槙原 稔(まきはら みのる、1930年1月12日 - )は、三菱商事の社長・会長を歴任した実業家。イギリス出身(人名事典等では「東京都出身」となっているものもあるが、こちらが正しい)。父・覚は青年期に岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)から奨学金を受け、その後三菱商事に入社し水産部長を務めた。
1930年1月12日:英国の首都・ロンドンに生まれ、幼少期を同国で過ごした。
1937年:日本へ帰国。
1942年:父・覚が死去。母とともに岩崎彦弥太(弥太郎の嫡孫、久弥の長男、三菱本社副社長)の別邸に身を寄せた。
1949年:旧制成蹊高校を中退してアメリカ合衆国 米国に渡り、ニューハンプシャー州のセントポール高校に転入。
槙原 寛己(まきはら ひろみ、1963年8月11日 - )は愛知県半田市出身のプロ野球選手(投手)。現在は野球解説者。斎藤雅樹、桑田真澄とともに1990年代の読売ジャイアンツを支えた3本柱。引退後は東京放送 TBSの解説者。愛称は「マッキー」「マキさん」など。
1982年、愛知県立大府高等学校 大府高校からドラフト会議 ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。入団1年目は登板機会が無かったが、翌1983年、一軍初登板にして初完封を達成するなどの大活躍を見せて一軍で12勝を挙げ最優秀新人 (野球) 新人王を獲得。以降も150km/hを超えるストレートとフォークボールを武器に本格派として活躍した。
槇原 敬之(まきはら のりゆき、本名:槇原 範之。1969年5月18日 - )は大阪府高槻市生まれの歌手、作詞家、作曲家、シンガーソングライター。
愛称は「マッキー」。三浪の後、当時憧れの存在だった桑田佳祐の出身校、青山学院大学文学部英文学科(2部)に入学するが、歌手活動が忙しくなり、中退した。東芝EMI所属。
オリジナル曲に関してはほぼ全曲の作詞、作曲、編曲を槇原本人がこなす。楽曲作成についてはシンガーソングライターに多い「詞先」と呼ばれる詞を先に作る方法を多用する。作詞の題材は、主に日常の生活に起こる出来事や恋愛模様であり、現実感のある言葉を用いた表現が選ばれることが多い。反対に、「愛」「希望」といったような観念的表現が直接的に用いられることは少ない。また、特に初期の作品では、恋愛における男性の幼さ、弱さをアイロニックに表現するような歌詞に、槇原独自の特色を見出すことができる。
牧野 塁(まきの るい、1974年7月17日 - )は、日本のプロ野球選手。ポジションは投手。神奈川県横浜市出身。
山梨学院大学附属高等学校から1992年にドラフト3位でオリックス・バファローズ オリックス・ブルーウェーブに入団し、2003年オフに2対2のトレードで阪神タイガースに移籍した。
150km/h以上の速球が魅力だったが、制球の悪さと故障の多さが難点で、オリックス時代は期待されながらも、なかなか芽が出なかった。しかし、オリックス時代の後半には、チームの投手事情もあり活躍しはじめた。
阪神に移籍してからも、中継ぎとして活躍していたが、2006年途中に坂克彦とのトレードで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍した。
牧野 由依(まきの ゆい、1986年1月19日 - )は、声優・女優・歌手。サンミュージック出版/ビクターエンタテインメント所属。東京都出身。身長154cm。血液型O型。
都内音楽大学・ピアノ科在学(附属音高を持つ音大)。
幼少時、岩井俊二に見出され『Love Letter』『リリイ・シュシュのすべて』『花とアリス』のサウンドトラックでピアノ演奏し、当時から演奏家として頭角を現していた。
『ツバサ・クロニクル』のサクラ役で声優デビュー。
2005年春には、菅野よう子の目にとまり、『創聖のアクエリオン』EDテーマ「オムナ マグニ」を歌唱。
2005年8月リリースのデビューシングル「アムリタ」にて本格的な音楽活動を開始する。
マキノ光雄 まきの・みつお (1909年(明治42年)11月15日~1957年(昭和32年)12月9日)は、日本の映画プロデューサー。本名・多田光次郎。日本映画の父である牧野省三の第六子(次男)。
京都府西陣に生まれる。多田姓は母方の姓である。子供の頃から父の映画に子役として出演して映画業界の息吹の中で成長する。1921年(大正10年)に同志社中学に入学するとラグビーに熱中する傍らキリスト教に入信。一方で、放蕩を尽くし中学卒業前日に退学させられる。1927年(昭和2年)に勉強の名目で東京へ出るが都内の映画館にかかるマキノ映画の歩合金を横取りして飲み遊ぶ。厳格だが愛情深い省三はこれを怒らずに京都に戻った光雄を御室撮影所に毎日連れていった。
マキノ 雅弘(まきの まさひろ、1908年2月29日 - 1993年10月29日)は日本を代表する映画監督。京都府出身。本名は牧野正唯(まきの まさちか)。父は「日本映画の父」牧野省三(「マキノ省三」とも書く)。
もともとは父が所長を務めていた日活で子役として働いていたが、父に反発して京都第一商業に進学。しばらくは一商のラグビー選手として活躍した。ところが、17歳の時、赤痢にかかり、病床に伏す。それを転機に高校を退学し、父が社長を務めるマキノ東亜で今度は助監督として狩り出されるようになる。そして、18歳の時富沢進郎の名前を借りて、「青い眼の人形」で監督デビューを果たす。以後、山上伊太郎の脚本による「浪人街 第一話・美しき獲物」は1928年のキネマ旬報ベスト10第1位に輝き、「崇禅寺馬場」が4位、「蹴合鶏」が7位を占めた。翌1929年には「首の座」で2年連続第1位、「浪人街 第三話・憑かれた人々」も3位に入選した。ところが、彼の監督した作品は評論家や左翼青年には高い評価を得たものの興行的には惨敗で、父は37万円の多額の負債を負ったまま死去してしまった。
津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年1月2日 - )は、グランパパプロダクションに所属し、同社の代表取締役を務める俳優である。京都市中京区出身。血液型O型。本名は加藤 雅彦(かとう まさひこ)。京都の洛星中学・高等学校 洛星中学校、早稲田大学高等学院中退。明治大学付属中野中学校・高等学校 明治大学中野高等学校、文化学院短期大学卒業。監督名・マキノ雅彦として「寝ずの番」で映画監督デビュー。
芸能一家に生まれた日本を代表するベテラン俳優の一人で、数多くの映画、テレビに出演。16歳で映画「狂った果実 」(1956年)でデビュー(それ以前に5歳の時に映画に出演した経験はある)、美少年俳優として絶大な人気を誇った。その後、伸び悩んだ時期もあったが、中年以降は映画「マノン」(1981年)などのニヒルな悪役として注目され、老年に入ると円熟味のある存在感で幅広い役柄をこなしている。90年代以降は、松下電器産業 パナソニックの大画面テレビ「VIERA#画王 画王」のCM出演が話題を集めた。
牧野 伸顕(まきの のぶあき、牧野 伸顯、文久元年10月22日_(旧暦) 10月22日(1861年11月24日) - 1949年1月25日)は明治から戦中にかけての政治家。位階勲等は従一位勲一等伯爵。幼名は伸熊。名は一にシンケンとも通称する。
文久元年10月22日(1861年11月24日)、鹿児島城下加治屋町に薩摩藩士 大久保利通 満壽子の二男として生れた。生後間もなく遠い親戚の牧野家に養子入りする。
1871年、11歳にして父とともに岩倉遣欧使節団に加わり渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、大学(後の東京帝国大学)に入学する。1880年、大学を中退して外務省入省。ロンドン大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあう。
牧野隆守(まきのたかもり、1926年1月14日 - )は日本の政治家。元衆議院議員。福井県出身。
東京大学法学部卒業後、旧通商産業省に入る。
昭和54年(1979年)の第35回衆議院議員総選挙で初当選し、衆議院議員を6期務める。戦跡は6勝3敗。
宇野内閣で内閣官房副長官、小渕内閣第2次改造内閣・第1次森内閣で労働大臣を歴任するが、地盤を山本拓 (政治家) 山本拓に侵食されたため、平成15年(2003年)に政界引退に追い込まれた。
日本の国会議員 まきのたかもり
日本の閣僚経験者 まきのたかもり
1926年生 まきのたかもり