有森 裕子(ありもり ゆうこ、1966年12月17日 - )は、女子マラソン選手。
岡山県岡山市出身。日本体育大学卒業。学生時代までは無名で、半ば押しかけのような形でリクルートの陸上部に入部し、小出義雄の指導を受けた。1990年の大阪国際女子マラソンがマラソン初レース。2:32:51 の記録で6位に入賞する。この記録は当時の初マラソン日本最高記録であった。1991年の同大会で 2:28:01 の日本最高記録を樹立(2位)。一躍日本のトップランナーとなる。
同年夏に東京で開かれた世界陸上選手権のマラソンでは4位入賞を果たし(山下佐知子が2位で銀メダルを獲得しバルセロナ五輪内定。荒木久美は12位)、翌年のバルセロナオリンピック代表の有力候補となったものの、その時点ではまだ代表内定は出なかった。その後代表の座をめぐり、翌1992年大阪国際女子マラソンでは、有森の日本最高記録を更新して2:26:26のゴールタイムで優勝した小鴨由水に次ぎ、2:27:02の好記録で2位となった松野明美と比較されることになる。当時の国民的な大論議となったが、有森の方がマラソンの経験と実績が買われて代表となった。しかし、有森よりも記録が良い松野を落選させるという、日本陸連の不透明で曖昧な代表選考の結末に抗議の声が殺到、又有森の所属するリクルート等にも、誹謗中傷の電話や手紙が相次いだという。
有森 也実(ありもり なりみ、1967年12月10日 - )は、日本の俳優 女優。
神奈川県横浜市出身。神奈川県立希望ヶ丘高等学校を経て、明治大学付属中野中学校・高等学校 明治大学付属中野高校夜間部卒業。
雑誌の読者モデルで中学生のときに芸能界デビュー。ドラマのデビュー作はTBSテレビ『もう高校はいらない・中卒東大一直線』で、主役を演じた坂上忍とキスシーンも演じる。その後、小中和哉監督の青春SF自主映画『星空のむこうの国』(1986年1月公開)のヒロイン役で映画にも登場。同年8月公開の松竹映画『キネマの天地』(山田洋次監督)でヒロインである女優の卵、田中小春役を演じ、立続けに同年12月公開の『男はつらいよ 幸福の青い鳥』にも登場して注目された。これ以降、テレビドラマ『東京ラブストーリー』で関口さとみ役を演じるなど、ドラマ、映画、舞台などにて活躍する。
有本義明(ありもと よしあき、1931年6月1日-)は昭和中期から平成期(1950年代後半-)の野球解説者、スポーツライター。主にプロ野球を中心に取材している。
1949年の選抜高等学校野球大会で兵庫県立芦屋高等学校 芦屋高校のエースとして準優勝に導いた。慶應義塾大学進学後は二塁手に転向。卒業後はスポーツニッポンに入社し、プロ野球を中心としたスポーツの取材を実施。その後ラジオ日本ジャイアンツナイターの解説者を担当するようになる。その綿密な取材活動の集大成として1992年~1993年に「プロ野球三国志」をスポニチ紙上に執筆。毎日新聞社から出版された。
プロ選手経験のないまま、福岡ソフトバンクホークス 福岡ダイエーホークスの2軍監督を歴任する珍しい試みに挑戦したこともあった。
北朝鮮による日本人拉致問題(きたちょうせんによるにほんじんらちもんだい)は、1977年から1983年にかけて、多数の日本人が朝鮮民主主義人民共和国の工作員などにより極秘裏に拉致、誘拐、監禁されたとされる問題。
日本政府が認定した拉致被害者は16人(男性8人、女性8人)で、このうち13人(男性6人、女性7人)について北朝鮮政府側も拉致を公式に認めた。
平成17年4月27日、政府認定拉致被害者に兵庫県神戸市、元飲食店員拉致事案が追加された。
北朝鮮の国家成立当初から、北朝鮮は武力行使を辞さぬ形で朝鮮半島を統一することを標榜してきた。この点においては韓国も同じ態度のまま(李承晩の北進統一論)であったが北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争に突入した。だが北朝鮮側の事前の予期に反して国連軍が韓国防衛の為尽力し、中国軍の侵略支援を招き国土の荒廃と、南北分立の固定化という惨憺たる結果に終わった。
有馬頼底(ありま・らいてい、1933年-)は、現代の禅僧。臨済宗相国寺派管長。
東京生まれ。8歳の時、大分県日田市の岳林寺で得度。相国寺僧堂などで修行。
1995年から現職。相国寺、金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)の3か寺の住職を兼ねる。京都仏教会理事長として古都税や京都のビル高層化に異議を唱えた。
僧 (日本) ありまらいてい
1933年生 ありまらいてい
有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月17日-昭和32年(1957年)1月10日)は政治家。農政研究者。日本中央競馬会第2代理事長。勲一等伯爵。
旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵・有馬頼万の長男として東京に生まれる。学習院中等科、学習院高等科を経て東京帝国大学農科(現農学部)を卒業後、農商務省 (日本) 農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭をとった。夜間学校の開校、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐などの社会活動に広く活躍し、農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。
1924年に立憲政友会から衆議院に出馬して当選。任期中に有馬家を継いで伯爵の爵位に受爵、華族の互選による貴族院議員に挙げられ、1932年に斎藤実内閣で農林政務次官、1937年に近衛文麿内閣の農林大臣となった。日中戦争が拡大する中で近衛の側近として大政翼賛会の設立に関り、1940年に翼賛会初代事務局長に就任するが、翌年の翼賛会の改組により辞任、これを機に公職を退いた。
有馬 稲子(ありま・いねこ。1932年4月3日 - )は、日本の俳優 女優。本名=中西 盛子(なかにし・みつこ)。
大阪府豊能郡池田町(現池田市)出身。
血液型A型。
4歳から13歳の終戦時まで韓国・釜山に在住。1949年に宝塚歌劇団入団。美女揃いの宝塚歌劇団の中でもその美貌は有名だった。同じタカラヅカ出身の女優・高千穂ひづるは「(有馬さんが)あの頃のタカラヅカで一番美人だった」と語っている。在団期間は短かったが、娘役トップスターとして活躍。1953年にタカラヅカを退団し、東宝の専属女優となる。1954年には岸惠子・久我美子らと共にプロダクション「にんじんくらぶ」を設立。以降、岸・久我との半世紀にわたる厚い友情は有名。1955年には松竹に移籍する。移籍後は松竹の看板女優として大活躍した。