李 闘士男(り としお、1964年5月13日 - )はテレビディレクター・ドラマ演出家・映画監督である。大阪府大阪市阿倍野区出身。リー・ライダーすの代表取締役社長。
闘士男は本名。ボクシング好きの父親がリングネームになるように命名した。大学時代は実際にボクシングジムにも通ったという。
1971年4月、大阪市立長橋小学校に入学。
1977年10月、大阪市立鶴見橋中学校に入学。
1980年4月、大阪桃山学院高校に入学。高1の頃、3回で留年を経験し、5年以降卒業された。
1984年4月、日本大学芸術学部文芸学科在学中にドキュメンタリー番組の制作プロダクション会社でアルバイトして、アシスタンディレクターを半年務めて、大学4年の秋にディレクターデビュー。
李 麗仙(り れいせん、イ・ヨソン、・エ・ャ・ꀀ、1942年3月25日 - )は、日本の俳優 女優。
東京都生まれ。東京都立広尾高等学校卒業。俳優で小説家の大鶴義丹は実息。
両親ともに在日韓国人で、生まれた時の名前は李初子(・エ・溢梵)である。舞台芸術学院在学中に、唐十郎と 知り合う。1963年に舞台芸術学院を中退して、唐が設立した劇団状況劇場に参加。李礼仙(・エ・溢│)の芸名で 同劇団の看板女優として活躍する。
1967年に唐と結婚。1975年に日本国籍を取得し、本名が李初子から大靏初子(「靏」の字は、雨の下に鶴)となる。1987年2月に、芸名を現在の李麗仙に改名。翌1988年4月、唐十郎と離婚。
蘭寿 とむ(らんじゅ とむ)は宝塚歌劇団宙組 (宝塚歌劇) 宙組の男役スター。身長170cm。兵庫県西宮市出身。血液型O型。愛称は「とむ」「まゆ」。
武庫川学院高校時代はダンス部のキャプテンだった。
1994年、宝塚音楽学校に入学。
1996年3月、82期生として宝塚歌劇団に入団。同年『CAN-CAN』で初舞台後、花組に配属。
2001年『ミケランジェロ』で新人公演初主演。
2002年『月の燈影』で、バウホール公演初主演。
2004年5月、ビューティトップヤマノビューティウェルネスプラナーのイメージリーダーに起用。
2005年、ダンス公演『服部有吉2005 Presents R・Hatter(アール・ハッター)』に外部出演。
2006年4月、宙組へ組替え。
蘭香 レア(らんか レア、1977年11月30日 - )は、日本の舞台俳優 女優。
和歌山県出身。アミューズ所属。元宝塚歌劇団湯雪組。血液型A型。
幼いころからバレエを習っていた。1995年宝塚歌劇団に入団、2001年まで6年間に渡ってダンスの得意な男役として活躍した。
退団後は芸名を三咲 レア(みさき レア)と改めて、舞台女優として『地球ゴージャス クラウディア』『寺山修司作・青ひげ公の城』などに出演。また『ほんとにあった怖い話』(テレビドラマ)、『ベルサイユのばら』のドラマCD等、舞台以外での活躍もある。
2006年、アミューズへの移籍と同時に芸名を宝塚時代の「蘭香レア」に戻す。
輝優優(らん ゆうゆう、1975年8月17日 - )本名:宮口 知子(みやぐち ともこ)は、日本の女子プロレスラー 。身長160cm、体重62kg、血液型O型。大阪府泉南市出身。
1994年12月4日、東京・後楽園ホールにおいて対天野理恵子(カルロス天野)戦でJWP女子プロレスから本名でデビュー。
1999年、本名から現在のリングネームに変更。
2002年11月2日付けで、GAEA JAPANに移籍。
2005年8月7日、M”s「Mab~夢を支配Ⅴ~」ワンデータッグトーナメントを植松寿絵とのタッグで優勝。
2006年8月27日、東京・新宿FACE(M”sワンデータッグトーナメント)を植松寿絵とのタッグで優勝。
エルボー各種(スマッシュ、ランニング、ローリング、カウンター)
乱一世(らんいっせい、1950年4月14日 - )は、ナレーター。レポーター。東京都文京区出身。
ニッポン放送の『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』で1976年にデビュー。『トゥナイト2』(テレビ朝日)のレポーターなどで知られる。
巨泉のこんなモノいらない!?(日本テレビ放送網 日本テレビ系)
クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!(日本テレビ系)
しあわせ家族計画(東京放送 TBS系)
クイズこれはウマい!(TBS系)
噂の!東京マガジン(TBS系)
トゥナイト2(テレビ朝日系)
スーパーモーニング(テレビ朝日系)
愛の貧乏脱出大作戦(テレビ東京系)
TVチャンピオン(テレビ東京系)
とことん気になる11時(文化放送)
名前=ラモス瑠偉
本名=
愛称=カリオカ
カタカナ表記=ラモス ルイ
アルファベット表記=RAMOS Ruy
原語名=帰化前
原語表記=Ruy Goncalves Ramos Sobrinho
誕生日=1957年2月9日
出身地=ブラジル・リオデジャネイロ
身長=181cm
体重=71kg
血液型=O型
所属チーム名=
ポジション=ミッドフィールダー MF
背番号=
ラッシャー板前(らっしゃーいたまえ、本名:鈴木浩、1963年6月15日 - )は、千葉県松戸市出身のお笑いタレントである。松戸市立河原塚小学校、松戸市立常盤平中学校、松戸市立松戸高等学校卒
かつてはコントなどもやっていたが、今は、どちらかというと、レポーターの仕事が主になってきている。
たけし軍団のメンバーでもある。芸名はプロレスラー・ラッシャー木村に似ていた事(たけしが「こんばんは、ラッシャー木村です」のネタを気に入っていたこともある)と前職が板前(実際は板前ではなく、板前の見習いで皿洗いをしていたらしい)だった事に由来する。スーパージョッキーの熱湯コマーシャルでは板前がスタートボタン、ラッシャー木村がストップボタンを押すという「夢の兄弟対決」が実現した。また軍団入り当初は「力道川」という芸名を名乗っていたことがある。
ラッキィ 池田(ラッキィ いけだ、男性、1959年10月25日 - )は、東京都墨田区出身の振り付け師、タレント。獨協大学中退。本名は池田 新一。
「ラッキー」ではなく「ラッキィ」が正しい。顔は不細工だが、なぜかSMAPの草なぎ剛に似ている。
関根勤やルー大柴の親友で、関根が主宰のカンコンキンシアターのメンバーである。そのため、よく関根やルーらと同じ浅井企画所属のタレントだと誤解されがちだが、1995年から2005年4月まではオスカープロモーションに所属し、その後はフリーで活動しており、浅井企画所属歴はない。
かつては「振り付け仮面」というキャラクターを演じたこともある。
ラサール 石井(ラサール いしい、1955年10月19日 - )は、日本のタレント・お笑い芸人・俳優・声優・演出家。本名、石井 朗夫(いしい あきお)。旧芸名、石井 章雄=読みは本名と同じ。血液型はO型。愛称は「チクリ」。
大阪府大阪市住吉区出身。石井光三オフィス所属。
1970年代から80年代にかけ、関西において伝説的な存在であった学習塾『入江塾』で受験勉強をし、名門と言われるラ・サール中学校・高等学校 ラ・サール高校(鹿児島県鹿児島市に所在)に合格。実は灘中学校・高等学校 灘高校(兵庫県神戸市に所在)も受験したが不合格だったと某番組で明かしていた。
母校ラ・サールの名より、芸名をラサール石井と1983年に改めた。(中点入りの「ラ・サール(La Salle)」としないことを条件にラ・サール高校より許可されている。因みに「ラサール」のローマ字表記の綴りは「Lasa-R」としている。)受験関係の著作も多いが、その内容は入江塾時代のものが多い。
楽 吉左衛門(らく きちざえもん)は、楽焼の15代目家元の名である。
楽焼の創設者である長次郎(ちょうじろう)の没後、2代・常慶(じょうけい)、3代・道入(どうにゅう)と続き、今日に至っている。今の家元は、長次郎から数えて、15代目の楽吉左衛門である。
楽という名は、常慶が秀吉より楽の字を賜ったことによる。
初代 長次郎
二代 常慶
三代 道入
四代 一入
五代 宗入
六代 左入
七代 長入
八代 得入
九代 了入
十代 旦入
十一代 慶入
十二代 弘入
雷光 肇(らいこう はじめ、1978年5月5日-)は大阪市西成区出身の大相撲力士。八角部屋所属。本名は山口 肇(やまぐち はじめ)。身長188cm、体重155kg。現在の最高位は西十両11枚目(2005年9月場所)。
中学では柔道部に所属。3年になって始めて相撲を取り始め、大阪市の大会に出場した。相撲経験の長い、弟・勲(現・北勝城勲 北勝城)と共に、八角部屋の関係者から勧誘された。近所でちゃんこ店を経営していた元幕下の雷光山の熱心な勧めもあり、入門を決意。中学卒業と同時に八角部屋に入門し、1994年3月場所に初土俵を踏んだ。相撲経験はほとんど無かったが着実に番付を上げて行き、初土俵から5年で幕下に昇進した。三段目との往復をしていた時期も長かったが、2003年頃から幕下上位でも勝ち越せるようになった。2004年1月場所には東幕下筆頭まで番付を上げたが、2勝5敗と負け越し一度は跳ね返されたものの、東幕下2枚目で迎えた2005年7月場所では5勝2敗と勝ち越し、翌9月場所に十両に昇進した。左四つになると力を発揮し期待されたが、本来の相撲が全く取れず3勝12敗と負け越し、1場所で幕下に陥落した。
雷句 誠(らいく まこと、1974年8月23日 - )は、岐阜県出身の漫画家。血液型はB。
1991年に漫画家デビュー。その後、藤田和日郎のもとでアシスタントを経験。
2001年1月より週刊少年サンデー誌上で、代表作の『金色のガッシュ!!』の連載を開始。同作品は2003年より『金色のガッシュベル!!』としてテレビアニメ化。さらに同年、第48回小学館漫画賞少年部門を受賞。
「おはスタ」に出演したことがある。
アシスタント時代からダントツに異彩を放っており、ヒーローババーンは「うしおととら」巻末お遊びコーナーの頃誕生した。
画は師匠の藤田のキャラからかなりの影響を受けており、ウォンレイ等はそのまま「うしおととら」のキャラであるが、線の描き込みの凄さなどは、アシスタントが若い分幾分か劣る。「キン肉マン」の影響も強く出ており(多数のキャラの登場。キャラの空気等(ベンキマン等そのままガッシュキャラである)人気の直撃世代だったと思われる。
ライオネス飛鳥(らいおねす あすか、1963年7月28日-)は元女子プロレスラー。本名・北村智子。東京都生まれ。
埼玉県立蓮田高等学校を中退後、1980年に全日本女子プロレスに入団、同年5月10日にデビュー。後に長与千種とのクラッシュギャルズで一大ブームを巻き起こす。1981年には全日本ジュニア・チャンピオン。1982年には全日本チャンピオン。1984年8月にはクラッシュギャルズがWWWA世界タッグ王座を獲得、さらに同年8月、「炎の聖書」でレコードデビュー。1989年春に現役を引退。
引退後は女子プロレスの解説をしながら芸能活動を始め、1990年には「のぞみ・ウィッチィズ」で映画デビュー。また日本自動車連盟(JAF)の国際A級ライセンスを取得し、カーレースにも出場。1994年10月に行われた全女の東京ドーム大会にて女子プロレスラーとして現役復帰、ジャガー横田・バイソン木村と共に『雷神隊(ライジーン・アレイ)』を結成するが、ブランクと甲状腺疾患による体調不良から思うように試合が出来ず、苦しい日々を過ごす。
萬屋錦之介(よろずや・きんのすけ, 1932年11月20日 - 1997年3月10日)は、日本の俳優。戦後の日本映画界の全盛期を支えた銀幕の大スターである。本名は小川錦一(おがわ・きんいち)。
歌舞伎俳優出身。若い頃の芸名は中村錦之助(なかむら・きんのすけ)といい、新しい芸名の「萬屋」は1971年に制定した小川家の屋号から採った。父は三世中村時蔵であり、俳優の中村賀津雄(現・中村嘉葎雄)は弟、同じく俳優の中村獅童 (2代目)は甥にあたる。
初名は中村錦之助。吉右衛門劇団立女形を父に持つ歌舞伎役者の御曹司なので、むろん歌舞伎に出演していた。美空ひばり親子から映画にスカウトされた。父からは「中途半端はいけない。映画に行くなら歌舞伎を辞めて行きなさい」と諭され、歌舞伎を断念。梨園に見切りをつけた(これは正解で、そもそも四男であったため、将来にわたり主役になれないことが初めからほぼ確定していた。さらに、その後、父自身も立女形の座を一族外のものに取られてしまい、居場所を失い劇団を辞めている。三世時蔵の子息で歌舞伎に残った者(錦之介の兄たち)はその後いずれも大変な苦労をした)。
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は大正~昭和初期の画家。
岩手県和賀郡東和町 (岩手県) 東和町(現在の花巻市)出身。明治40年(1907年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。明治45年(1912年)、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあった、ポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著である。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として、萬の功績は大きい。
寄本 勝美(よりもと かつみ、1940年-)は行政学者。
1940年和歌山県田辺市に生まれる。1964年早稲田大学政治経済学部卒業。1970年早稲田大学大学院政治学研究科博士課程終了。博士(法学)京大。現在、早稲田大学政治経済学部教授。専攻は、行政学、地方自治論、環境政策。学生時代、政治経済学部には自治行政学科があり、その出身であることに誇りと責任感を持ち、学生、地方公務員、政治家、一般市民への学問の還元を模索してきた。ゴミ問題についてのフィールド・ワークはその最もよい成果である。後藤一郎に師事したことから、藤原保信(第二政治経済学部で後藤に師事)に兄事した。プライベートでは非常な愛妻家という一側面も持つ。
頼近 美津子(よりちか みつこ、本名・鹿内キャサリン美津子、1955年8月1日 - )は、昭和後期から平成期(1980年代後半-)のコンサート・プランナー、司会者、女優。元日本放送協会 NHK、フジテレビジョン フジテレビアナウンサー。広島県安芸郡 (広島県) 安芸郡府中町出身。広島大学附属中学校・高等学校 広島大附属高校、東京外国語大学卒。
父親は米国籍を持つ日系二世で広島市の日米合同研究施設、原爆傷害調査委員会 ABCC(現(財)放射線影響研究所)に長らく勤務(現在は退官)。幼少時からピアノとチェロを学ぶ。1978年東京外大卒業後、NHK入局。すぐに永六輔の「テレビファソラシド」に抜擢されピアノの弾ける新人アナの異名を取り、その美貌で一躍人気アナウンサーとして脚光を浴びた。田丸美寿々らとともに美人女子アナのはしりであった。その後「ニュースワイド」などでキャスターを努めていたが1981年4月、NHKからフジテレビへ当時25歳での移籍(移籍金は3000万円と言われた)は大きな話題を呼んだ。