和田信賢(わだしんけん、1912年6月19日 - 1952年8月14日)は、戦前から戦後にかけての日本放送協会 NHKのアナウンサー。
早稲田大学中退。1934年、NHKに第1期アナウンサーとして入局。
1939年1月、双葉山・安芸ノ海の中継放送を担当し、全国的に知られるようになった。それ以後も相撲や野球の実況でカリスマ的な人気を誇った名アナウンサーである。特に1939年の実況では「双葉敗る!」と連呼したことで知られる。
1945年8月15日の「玉音放送 終戦放送」では、進行役を担当。全国に向けて終戦の詔勅を朗読した。その後、NHK山形放送局放送課長として転勤したが、まもなく退職。東京に戻り、NHKの嘱託アナウンサーとして仕事を続けた。
和田寿郎(わだ じゅろう、男性、1922年(大正11年)3月11日 - )は日本の外科学#外科学の分野 心臓血管外科医。
日本初の心臓移植手術を1968年8月8日に行った。北海道札幌市生まれ。北海道大学 北大教授で、国際法をアメリカ合衆国 アメリカで学んだ和田禎純の長男。弟の和田淳もブリティッシュ・コロンビア大学の医学者で、ワダテスト(wada test,大脳の言語優位半球の判定法、てんかん等の脳外科手術で用いられる)の開発者として著名。医学の道を志し、旧制北海道札幌南高等学校 札幌一中から北海道大学予科を経て、同大学医学部を1944年に卒業した。当時の医学者としては珍しく積極的にマスコミを利用し、自分の研究成果や手術を発表していた。ベン・ケーシー式の白衣をいち早く取り入れ、当時札幌医科大学では外科学#外科学の分野 胸部外科以外の医師達はまだ長袖の白衣を着用しており、院内関係者は一目見ただけで胸部外科の医師だと分かったという。アメリカ留学の間に培った合理主義を重んじ、自らの髪の毛は、短髪に刈り上げ、それは手術中に髪が落ちないようにとなるだけ汗をかかないようにとの配慮だったという。涙もろく、患者の中にはファンも少なくなかったと言われているが、一方で功名心が強かったと評されている。
和田 茂穂(わだ しげほ、1935年 - )は、東京都出身の流通学者。千葉経済大学短期大学部ビジネスライフ学科教授。
経営学、マーケティング、流通システム論などの授業を担当。
早稲田大学政治経済学部卒業、日本経済新聞記者となり、論説委員などを務め、流通関係の分野を専門とする。その後、千葉経済大学短期大学部教授となる。
近年、商店街の再活性化などで同氏の著書が参考にされる事が多い。
現代の流通産業・日経文庫
小売業の街づくり戦略・中央経済社
日本の経済学者 わた しけほ
1935年生 わた しけほ
Shigeho Wada
zh:和田茂穗
和田 行(わだ こう)はフジテレビジョンの編成制作局編成部主任、テレビドラマプロデューサー・映画プロデューサー。金曜エンタテイメントの企画担当や、共同テレビジョンとの作品にも携わる。
テレビドラマのプロデューサーとしての代表作はHERO (テレビドラマ) HEROで、企画担当としての代表作は2003年の白い巨塔 (テレビドラマ 2003年) 白い巨塔、2005年では救命病棟24時第3シリーズ、エンジン_(テレビドラマ) エンジン。2004年12月29日放送の特別番組「中村勘九郎 特別な二人」企画担当。
木曜劇場都合のいい女(1993年)
木曜劇場グッドモーニング(1994年)
家族の食卓”95 愛、絆そして一番大切なもの(1994年)
和田 圭(わだ けい、1952年9月13日 - )は、フジテレビジョン フジテレビ報道局解説委員。東京都新宿区出身。血液型はO型。
学習院大学法学部法学科卒業後、1975年フジテレビに入社。
報道記者として政治分野を担当し、ニュース番組のプロデューサー・ニュースキャスターを務める。
元妻は元フジテレビアナウンサーの有賀さつきである(2006年5月離婚)。安藤優子らからは「和田さま」と呼ばれている。
『タモリ・安藤優子のFNNスーパーニュース スーパーニュースSP』でタモリに「胸板が薄いという噂を聞いたのですが」と問われた際、「会社にこき使われたせいで今は細いですが、学生時代は体育会系だったんですよ」と自身の運動神経の良さを強調した。
和田 一浩(わだ かずひろ、1972年6月19日 - )は、西武ライオンズ所属の野球選手 プロ野球選手。
西武入団時は捕手だったが、持ち前の打力を生かすため2002年シーズンより外野にコンバートされた。背番号は5(入団当初は22、2000年のシーズン前、当時5をつけていた同僚の捕手中嶋聡が捕手らしい番号を欲しており交換を申し出、1ケタの番号を“譲ってもらった”。和田にも異存はなかったらしい)。
バットを上段に構え、極端なオープンスタンスから左足を大きく上げ、全身を回転させるようにしてバットを背中の後ろまで一気に振り抜く独特のフォームによるフルスイングが持ち味。一見非常に粗いフォームでありながら、バットコントロールが巧く三振は少ない。しかし、それ故に併殺打となることも多い。右方向への打球も非常によくノビる。2005年は全27本の本塁打のうち8本を右方向へ放ち、右打者の右方向への長打率でリーグNo,1になった。
和田 修二(わだ しゅうじ、1932年 - )は教育学者、 京都大学名誉教授、名古屋女子大学教授。オランダのユトレヒト大学に留学、マルティヌス・ヤン・ランゲフェルドに師事。専門は教育学、教育哲学、教育人間学、臨床教育学。
千葉県生まれ、実存哲学、とりわけハイデッガー研究から出発。京都大学大学院教育学研究科在学中に「ニヒリズムと思考の転回」「実存における心理と自由」などの論文を発表(いずれも『京都大学教育学部紀要』に所収)。奈良女子大学講師時代の1963年、オランダ政府給費留学生としてユトレヒト大学のランゲフェルドに師事し、帰国後、精力的にランゲフェルドの著作や論文を翻訳、紹介している。