最近の有名人・芸能人 姓名判断 1857

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最近の有名人・芸能人 姓名判断 1857

河埜敬幸

河埜 敬幸(こうの たかゆき、1955年4月18日 - )は元プロ野球選手。愛媛県八幡浜市出身。
1974年に愛媛県立八幡浜工業高等学校 八幡浜工高からドラフト5位で福岡ソフトバンクホークス 南海ホークスに入団。兄は読売ジャイアンツ 巨人に在籍した河埜和正。トレードマークの口ひげを蓄え、4年目より二塁手のレギュラーを獲得。
堅実な守備と勝負強い打撃で1979年、1987年には打率3割をマーク。同じく兄弟選手として活躍した定岡智秋(定岡正二、定岡徹久の兄)と二遊間を守る。1984年に外野手へコンバート(現役晩年は再び内野手へ)。1989年に現役引退。その後は1990年~1993年にダイエーのコーチ、1994年にスポーツアイ解説者、1997年に2軍育成コーチを歴任し、寮長を経て、2005年よりソフトバンクの二軍外野守備走塁コーチに就任。

河野鷹思

河野鷹思(こうの・たかし、本名・河野孝;1906年3月21日 - 1999年3月23日)は、グラフィックデザイナー、エディトリアルデザイナー。日本における草分けの1人。
東京生まれ。1929年に東京美術学校(現・東京藝術大学)図案科卒業。
松竹の宣伝部に入り、その後、ポスター、舞台美術、衣裳(コスチューム)、パッケージ、ディスプレイ、(屋外の)サインなど、幅広いデザインをこなした。
名取洋之助の日本工房にも参加し、雑誌NIPPONのレイアウト、グラフィックデザイン等も担当した。
戦後は、日宣美(日本宣伝美術会)にも参加。デザイン界の重鎮として活躍を続けた。
企業のロゴマークの制作も行う。例えば、旧第一勧業銀行のハート(赤地に白のハート)のロゴマークは、河野の作品である。

河野一之

河野一之(こうの かずゆき 1907年8月2日~2006年6月20日)は、日本の官僚。事務次官#財務事務次官(大蔵事務次官・大蔵次官) 大蔵事務次官、三井住友銀行顧問。98歳。
東京府生まれ。東京都立戸山高等学校 東京府立四中、第一高等学校を経て、昭和5年3月、東京帝国大学法学部法律学科卒業。昭和4年、高等文官試験行政科・司法科合格。昭和5年、大蔵省入省。昭和15年、主計局法規課長、16年決算課長、18年、陸軍司政官・南方軍軍政総監部付け、昭和21年、主計局次長、23年大臣官房長兼主計局次長、23年9月主計局長、28年8月~30年7月、大蔵事務次官就任。以後、日本住宅公団副総裁、日本長期信用銀行副頭取、日本相互銀行社長、昭和43年12月、太陽神戸銀行頭取、48年から会長。のち、さくら銀行顧問、三井住友銀行顧問。大蔵省同期には、渡辺武 (官僚) 渡辺武がいる。

河野栄子

河野栄子(こうの えいこ、1946年1月1日 - )は経済同友会・教育委員会委員長、株式会社リクルート会長。
早稲田大学教育学部卒業。1969年株式会社日本リクルートセンター(現・株式会社リクルート)に入社後、1984年、当時最年少で取締役に就任。以後、常務取締役(1985年)、専務取締役(1986年)、副社長(1994年)を経て1997年代表取締役社長に就任。2004年6月より現職。社団法人経済同友会幹事を務めるとともに内閣府総合規制改革会議委員・経済産業省産業構造審議会委員など、多くの政府審議会の委員を歴任。その他、「次代を考える会」にて委員長を務め、『Nippon(ニッポン)の夢とムダ』(1998年)を編著。

河野一郎

河野 一郎(こうの いちろう、明治31年(1898年)6月2日 - 昭和40年(1965年)7月8日)は、昭和時代の政治家。自由民主党 (日本) 自由民主党の実力者。位階 従二位勲一等旭日桐花大綬章。国会議員であるが選挙区である神奈川県の県政を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。
参議院議長をつとめた河野謙三は弟。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫にあたる。
明治31年(1898年)6月2日、神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)の豪農・河野家に生まれる。父治平(じへい)は、豊川村長、神奈川県会議長を歴任した。母はタミ。大正12年(1923年)早稲田大学を卒業。朝日新聞社に入社。昭和6年(1931年)犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となる。昭和7年(1932年)2月、衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選する。当選後は、立憲政友会に所属した。鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。昭和17年(1942年)の第21回衆議院議員総選挙 翼賛選挙では、非推薦で選挙戦を戦い当選した。

上月景正

上月景正(こうづき かげまさ、1940年11月12日- )は、経営者。ゲームメーカー等をまとめる持株会社、コナミの創業者および代表取締役社長(CEO)、上月スポーツ・教育財団理事長。
京都府出身。大阪府豊中市で育つ。5歳の時に父・景吉を亡くし、苦労の多い少年時代を過ごす。大阪電気通信大学 大阪電気通信高校を経てソニーに就職、サービスセンターで修理作業に従事するが一念発起して関西大学経済学部(夜間コース)に入学。卒業後、日本コロムビアに就職するが1969年に豊中市上津島町でエンタプライズ社(ジュークボックスのレンタル・修理業)を個人創業。1973年3月19日、仲真良信、松田拡、石原祥吉らと同地でコナミ工業株式会社を設立。「スクランブル (ゲーム) スクランブル」「フロッガー」などの電子ゲームを開発・販売・輸出し、業績を伸ばす。

高塚猛

高塚 猛(こうづか たけし、1949年1月28日- )は、東京都出身の実業家で元プロスポーツ経営者。ソフトバンクに買収される前の福岡ソフトバンクホークス 福岡ダイエーホークスをはじめとするダイエーによるいわゆる「福岡3点事業」の実質的な経営責任者であった。元福岡ダイエーホークス代表取締役社長・オーナー代行。
高塚は、一流大学を卒業したいわゆる「エリート」ではなく、進学校として知られる都立一橋高校から大学に進学せず、リクルート入りし、それからこれまでの地位を築きあげてきたいわゆる「叩き上げ」である。
岩手県内にあるダイエー関連ホテルの経営再建に成功した手腕を買われ、1999年よりホークス球団、福岡ドーム、ホークスタウンの再建に乗り出した。

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