有馬 朗人(ありま あきと、1930年9月13日 - )は、日本の俳人・物理学者・政治家。大阪府出身。東京大学理学部物理学科卒、東京大学大学院中退。
中村草田男・加藤楸邨らの亡き後の日本を代表する俳人として活躍。
:「失いしものをさがしに冬帽子」などの句がある
『天為』主宰
原子核物理学の権威として、原子構造論などでの研究を進める。
東京大学で研究を行い、のちに東京大学総長に登りつめる(在職:1989年 - 1993年)。
日本学士院賞、ベンジャミン・フランクリンメダルなどを受賞。
2005年の世界物理年では日本物理学会が組織した同日本委員会の委員長を務める。
1998年、自由民主党 (日本) 自由民主党から第18回参議院議員通常選挙に出馬。同党の比例代表名簿1位に搭載され、難なく当選。
有藤 道世(ありとう みちよ、1946年12月17日 - )は、プロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。高知県高岡郡宇佐町(現土佐市)出身。旧名「通世(みちよ)」(1976年まで)。現役時代から監督まで千葉ロッテマリーンズ ロッテオリオンズ一筋を貫いた。ニックネームは「土佐のいごっそう」。
高知中学校・高等学校 高知高等学校時代の1964年、第46回全国高等学校野球選手権大会にエース・4番・主将として出場も、初戦第1打席で顔面に死球を受け以後の試合を欠場。チームの全国制覇を病院のベッドでテレビを通して見る羽目に。卒業後は近畿大学に進学し、後に福岡ソフトバンクホークス 南海で活躍する藤原満と三遊間を組んだ。
有田 芳生(ありた よしふ、1952年2月20日 - )は、京都府出身のジャーナリスト、タレントである。血液型A型。京都府立乙訓高等学校、立命館大学経済学部卒業。
日本共産党員の有田光雄を父に持ち、大学時代から日本共産党の熱心な活動家だった。上田耕一郎に兄事。1977年に日本共産党系の新日本出版社に入社。市民運動と前衛党との広範な連帯を目指す立場から、小田実の東京都知事選挙擁立に奔走、多くの人脈を党外にもつようになる。
日本共産党への好意的な立場からの批判を書籍として編集し、『日本共産党への手紙』として送り出すが、このことは、利敵行為であると、宮本顕治 - 不破哲三ラインから批判され、査問を受け、除名には至らぬものの、最終的に除籍処分を受ける。
有田 修三(ありた しゅうぞう, 1951年9月27日 - )は、昭和後期から平成期(1970年代後半~1990年代前半)のプロ野球選手(捕手)。山口県出身。右投げ右打ち。
山口県立宇部商業高等学校 宇部商高時代の1969年に夏の甲子園に出場。新日鉄八幡を経て1972年のドラフト会議で大阪近鉄バファローズ 近鉄バファローズから2位で指名され翌1973年入団。2年目の1974年から1軍に定着。エース鈴木啓示とのコンビが有名で温厚なリードの梨田昌孝に対し、内角主体の強気なリードで鈴木の持ち味を引き出す。どんなに調子が悪くても、鈴木の登板試合には必ず有田が起用された。また、有田と梨田は「ありなしコンビ」と呼ばれ、この「ありなしコンビ」の成功により、複数の捕手を使い分けるといった戦術が近鉄が消滅する2004年まで続くことになる。捕手であったが打撃成績が良く、一時はバッティングに専念するため一塁手に転向するという話も出た。1985年シーズン途中に鈴木が引退し、光山英和や山下和彦といった若手捕手が台頭したため出場機会が激減した。
有田気恵(ありた きえ 1983年4月4日-)は、かつてフジテレビ系列で放映されていたバラエティー番組「あっぱれさんま大先生」を中心に活躍していた元子役。当時はセントラル子供タレント所属。東京都出身。
あっぱれさんま大先生
家族対抗ふるさとチャンピオン
忍たま乱太郎 忍たまがやってくる
お父さんは心配症
ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!(1996年6月16日)
あっぱれさんま大先生
子役 ありたきえ
1983年生 ありたきえ
有田 喜一(ありた きいち、1901年4月30日 - 1986年2月9日)は、兵庫県氷上郡氷上町(現在の丹波市)出身の政治家。衆議院議員選挙に通算9回当選した。
政界入りする前は逓信省大阪逓信局長や国土交通省 運輸省海運総局長を歴任した官僚だった。政治家となってからは芦田均と行動をともにしたが、保守合同により自由民主党 (日本) 自由民主党が結成されると旧芦田派の一部とともに岸信介 岸派に入り、岸派の分裂後は福田派に属した。福田赳夫の右腕といわれ、福田が自民党幹事長を務めていた時その下で党経理局長を務めた。
実直かつ寡黙な性格で知られ、外航船舶建造利子補給法の立案者でありながらその立法をめぐる造船疑獄に全く無関係だったことは彼の人柄を物語っているといえる。
有隅 昭二(ありすみ しょうじ、1968年5月26日 -)は、福岡県粕屋郡出身の元プロ野球選手、現在はプロ野球審判員である。審判員袖番号は37。
小学校5年生から野球をはじめ、九州産業大九州高校を経て九州産業大学を2年で中退し東京ヤクルトスワローズ ヤクルトスワローズの練習生となる。1989年にドラフト外選手として採用され、正式に入団。一軍出場のないまま、1991年には打撃投手に転向し、翌1992年よりセントラル・リーグ セ・リーグ審判部に入局した。
2005年シーズン終了時までの通算出場試合数は693、オールスター1回出場。
2006年4月21日、東京ドームでの読売ジャイアンツ 巨人-阪神タイガース 阪神戦で、試合途中に不整脈が原因で倒れた渡真利克則球審が退場後、控え審判として待機していた有隅が三塁塁審として途中出場し、三塁塁審の井野修審判が球審に廻る形で穴を埋めた。
有栖川有栖(ありすがわ ありす、1959年4月26日 - )は、大阪府大阪市生まれの小説家で、推理作家。
本名は上原正英。高校一年生の時にSRの会入会。上宮高等学校、同志社大学法学部法律学科卒業。学生時代は推理小説研究会に所属。
卒業後、書店勤務の後、1989年、『鮎川哲也と13の謎』の一冊、『月光ゲーム Yの悲劇”88』でデビュー。
前本格ミステリ作家クラブ会長(現執行会議)。2003年に『マレー鉄道の謎』で日本推理作家協会賞を受賞。
1999年より綾辻行人との共作で、テレビ推理番組「安楽椅子探偵シリーズ 安楽椅子探偵」シリーズ(朝日放送)の原作を担当。
彼の作風は、エラリー・クイーンの影響が色濃く、「読者への挑戦」が挿入される作品が多い。
有末精三(ありすえせいぞう、1895年5月22日 - 1992年2月14日)は、旧日本陸軍軍人(陸軍中将)である。弟の有末次は陸軍中将、有末四郎は陸軍軍医大尉。妻は村田信乃陸軍中将の娘。北海道出身。
終戦に際し、GHQとの交渉に携わり占領政策の円滑化を図る。
陸軍士官学校_(日本) 陸軍士官学校29期恩賜の軍刀拝受
陸軍大学校36期恩賜の軍刀拝受
1941年(昭和16年)3月 北支方面軍参謀副長
1941年(昭和16年)10月 少将
1942年(昭和17年)8月 参謀本部第2部長
1945年(昭和20年)3月 中将
1945年(昭和20年)8月 対連合軍陸軍連絡委員長
1987年、『終戦秘史有末機関長の手記』芙蓉書房出版 ISBN 4829500093
有末賢(慶応大学法学部教授、甥)
有島 武郎(ありしま たけお、1878年 (明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日) は、日本の小説家。
学習院卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年渡米。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺 (雑誌) 白樺」に参加。1923年、軽井沢の別荘で波多野秋子と心中した。
作品に、『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。
東京小石川〈現・文京区)に旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の子として生まれる。横浜に移り、4歳から横浜英和学校に通う。このころの体験が後に童話『一房の葡萄』を生むことになる。
10歳で学習院予備科に入学し、19歳で学習院中等全科を卒業。その後、札幌農学校に入学。内村鑑三や森本厚吉の影響などもあり、1901年にキリスト教に入信する。農業学校卒業後に軍隊生活を送り、その後渡米。ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しウォルト・ホイットマン ホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受ける。さらにヨーロッパにも渡り、1907年帰国。このころ信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れる。
有島 一郎(ありしま いちろう、1916年3月1日 - 1987年7月20日)は、日本の俳優。本名、大島 忠雄(おおしま ただお)。
愛知県名古屋市出身。名古屋中学校卒業。
所属事務所:有島一郎一座→小夜福子一座→劇団たんぽぽ→劇団空気座→松竹大船→東宝芸能→フリー
:1916年3月1日 愛知県名古屋市で生まれる。
:1987年7月20日 心不全のため死去。享年71歳。
1957年6月19日 - 「サラリーマン出世太閤記」(東宝)… 長谷川
1957年11月12日 - 「続サラリーマン出世太閤記」(東宝)… 総務部長
1958年1月3日 - 「社長三代記」(東宝)… 奥村(姉妹会社専務)
1958年3月18日 - 「続社長三代記」(東宝)… 奥村(姉妹会社専務)
有島生馬(ありしま いくま 本名・有島壬生馬、1882年11月26日 - 1974年9月15日)は、日本の画家。神奈川県横浜市出身。東京外国語学校(現東京外国語大学)イタリア語科卒業。号は雨東生、十月亭。
1910年、白樺 (雑誌) 白樺同人となる。1911年、文展に入選。1935年、帝国美術院会員となる。1936年、安井曽太郎らとともに一水会設立に参画。1937年、帝国芸術院会員となる。1958年、日展常務理事に就任。1964年、文化功労賞を受賞。1974年、91歳で死去。
有島武郎(元札幌農学校教授、生馬の実兄)
里見とん 里見弴(小説家、生馬の実弟)
藤島武二(画家)
日本の画家 ありしまいくま
有坂 成章(ありさか なりあきら、嘉永5年2月18日(旧暦)(1852年4月5日)-大正4年(1915年)1月12日)は旧大日本帝国陸軍 日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。村田経芳と並び、日本が誇る銃砲開発者である。
周防国岩国藩出身。明治維新後、陸軍に入る。明治24年(1891年)、村田銃の開発で著名な村田経芳少将の退役に伴って陸軍砲兵工廠所属となる。
明治30年(1897年)、三十年式歩兵銃の開発に成功、翌年2月にそれまで使われていた村田連発銃に変わる初の陸軍制式小銃として採用された。
明治31年(1898年)には三十一年式速射砲の開発に成功した。この砲は「有坂砲」と呼ばれ、銃砲開発者としての有坂の名を不動のものとした。日本陸軍はこの有坂砲を用いた三十一年式野砲と三十一年式山砲を制式砲としている。惜しむらくは、まだ駐退機を装備しておらず、発射の反動で砲車が後退してしまう欠点があった。
有坂 来瞳(ありさか くるめ、1979年9月21日 - )は、日本のタレント、俳優 女優。本名、黒葛原 留美(つづらばら るみ)。
福岡県久留米市出身。スウィートパワー所属。血液型はO型。芸名は出身地である久留米市にちなむもの。
出演番組の一つであったラジオ番組「カウントダウンステーション」(エフエム東京 TOKYO FM)で、ゲストとして出演したGLAYのメンバーたちを前に「ラルクさん(L”Arc~en~Ciel)」と誤って呼んでしまい、本人たちに「ラルクじゃないよ!」と抗議され、番組からも降板させられてしまった。
ガラスの仮面(テレビ朝日)
新・腕におぼえあり(日本放送協会 NHK)
週末婚(東京放送 TBS)