大内 延介(おおうち のぶゆき、1941年10月2日 - )は、日本の棋士 (将棋) 将棋棋士。故・土居市太郎名誉名人門下。棋士番号86。東京都港区 (東京都) 港区出身。中央大学卒業。
かつてはプロ将棋界ではまともな戦法とは見なされていなかった穴熊囲いを戦法に取り入れ、実用化に努めた。この戦法を駆使し、1975年には名人戦で中原誠名人へ挑戦するまでに至った。
名人戦 (将棋) 名人戦では中原と互角に戦い、3勝3敗で迎えた第7局で名人位奪取確実と思われる有利な戦況になったが、勝利目前で考えられないようなミスをして勝ちを逃し(持将棋)、指し直し第8局にも敗れて名人獲得に失敗した。名人位奪取の難しさを示す事例とされている。
大内 啓伍(おおうち けいご、1930年1月23日 - )は、日本の政治家。早稲田大学法学部卒。民社党・佐々木委員長の下で政審会長を歴任し社公両党と連合政権構想を取りまとめたが2度の衆参同日選で白紙撤回することとなる。細川内閣で厚生大臣となるが、民社党の解散に反対した。解散後は塚本三郎とともに自由民主党に参加した。
1976年第34回衆議院議員総選挙 第34回衆議院総選挙で、旧東京2区(中選挙区制)より初当選。激戦区で、党幹部でありながら毎回苦戦を強いられる。
1977年佐々木良作委員長の下で政審会長に就任。
1985年佐々木委員長の退任に伴い塚本三郎委員長の下で書記長に就任。
大植 英次(おおうえ えいじ、1957年10月3日 - )はクラシック音楽の指揮者で、現在、大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽監督をつとめている。
広島市佐伯区で生まれ、4歳よりピアノをはじめる。じっとしていない子供だったため、落ち着かせるために親が習わせたのがはじまりだという。ティンパニ(強く叩きすぎて被膜を破る)、トロンボーン(スライドを飛ばしてしまう)、フルート(強く吹きすぎて気を失いかける)も経験するが、これらはのちに本人が失敗談として語ることとなった。この後ホルンに転向など多くの楽器を経験。桐朋学園で斎藤秀雄に師事、1978年に小澤征爾の招きで渡米(大植は小澤に弟子入りしようと、ホテルで10時間以上待ち続けたという)。タングルウッド音楽祭に参加。幼少の頃からの憧れであったレナード・バーンスタイン バーンスタインと出会い(タングルウッドで大植がピアノを弾いている時に横から話しかけてくる人物を手で追いやったところ、その人物がバーンスタインであった、というのが最初だったという)、各地の演奏会で助手をつとめた。1990年の第1回PMF音楽祭では病で帰国したバーンスタインの代演をしている。なお、バーンスタイン没後、遺族からバーンスタインが最後のコンサートで使った指揮棒とジャケットを形見分けされている。
名前=大岩剛
本名=
愛称=
カタカナ表記=オオイワゴウ
アルファベット表記=OIWA Go
原語名=
原語表記=
国=日本
誕生日=1972年6月23日
出身地=静岡県静岡市清水区
身長=180cm
体重=75kg
血液型=A型
所属チーム名=鹿島アントラーズ
ポジション=ディフェンダー (サッカー) DF
大出 俊(おおいで しゅん、1922年3月10日 - 2001年11月8日)は、日本の政治家、労働運動家。神奈川県横浜市出身。日本社会党衆議院議員、社会党国会対策委員長、村山内閣の郵政大臣を歴任した。
学校法人浅野学園 旧制浅野綜合中学を経て逓信官吏練習所を卒業し、横浜鶴見郵便局に勤務する。その後、全逓で頭角を現し、全逓本部書記長、副委員長、総評副議長を歴任する。全逓時代には郵政大臣となった田中角栄に見込まれている。
1963年(昭和38年)第30回衆議院議員総選挙に社会党から立候補し当選する。以後当選回数11回。大出は旧社会党を代表する論客のひとりで、縦縞のスーツをトレードマークとし、主に衆議院予算委員会で活躍した。ロッキード事件、ダグラス・グラマン事件などの疑獄事件で政府与党を厳しく追求し、しばしば審議をストップさせたため、「国会の止め男」の異名をとった。また、防衛、安全保障問題にも精通していた。1986年(昭和61年)社会党国会対策委員長。平成6年(1994年)村山富市内閣の郵政大臣として入閣した。党内派閥では社会党右派に所属していたが、政治改革をめぐっては村山富市を支持し、政治改革慎重派として、また、国対関係で自民党の国対議運族と密接に連絡を取り、自社さ連立政権の樹立に動いた。1996年(平成8年)第41回衆議院議員総選挙には立候補せず政界を引退した。
大泉 洋(おおいずみ よう、1973年4月3日-)は、日本の俳優、声優、タレント。主として北海道で活躍。「水曜どうでしょう」を始めとする道内のローカル番組に出演。最近では同番組が全国的にブームとなり、全国ネットのドラマ出演を機に広く知られるようになった。アミューズ、CREATIVE OFFICE CUE所属。血液型はB型。
1973年4月3日、北海道江別市大麻_(江別市) 大麻に生まれる。両親と7歳上の兄との4人家族で育った。1984年10月10日、小学校5年生の時に札幌市南区 (札幌市) 南区へ移住し、同市内の真駒内南小学校、真駒内中学校を卒業した。そして1992年3月に北海道札幌藻岩高等学校を卒業し法政大学に合格するが、大泉は入学せず浪人することを決めた。
大泉実成(おおいずみ みつなり、1961年11月16日 - )は東京都出身のノンフィクションライター。
小学校から高校まで茨城県日立市で育つ。
茨城県立日立第一高等学校、中央大学文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科修了。
1981年『説得-エホバの証人と輸血拒否事件』で講談社ノンフィクション賞受賞。
同著は後にビートたけし主演でテレビドラマ化される。
『麻原彰晃を信ずる人々』等のハードなものから、『消えたマンガ家』、『東京サイテー生活-家賃月二万円以下の人々』等ライトなものまで幅広い著作がある。
1999年、両親が東海村JCO臨界事故で被爆したことから、被爆者の会の事務局長を勤める。
大泉 博子(おおいずみ ひろこ、昭和25年(1950年)1月 ‐ )は、昭和・平成期における日本の官僚。
1972年 東京大学教養学部卒業。厚生省入省。
1977年 米国ミシガン大学大学院で行政学修士号取得。
1983年 国連児童基金(ユニセフ)インド事務所計画評価官
1996年 厚生省児童家庭局企画課長
1997年 厚生省社会援護局企画課長
1998年 山口県副知事
2001年 民主党 (1996-) 民主党山口県総支部連合会副代表
2001年 徳山大学客員教授
2003年 第43回衆議院議員総選挙(山口1区)に民主党公認で立候補、高村正彦に敗れる。
2004年 第20回参議院議員通常選挙(山口選挙区)に民主党公認で立候補、岸信夫に敗れる。
大泉 逸郎(おおいずみ いつろう、1942年4月17日 - )は山形県西村山郡河北町_(山形県) 河北町出身の演歌歌手・農民である。1999年、「孫」でメジャーデビュー。
アマチュア民謡歌手として、いくつもの賞を取っていたが、1999年に発表された、大泉本人の孫を歌った「孫」が200万枚を超える大ヒットとなり、全国的に名を知られるようになった。「孫」は作詞が大泉の友人であり、作曲が大泉本人という、メジャー演歌の世界からすれば無名の素人の作品であり、有名作詞家・作曲家が曲を作るのが当たり前だったメジャー演歌の世界に衝撃が走った。また「孫」のヒットで、「孫」を買った人がついでにと他の演歌曲も一緒に買っていく現象が起き、一時期低迷していた演歌市場が盛り上がった。「孫」のヒット後も「孫びいき」「親ごころ」とスマッシュヒットを連発。コンスタントな活躍で演歌界に定着している。
大石 芳野(おおいし よしの、1944年5月28日 - )は写真家。東京都出身。日本大学芸術学部写真学科卒。戦争、内乱後の市民に目を向けたドキュメンタリー作品を手がけ、ベトナム戦争、カンボジアの虐殺、原爆の広島の人々などを取材。
現在、東京工芸大学芸術学部教授。
日本写真家協会年度賞(1982年) - 『無告の民』
土門拳賞(2001年) - 『ベトナム 凛と』
「愛しのニューギニア」
「女の国になったカンボジア」
「夜と霧は今」
日本の写真家 おおいしよしの
1944年生 おおいしよしの
大石 恵(おおいし めぐみ、1973年3月20日-)は、東京都出身のタレント、女優。セントフォース所属。身長167cm。血液型B型。
テレビ朝日「ニュースステーション」のお天気お姉さんとしてデビューし、その後はタレントとして活躍。女優業にも進出し、木曜劇場「ミセス・シンデレラ」、「板橋マダムス」、「パーフェクトラブ」に出演した。その後一旦育児等のため活動を休止していたが、2004年春季放送・フジテレビ火曜9時ドラマ「ワンダフルライフ (TVドラマ) ワンダフルライフ」の出演で活動を再開。その後再び活動休止状態になっていたが、日本テレビ放送網 日本テレビの長寿報道番組だった「NNNきょうの出来事」の後継番組として2006年10月2日からスタートする「NEWS ZERO」にキャスターとして仕事復帰する(大石の出演は毎週金曜日。初出演は2006年10月6日からの予定)。