白井克彦(しらい かつひこ、1939年9月24日 - )は早稲田大学第15代総長(2002年10月~)・理工学術院教授。学歴は早稲田大学大学院工学研究科博士後期課程修了。学位は博士 (工学) 工学博士(早稲田大学)。専門は、知能情報学。
筑波大学附属駒場中学校・高等学校 教育大附属駒場高校を経て、早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程修了。スーパーCOE「先端科学と健康医療の融合拠点の形成」代表、日本私立大学連盟理事、日本放送協会放送技術審議会委員、文部科学省 大学設置・学校法人審議会委員。第56回(平成16年度)NHK放送文化賞受賞。奥島孝康前総長の改革路線を継続しつつ、早大のアジアにおける一層の勢力拡大を図る。ただその改革の過程で理工学部において科研費流用疑惑も噴出するなど難問は山積みである。
白井 一幸(しらい かずゆき、1961年6月7日- )は、北海道日本ハムファイターズ 日本ハムファイターズ、オリックス・バファローズ オリックス・ブルーウェーブで活躍した元プロ野球選手である。現在は北海道日本ハムのヘッドコーチ兼内野守備コーチ。
身長・体重 1m77cm、74kg
投打 右/両
出身地 香川県大川郡志度町(現・さぬき市)
球歴・入団経緯 志度商業高校(現・香川県立志度高等学校 志度高校)-駒澤大学-日本ハム(1984年~1995年)-オリックス(1996年)-日本ハム(2000年~)
ドラフト会議 ドラフト年度・順位 1983年1位
3(1984年~1995年)
10(1996年)
90(2000年~)
中学・高校・大学のすべてで主将を務めた。1983年のドラフトで日本ハムから1位指名された。即戦力として期待され、1984年の開幕戦ではパシフィック・リーグ パ・リーグ新人選手では唯一となる先発出場、初打席初安打の快挙。1年目から93試合に出場したが、当初は代走や守備固めでの出場が多かった。また、入団時は右打ちだったが、2年目頃から俊足を活かすため左打ちにも取り組んでいた。
白井一行とはパシフィックリーグ(関西)のプロ野球審判員。
ストライクのときに叫ぶのが特徴。
主にオリックス・バファローズ戦で見られる。
当然のことながら球審のときしか叫ぶことはない。
白井 文(しらい あや、1960年5月23日 - )は、日本の政治家。兵庫県尼崎市の市長。阪神水道企業団議会副議長。
1979年 - 大阪外国語大学外国語学部中退、全日本空輸入社。
1993年 - 尼崎市議会議員に当選。
2002年 - 尼崎市長に就任。
都道府県知事・市町村長 しらい あや
1960年生 しらい あや
白井晃(しらい あきら 1957年5月21日 - )は、大阪府出身の日本の俳優、演出家。
大阪府立天王寺高等学校、早稲田大学教育学部卒業。電通勤務を経て、高泉淳子とともに劇団「遊◎機械/全自動シアター」を結成。戯曲の演出および役者として活動する。舞台のほか、映画・テレビドラマ出演も数多い。
年末には、バイオリニスト・中西俊博を迎え、芝居とジャズ音楽を組み合わせたショー「ア・ラ・カルト縲恂メと音楽家のいるレストラン」を定期的に公演している。
1994年「ラ・ヴィータ」(演出・出演)で平成6年度文化庁芸術祭賞を受賞。2001年の舞台演出活動全般と2002年の「ピッチフォーク・ディズニー」「クラブ・オブ・アリス」で第9回・第10回の読売演劇大賞優秀演出家賞を連続受賞。
所司 和晴(しょし かずはる、1961年10月23日 - )は、日本の棋士 (将棋) 将棋棋士。棋士番号172。東京都江東区出身。平野広吉七段門下。
日本におけるシャンチー(中国象棋)の第一人者。国際的には「所司和晴」の中国語読み「スオスー・ホーチン」の名で知られている。1999年の世界選手権「ノンチャイニーズ」の部で優勝し、棋聯大師(フェデレーションマスター・FM)の称号を獲得した。
平手から駒落ちまで様々な定跡を研究しており、定跡書などの著作も多いことから「定跡伝道師」とも呼ばれている。特に「東大将棋」シリーズが有名である。
弟子に渡辺明 (棋士) 渡辺明、松尾歩、宮田敦史らがいる。彼ら3人は、「所司門下スーパートリオ」と呼ばれている。
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年4月11日 - 1969年10月9日)は、日本の警察官僚、政治家で、読売新聞社社主を務めた。A級戦犯に指定されたが不起訴となった。位階 従二位 勲一等。
読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だい-しょうりき)と呼ばれる。
日本におけるそれぞれの導入を推進したことで、「プロ野球の父」、「テレビ放送の父」、「原子力の父」とも呼ばれる。駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。
上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年12月17日 - )は、宗教団体アーレフ(旧「オウム真理教」)代表。
信者としての名前(聖名 ホーリーネーム)は、「マイトレーヤ」。身長176㎝。
福岡県三潴郡出身。早稲田大学高等学院卒業、早稲田大学大学院理工学研究科修士修了。早稲田大学在学中、サークルでディベートの技術を学ぶ。
1995年からマスコミでオウム真理教の報道が過熱するようになると、教団の公報責任者として青山吉伸や村井秀夫らと共に、ほぼ連日朝から晩までテレビやラジオに出演し、オウムに批判的な意見に対して徹底的に反論していた。しかし後に「オウム真理教は事件に関わりがあると薄々気づきながら、当時はマスコミに無関係だとウソをつき続けていた。自分はウソツキだった。」と告白した。
條辺 剛(じょうべ つよし、1981年6月8日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)。
徳島県阿南市出身。平成期(2000年代前半)の読売ジャイアンツに所属。背番号は57番。右投げ右打ち。
徳島県立阿南工業高等学校から1999年のドラフト5位で巨人に入団。。2001年には7勝6セーブを挙げた。2002年には、中継ぎエ-スとして、巨人の日本一に貢献。
2003年以降結果を出せず、2005年に戦力外通告を受け引退。
現在は飲食店で修行中
111試合 9勝 13敗 6セーブ 125.2投球回 防御率4.58
96(2000年)
57(2001年 - 2005年)
長嶋茂雄
徳島県出身の有名人一覧
日本の野球選手 しようへ つよし
読売ジャイアンツの選手 しようへ つよし
笑福亭 松之助(しょうふくてい まつのすけ)は落語の名跡。当代は2代目。
二代目笑福亭 松之助(しょうふくてい まつのすけ、1925年8月6日 - )は、上方(大阪)の落語家、喜劇俳優、作家、タレント。吉本興業所属。兵庫県神戸市出身。本名は明石 徳三(あかし とくぞう)。五代目笑福亭松鶴の弟子であり、笑福亭松鶴_(6代目) 六代目笑福亭松鶴の弟弟子にあたる。
上方落語界の重鎮で上方落語界で最も芸に厳しい噺家であるが、一般的には「明石家さんまの師匠」として知られている。さんま以外の弟子に五所の家小禄(廃業し、現在は京都の祇園で飲食店を経営)と実子の明石家のんきとパーポ明石(廃業しダンサーになる)がいる。
笑福亭 福笑(しょうふくてい ふくしょう、1949年2月27日 - )は、上方落語家。大阪府枚方市出身。
1968年10月、笑福亭松鶴 (6代目) 6代目笑福亭松鶴(故人)に入門。大阪府立大和川高等学校を卒業後、放蕩していたがラジオで聞いた笑福亭仁鶴 仁鶴に憧れ入門を請う。しかし、仁鶴からはまだ弟子を取る身分でないからと6代目松鶴に入門するよう諭され、正式に6代目松鶴に入門。現在では仁鶴・笑福亭鶴光 鶴光に次ぐ高弟。芸能プロダクションに所属しておらず、現在フリー。(上方落語協会には所属している。)
故にメディアで噺を聞く機会は少ないが笑福亭一門の中でも爆笑派で、古典の名手として知られている。
笑福亭 仁鶴(しょうふくてい にかく)は、上方落語の名跡。当代は3代目。
3代目笑福亭 仁鶴(しょうふくてい にかく、本名: 岡本 武士、1937年1月28日 - )は、大阪府大阪市生野区生まれ、交野市出身の落語家である。血液型はO型。上方落語協会員。
生野工業高校時代に、古道具屋で見つけた落語のレコードがきっかけで、演芸好きの仲間と「天狗連」なるグループを結成。その中には前田達、のちの桂枝雀 (二代目) 桂枝雀もいた。朝日放送の素人参加番組に出演して才能が認められ、前田が桂米朝に弟子入りした翌年の1962年に、素人参加番組の審査員だった笑福亭松鶴 (六代目) 6代目笑福亭松鶴に入門。
笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ、本名:駿河 学(するが まなぶ)、1951年12月23日 - )は、大阪府大阪市東住吉区(現在は分区により平野区)出身の落語家。お笑いタレントでもある。松竹芸能所属。血液型はО型、趣味は家庭。上方落語協会会員。身長は公称173cmである。
浪速中学校・高等学校 浪速高等学校 卒業、京都産業大学経営学部2年中退。京都産業大学では京都産業大学落語長屋という落語研究クラブに所属しており、童亭 無学(どうてい むがく)を名乗る。一時期はここでの芸名を本名である「スルガ・マナブ」と名乗ったこともある。
しばしば、鶴瓶を「つるべぇ」「つるべぃ」と誤読されるが、正しくは「つるべ」である。また、関東と関西では「つる」のアクセントが全く逆になるため、「つるべ」の関東読みに違和感を覚える関西人も少なくない。