俳優・石島房太郎と結婚する。
1944年に夫婦揃って東宝の専属となり,戦後は『青い山脈』など数々の映画に出演。1960年俳協に移った後、様々なドラマに出演。近年、テレビのバラエティー番組やコマーシャル、ナレーションで人気者になる。最近の出演映画に『ワンダフル・ライフ』『三文役者』『老親』などがある。1989年には、芸団協 芸能功労者賞を受賞している。
原 朋直(はら ともなお、1966年 - )は日本のトランペット奏者。神奈川県横須賀市生まれ。日本福祉大学卒業。
1996年2月に初リーダー作『エビデンス・フォー・マイ・ミュージック』を発表。2001年1月に公開された北野武監督作品『BROTHER』では、サウンドトラックのレコーディングに参加し、オープニングとエンディング・テーマにフィーチャーされる。同年2月、東京放送 TBS系列全国放送のテレビ番組『情熱大陸』出演。
2002年6月からニューヨーク滞在。2003年7月に『トニカリー/原朋直 ニューヨーク・カルテット』を発表。
歌心あふれるあたたかい音色と、力強い爆発的な熱いフレーズを聴かせるトランペッターである。
原哲男(はらてつお、本名・柳原哲也、1934年3月21日-)は、昭和・平成期のお笑い芸人、俳優。
熊本県熊本市上近見町に生まれる。九州学院中学校・高等学校 九州学院高等学校卒業後、剣戟の「富士川昇一座」に入って、九州を巡業する。
1953年、大阪に出て、「堀江洋子一座」に入る。その後、ストリップ劇場のコメディアンに転向して、新世界 (大阪) 新世界の劇場などに出演していたが、生活に困窮し、堀江洋子一座で一緒だった島田洋之介の紹介で1963年、吉本興業に入社する。
以後、吉本新喜劇で活躍し、1969年 には座長になる。また、『てなもんや三度笠』では、毎回CM時に藤田まこと、白木みのると掛け合いで登場し、レギュラー出演していた。「カバ」の愛称で親しまれ、「誰がカバやねん」というギャグで笑いを誘った。1990年に新喜劇を脱退。以降、『部長刑事』などのドラマに出演し、幅広い活躍をしている。その一方、新喜劇脱退後も、ABC朝日放送で毎週日曜日に放送されている『日曜笑劇場』には、ゲストとして出演している。また、オリバーソースのコマーシャル TVCMには不可欠な存在である。
原 千晶(はら ちあき、1974年4月27日 - )は、日本の女優・女性タレント・アロマセラピー アロマインストラクター。
ワタナベエンターテインメント所属。
元・ポルノグラフィティのベーシストのTama (ベーシスト) Tamaと生年月日が同じである。
身長165cm。 北海道帯広市出身。生命保険会社に勤務する父親の転勤で、釧路、北九州市、大阪、埼玉、千葉などを転々としている。
1995年度のクラリオンガールでデビューし、以後、女優・タレントとしてTBS系「ワンダフル」「ウンナンのホントコ!」、フジテレビ系「力の限りゴーゴゴー!!」、ラジオDJとしてニッポン放送「サンデーサウンドウォーカー」など数々の番組で活躍し現在に至っている。
原 民喜(はら たみき、男性、1905年11月15日 - 1951年3月13日)は、日本の小説家、詩人。
1905年11月15日に広島県広島市で生まれる。1923年広島高等師範学校付属中学(現・広島大学附属中学校・高等学校 広島大学附属高等学校)四年を終了し、大学予科の受験資格が与えられた為に一年間登校せず、ロシア文学を愛読し、宇野浩二に傾倒。詩作を始め、室生犀星、ヴェルレーヌの詩を耽読。1926年、辻潤、スティルネルに惹かれる。一時左翼運動へ関心を高めるが、次第に離れていった。1933年に慶応義塾大学英文科を卒業。相当の身代金を出し、本牧の女性を自由にしてやり、一ヶ月間同棲をするも、裏切られた為にカルモチン自殺を図るが失敗する。1933年佐々木基一の姉、永井忠恵と結婚。1936年以降旺盛だった創作力が1939年の妻の発病により衰える。1944年妻が糖尿病と肺結核の為死去。1945年8月6日に広島市に原爆が投下され、生家で被爆する。幸い厠に居た為、一命を拾ったものの、以後原爆症とはいえぬが、健康は優れぬときが多くなる。この被爆体験を美しく冷静な文体で『夏の花』に著し、高い評価を受ける。1951年3月13日午後11時30分、中央本線 中央線吉祥寺駅、荻窪駅間の線路に横たわり、自殺を遂げる。「もし妻が死んだら一年間は生きていよう。悲しく美しい一冊の詩集を書き残す為に。」と語った彼が皮肉にも愛妻の一周忌を迎える前に被爆し、それによって被爆の惨劇を残さねばならないという使命感が動き、1951年まで生きながらえた。亡くなる数年前にU子という少女に出会い、遠藤周作らと共にハイキングに行くなどした。当時の事を彼は遠藤周作宛の最後の手紙に「2年前は楽しかったね。」と書いた。その時、氏は「僕は雲雀です」と呟いた。
原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、福岡県大牟田市出身、神奈川県厚木市・相模原市育ちのプロ野球選手(現役期間1981年~1995年)、プロ野球監督(2002年~2003年、2006年~)。現役時代は読売ジャイアンツ所属の内野手(三塁手・一塁手)、外野手(左翼手)。指導者としては読売ジャイアンツのコーチ、監督。右投右打。愛称は「若大将」。あるいは「タツ」「平成の若大将」「ヤング・ミスター」「永遠の若大将」とも呼ばれる。いわゆる「ポストON世代」の筆頭。
高校時代から甲子園のアイドルとして大変な人気があった。
父は福岡県立三池工業高等学校、東海大学付属相模高等学校および東海大学の野球部監督であった原貢。
北朝鮮による日本人拉致問題(きたちょうせんによるにほんじんらちもんだい)は、1977年から1983年にかけて、多数の日本人が朝鮮民主主義人民共和国の工作員などにより極秘裏に拉致、誘拐、監禁されたとされる問題。
日本政府が認定した拉致被害者は16人(男性8人、女性8人)で、このうち13人(男性6人、女性7人)について北朝鮮政府側も拉致を公式に認めた。
平成17年4月27日、政府認定拉致被害者に兵庫県神戸市、元飲食店員拉致事案が追加された。
北朝鮮の国家成立当初から、北朝鮮は武力行使を辞さぬ形で朝鮮半島を統一することを標榜してきた。この点においては韓国も同じ態度のまま(李承晩の北進統一論)であったが北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争に突入した。だが北朝鮮側の事前の予期に反して国連軍が韓国防衛の為尽力し、中国軍の侵略支援を招き国土の荒廃と、南北分立の固定化という惨憺たる結果に終わった。
原 武史(はら たけし、1962年 - )は、東京都渋谷区出身の政治学者。明治学院大学国際学部教授。専攻は、日本政治思想史。
鉄道ファンでもあり、雑誌『本』の1996年1月号から、鉄道を巡るエセー『鉄道ひとつばなし』を連載している。凝われてはいるが、決してマニアの為だけに書かれたエッセイではないと評され、一般の層からも広く人気を得ている。
早稲田大学政治経済学部卒業。
1992年3月 - 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程中退。
日本経済新聞社東京社会部記者(宮内記者会に所属し昭和天皇の病状報道に従事)
国立国会図書館職員
東大社会科学研究所文部教官助手
1997年4月 - 山梨学院大学法学部助教授
郷ひろみ(ごう ひろみ 本名:原武 裕美 はらたけ ひろみ 1955年10月18日-)は福岡県糟屋郡須恵町生まれの歌手・俳優で、新御三家の一人として、1970年代に日本を代表する程の絶大な人気を誇った男性アイドルである。所属事務所はバーニングプロダクション、所属レコード会社はソニー・ミュージックエンタテインメント(旧・CBSソニー)。公表身長は178cm。日本大学法学部中退。
芸能界に於けるナルシストの代表的存在とされる。
1972年1月に日本放送協会 NHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優として芸能界デビュー後、同年8月に『男の子女の子』で歌手デビューを果たす。ジャニーズ事務所に所属し、当時人気絶頂だったフォーリーブスの後継者としての活躍が期待された。芸名の「郷」は、「5人目のフォーリーブス」という意味もかけていると言われる。女の子に間違えられる位に甘美で可愛らしいルックスと、鼻にかかった独特の歌声が、若い女性に絶大なる人気を博し、一躍トップアイドルになる。野口五郎、西城秀樹とともに新御三家と呼ばれ、音楽番組以外に日本テレビ系『カックラキン大放送』などのバラエティ番組でも共演した。またテレビドラマにも多数出演し、まさに男性アイドルの典型でかつ象徴的な存在として、1973年、1977年の「ブロマイド」の年間売上実績でNo.1に輝いた。
原卓也(はら たくや, 男性, 1930年-2004年10月26日)は、ロシア文学者。東京外国語大学名誉教授。
東京外国語大学卒業。1989年から1995年まで東京外国語大学学長を務めた。
『スターリン批判とソビエト文学』(白馬出版, 1973年)
『チェーホフ研究』(中央公論社, 1975年)
『ロシア・ジョーク集』(実業之日本社, 1978年)
『オーレニカは可愛い女か――ロシア文学のヒロインたち』(集英社, 1981年)
『わが心の中のロシア』(論創社, 2003年)
『ロシア――読んで旅する世界の歴史と文化』(新潮社, 1994年)
(小泉猛)『ドストエフスキーとペトラシェフスキー事件』(集英社, 1971年)
(江川卓 (ロシア文学者) 江川卓)『ドストエフスキー・アルバム』(新潮社, 1978年)
原 敬(はら たかし、安政3年2月9日 (旧暦) 2月9日(1856年3月15日) - 1921年11月4日)は日本の政治家。幼名は健次郎。
第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。大勲位。
郵便報知新聞記者時代を経て外務省に入省。後に農商務省 (日本) 農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友会に参加。政界に進出し、1918年(大正7)内閣総理大臣に就任。原は、爵位を固辞し続けた「平民宰相」として今も名高い。1921年(大正10)、東京駅駅頭にて暗殺される。享年65。
原敬は、1856(安政3)年2月9日、盛岡藩盛岡城外「本宮村」(現在の盛岡市本宮)で盛岡藩士 原直治の次男として生まれた。後に「平民宰相」と呼ばれた原は、実は祖父・直記が家老職にあったほどの上級士族の家柄だが、20歳のときに分家して戸主となり、平民籍に編入された。彼は家柄についての誇りが強くいつの場合もみずからを卑しくするような言動をとったことがなかった。また、後年、号を「一山」あるいは「逸山」と称したが、それは原の薩長藩閥への根深い対抗心を窺わせる。なぜなら、戊辰戦争で「朝敵」となった東北諸藩の出身者が、「白河以北一山百文」と薩長出身者から嘲笑、侮蔑されたことへの反発に基づいているからである。(白河とは福島県白河市のことで、古来より「白河関」がみちのくへの入り口であった)
原 節子(はら せつこ、1920年6月17日 - )は神奈川県横浜市出身の女優。本名・会田昌江(あいだ・まさえ)。
テレビや雑誌で「永遠の処女・原節子」としばしば言われる。
横浜市立高等女学校(現・横浜市立桜丘高等学校)中退。1935年、「ためらふ勿れ若人よ」で日活から映画デビュー。
1937年、初の日独合作映画「新しき土」のヒロイン役にアーノルド・ファンク監督が選んで注目される。映画は話題を呼び、世界一周旅行に出かける。これを機に東宝に移籍した。基礎的な演技力がつく前に人気が先行してしまい、大根女優と呼ばれることとなる。
戦争中は国策映画のヒロイン役が多かった。
原 伸次(はら しんじ、1962年11月3日-)は、広島県三次市出身。昭和後期から平成期(1980年代~1990年代前半)のプロ野球選手。血液型A型。
広島・広陵高等学校 (広島県) 広陵高等学校卒業後、1980年ドラフト4位で広島東洋カープに捕手として入団。その後内野手に転向し、登録名も伸樹に変更。主に代打の切り札として活躍、1991年のセントラル・リーグ セ・リーグ優勝にも貢献した。1994年途中に横浜ベイスターズに移籍。1995年限りで現役を引退。1996年から広島のコーチ。2000年より本名の伸次に戻す。中国放送の野球解説者を経て、2005年中日ドラゴンズ打撃コーチに就任。
打率.242、安打119本、本塁打8本 (1981-1994途中まで広島、1994年途中-1995横浜、実働15年)
原 俊介(はら しゅんすけ 1977年8月30日 - )は、神奈川県秦野市出身。平成期のプロ野球選手(捕手)。右投げ右打ち。
東海大学付属相模高等学校 東海大相模高校から1995年のドラフト会議 ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。強肩強打の捕手として2軍では正捕手として活躍していたが、1軍から声が掛からず2軍暮らしが長く続いた。8年目の2003年に初めて1軍に昇格すると、持ち前の打撃センスを遺憾なく発揮した。捕手以外にも内外野どこでも守れる(主に一塁手 一塁)ため、1軍に定着した。2004年以降、1軍の捕手を2人体制にしたため1軍と2軍を往復する生活が続いているが、将来を期待されている選手の1人である。また、最近2軍で三塁手 三塁を守り、4番に座ったため「4番・サード・原」というアナウンスが実現したことがスポーツ報知のジャイアンツ日記で紹介された。2006年には初めて1軍に昇格させた原辰徳が監督に復帰。また、前年まで2番手の捕手として起用された小田幸平が中日ドラゴンズに移籍したため出場機会が増えることが予想されたが、一軍の控えに村田善則や星孝典や實松一成がいるため長い二軍暮らしを曳いている。