最近の有名人・芸能人 姓名判断 1649

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最近の有名人・芸能人 姓名判断 1649

谷博

谷 博(たに ひろし 1953年6月20日 -)は昭和後期から平成期(1970年代後半~)のプロ野球審判員。現在はセントラル・リーグ審判部部長待遇。徳島県出身。
審判員袖番号は19(1988年初採用から。氏は関西審判部の袖番号初採用年度からの生き残りで最古参である。)。
京都産業大学を経て1976年にセントラル・リーグ審判部入局。井野修審判部長とは同期入局である(井野は公募で合格、谷はアマ時代の経験を買われて入局)。入局1年目の4月には早くも一軍試合出場を果たし(1976年4月25日、阪神甲子園球場での阪神タイガース 阪神-横浜ベイスターズ 大洋戦)、2005年シーズン終了時点での通算出場試合数は2393試合、オールスターゲーム (日本プロ野球) オールスター出場4回、日本選手権シリーズ 日本シリーズ出場9回。シリーズ初出場は1992年の日本シリーズだが、谷部長待遇は初出場ながらこの年の第7戦で球審を務めた。長らくセ・リーグ関西審判部のリーダーとして活躍している。巷ではよく知られているランディ・バース バース・掛布雅之・岡田彰布らによる甲子園球場のバックスクリーン3連発。谷部長待遇はこの試合で一塁塁審をしていた。

谷恒生

谷 恒生(たに こうせい、本名つねお 1945年9月18日 - 2003年7月9日)は、日本の作家。
東京都生まれ。鳥羽商船高等専門学校卒。株式会社日本海汽船に入社し、一等航海士を務めた。
職業経験を活かした処女作『喜望峰』が、第77回直木三十五賞 直木賞候補にノミネートされる。同じく海洋小説の『ホーン岬』で第79回直木賞候補にノミネート。1981年『フンボルト海流』で角川小説賞受賞。
海洋小説だけでなく『バンコク楽宮ホテル』などのアクション小説、『魍魎伝説』などの伝奇小説、『慶長水滸伝』などの時代小説、『超大本営・戦艦大和』をはじめとする仮想戦記小説などの複数のジャンルで、多くの大衆娯楽小説を執筆した。

谷甲州

谷甲州(たに こうしゅう、1951年3月30日 - )、は兵庫県伊丹市出身の小説家。大阪工業大学 (新制) 大阪工業大学工学部土木工学科卒業。建設会社勤務を経て青年海外協力隊員としてネパールに、国際協力事業団プロジェクト調整員としてフィリピンに勤務する。ネパール在勤中に作家としてデビュー。著書はハードSFや山岳冒険小説が多い。また、小松左京が中心となった『日本沈没』の第2部執筆プロジェクトに参加し、アジア地域での生活の長さを買われて老齢の小松に代わって第2部の実際の執筆に当たった。石川県小松市在住。
現在、日本推理作家協会会員・日本SF作家クラブ会員・宇宙作家クラブ会員・ハードSF研究所客員

谷啓

谷 啓(たに けい、本名:渡部 泰雄(わたべ やすお)、1930年2月22日 - )は、日本の俳優、コメディアン、トロンボーン奏者。
東京府荏原郡(現・東京都大田区)生まれ。渡辺プロダクション所属。中央大学経済学部中退、中央大学学員会三鷹支部会員。
芸名の由来は、アメリカ合衆国 アメリカの名コメディアン、ダニー・ケイを日本語風にしたもの。名乗り始めた当初は、「ダニー・ケイを敬う」という意味で「谷敬」だったが、後に「谷をひらく」という意味の「谷啓」と改名した。
父の転勤により広島や横浜へ転居し、六浦尋常小学校へ通う。逗子開成 逗子開成高校から関東学院大学に進むが、高校時代の音楽仲間を追って中央大学に転学。経済学部在学中に原信夫に誘われ、シャープス&フラッツに参加。「スイングジャーナル」誌上でトロンボーン奏者として上位にランキングされるようになる。

谷幹一

谷 幹一(たに かんいち、1932年11月21日 - )は、日本の俳優・元コメディアン。
浅草フランス座で渥美清、関敬六と出会い、共に下積み時代を過ごす。1958年にテレビ映画「月光仮面」で二代目五郎八役を好演。翌年には渥美、関と三人でスリーポケッツを結成。解散後は本格的に役者として活動するようになり、TBS月曜夜8時の「ナショナル劇場」枠では常連として出演している。
「白い巨塔 (テレビドラマ 1978年) 白い巨塔」(フジテレビ) - 佐々木庸平、安田太一(2役)
「ザ・スーパーガール」(1979-80年、東京12チャンネル、東映)
「江戸を斬るシリーズ(C.A.L.) - 出目の金太役
「大岡越前」(C.A.L.) - 出目の勘太役

田波耕治

田波耕治(たなみ こうじ 1939年9月10日-)は、日本の官僚。事務次官#財務事務次官(大蔵事務次官・大蔵次官) 大蔵事務次官。
東京府出身。東京都立日比谷高等学校 都立日比谷高校を経て、1964年、東京大学法学部卒業。官房企画官、主計企画官などを経て、1983年、主計官に。1986年、主税局税制一課(税制に関わる事柄をまとめる部署)課長を経て、官房秘書課長、主計局次長、官房審議官、官房総務審議官を経て、1994年、理財局長に就任。1998年、内閣官房内閣内政審議室長に。その後、主計局長であり次官候補であった涌井洋治が更迭されたことにより、1998年1月、内政審議室長から異例の事務次官に就任することになる。1999年7月、退官。

田辺陽子

田辺 陽子(たなべ ようこ、1966年1月28日 - )は、日本の柔道家(五段)。
東京都出身。練馬区立開進第四中学校から東京都立駒場高等学校へ進学。高校時は陸上部に所属し、やり投げで全国高等学校総合体育大会 インターハイで8位に入賞する。3年次の授業で柔道と出会い、講道館に通い始める。陸上推薦で進学した東京女子体育大学を中退後に日本大学に進学してからは本格的に柔道に打ち込み、1986年には全日本選抜柔道体重別選手権大会 全日本体重別選手権で優勝(以後1992年まで7連覇)、翌1987年には女子柔道の日本一を決める皇后盃全日本女子柔道選手権大会 全日本選手権で優勝(以後1992年まで6連覇)を果たし、女子柔道界のトップ選手として君臨する。大学卒業後は女子柔道の名門ミキハウスに就職、72kg級のエースとして近代オリンピック オリンピックや世界柔道選手権大会 世界選手権を始めとする国際大会で活躍し、多くのメダルを獲得する。1992年のバルセロナオリンピック後に一旦引退を表明し筑波大学で大学院生活に専念するも、オリンピック決勝戦で敗れた悔しさから復帰、1996年の全日本体重別選手権では見事優勝し同年のアトランタオリンピックへの出場を獲得する。オリンピックではブランクや膝の怪我にもかかわらず銀メダルを獲得し、これを最後に現役生活にピリオドを打った。

田辺元

田辺 元(たなべ はじめ、1885年2月3日 - 1962年4月29日)は、東京都生まれの哲学者。旧字体で表記した場合は田邊元となる。西田幾多郎と共に京都学派を代表する思想家。1947年日本学士院会員、1950年文化勲章。
父は東京の開成中学校・高等学校の校長を務め、逗子開成中学校・高等学校や鎌倉女学院を設立した田辺新之助。
著書に、『哲学入門』、『哲学通論』、『懺悔道としての哲学』などがある。「種の論理」もしくは、「絶対媒介の哲学」を唱え、晩年には懺悔道を説くも、日本の戦争責任を懺悔道という捉えようのない普遍の中に解消してしまったとの批判もある。
晩年、作家の野上弥生子と密かな恋愛関係にあったことが最近判明。その往復書簡300通余りが岩波書店から刊行されている。田辺の弟子に辻村公一、高山岩男などがいる。

田辺徳雄

田辺 徳雄(たなべ のりお、1966年5月11日 - )は、プロ野球選手。ポジションは内野手。現在は西武2軍打撃コーチ。巨人に移籍した2000年の登録名は田辺 路朗(たなべ のりお)。
森祇晶監督時代の正遊撃手として黄金時代を支えた。1987年にレギュラーを獲得し、1989年に打率2位、1992年には打率3位を記録している。若くしてレギュラーとなったが、怪我のため、および石毛宏典をショート・清原和博をサードに回す打力重視のシリーズ用布陣の犠牲となり日本シリーズ出場は1990年の第3戦まで果たせなかった。松井稼頭央に正遊撃手の座を奪われた1995年以降は2塁、3塁を守ることが多かった。1999年オフ巨人に金銭トレードされたが層の厚さゆえ出番はほとんどなく、2000年限りで引退。

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