錦織育子(にしこおり いくこ 1980年1月5日-)は、日本の陸上競技選手。専門は棒高跳び。日本記録・室内日本記録保持者である。2005年アジア選手権・東アジア大会日本代表。三慶サービス所属。早稲田大学競走部アシスタントコーチも務める
島根県平田市出身。土江良吉主宰の陸上競技教室で才能を見出される。島根県立平田高等学校から早稲田大学に進学。大学卒業後、就職に失敗。フリーターの傍ら競技を続ける
2004年、三慶サービスに入社
2005年、アジア選手権で4m00をクリアし5位入賞を果たす。東アジア大会では、4m30の好記録をマークして銅メダル獲得の快挙を成し遂げた
2006年、日本記録・室内日本新記録を樹立した
錦織 淳(にしこおり あつし、1945年7月30日-)は日本の弁護士・政治家(元衆議院議員)。島根県出雲市(旧平田市)出身。
東京大学法学部卒業後、27歳で弁護士となる。その後、日本弁護士連合会常務理事などを歴任する。その間に水俣病などの公害訴訟などを手がける。1993年、第40回衆議院議員総選挙に無所属で島根全県区から出馬する。島根は故郷であるとともに政財官の癒着の中で大きな政治力を発揮した元首相竹下登の選挙区でもあった。途中で新党さきがけの公認を得て当選を果たす。さきがけで田中秀征と出会い、その影響を強く受ける。翌年村山内閣が成立すると、文字通りの1年生議員ながら首相補佐に任じられる。村山内閣が水俣病問題に取り組んだのは錦織の影響によるところが大きい。後に中海干拓計画の中止問題に尽力した。また、住宅金融債権管理機構の社長に中坊公平を推挙したのは錦織であると言われている。
西久保 瑞穂(にしくぼ みずほ、本名:西久保 利彦(にしくぼ としひこ)、1953年1月15日 - )は、男性アニメーション作家、監督。押井守の下で演出を担当する際には本名の「西久保利彦」名義を用いる。山口 直樹の名義を用いたこともある。
早稲田大学在学中の1975年11月6日にプロデューサーを志望し、研修生としてタツノコプロへ入社。同期の押井守、真下耕一、うえだひでひとらと「タツノコ四天王」と呼ばれた。1979年に退社。テレビアニメ『ベルサイユのばら』『あしたのジョー あしたのジョー2』などマッドハウスや東京ムービーでの仕事で出崎統に師事した。
1983年にタツノコプロ出身の宮田知行がプロデューサーを務めたテレビアニメ『みゆき』で初のシリーズ監督に抜擢される。以後、キティフィルム三鷹スタジオでは宮田がプロデュースしたオリジナルビデオアニメ『街角のメルヘン』『軽井沢シンドローム』などの監督を歴任。青春ものを得意とした。宮田がキティフィルムから独立して、J.C.STAFFを設立するのと同じ頃、西久保は古巣のタツノコプロでテレビアニメ『赤い光弾ジリオン』を監督。かつての同僚、押井守とうえだひでひとらが手伝ってくれ、アニメファンにも高い支持を得る。そして、この作品の中心スタッフだった石川光久と後藤隆幸がI.G.タツノコを設立。後に西久保がProduction I.Gを活動の拠点する契機となる作品だった。
西久保 愼一(にしくぼ しんいち、1955年7月 - )は、大阪府泉佐野市生まれの日本の男性実業家である。神戸大学工学部卒業。
経営者としての手腕とともに自身が高いソフトウェア技術を持っており、その点でIT業界の他の「買収屋」とは違うとして固定ファンがかなりいる模様である。ただ技術系出身者にえてしてありがちな独善性に反発する人も多い。
1978年3月 神戸大学工学部化学工学科卒業。
1978年4月 大同塗料入社。
1981年10月 ベンチャー企業のソード電算機に入社。
1985年2月 システム工学社設立。
1990年9月 シーネット設立。
1993年 明治乳業よりマスターネットを買収。
2000年10月 サイバーズ株式会社代表取締役就任。
西口 文也(にしぐち ふみや、1972年9月26日 - )は、和歌山県出身の西武ライオンズ所属のプロ野球選手(投手)で、背番号は13番である。愛称は新人時代に山梨学院大学の駅伝選手ジョセフ・オツオリに似ていると先輩から言われたのがきっかけで名づけられた「オツ」である。
和歌山県立和歌山商業高等学校 高校時代は内野手兼投手だったが立正大学時代に投手として活躍し、一部リーグ昇格の原動力となる。プロ入り1年目に米独立リーグに野球留学しスライダー(西口本人は学生時代から投げていたと言っている)、チェンジアップを会得、日本へ呼び戻され、後半戦から安定したピッチングを見せた。2年目の1996年から2002年にかけて98勝を挙げ7年連続で2桁勝利を果たし、西武のエースとしてチームを支える。また、この間に7年連続防御率10傑入りも果たしているが、この記録を他に達成したのは金田正一・別所毅彦・江夏豊・小山正明・稲尾和久・山田久志・星野伸之という歴代の大投手7人のみである。
錦野 旦(にしきの あきら、本名:錦野 明(にしきの あきら)、1948年12月14日 - )は韓国系日本人の歌手。大分県大分市出身。旧称:にしきのあきら。父親が日本人。70年代初めに歌手として大人気であり、芸能人スポーツ大会では野村将希 野村真樹(現・野村将希)と共に抜群の運動神経を見せつけていた。70年代後半は東映映画やドラマ等で絶世の美男ぶりが見られる。90年代以降はバラエティ番組で知られ、特に「ぷっ」すまでは、常人には全く食べられないハチャメチャな料理をいとも簡単に平らげてしまう事から「鉄の胃袋の持ち主」の異名を得ている。書籍「コリアン世界の旅」にて、元在日韓国人であり現在は帰化済みであることをカミングアウトしている。
錦戸 亮(にしきど りょう、1984年11月3日 -O型 )は、日本の男性タレント 男性アイドル、俳優、歌手。NEWS_(ジャニーズ) NEWS、関ジャニ8 関ジャニ∞両方のグループのメンバーである。兵庫県尼崎市で生まれ、直後に大阪府へ。ジャニーズ事務所所属。身長170cm。体重56kg。
2000年 「Secret Agent」としてソロCD発売。
2003年 NEWS (ジャニーズ) NEWSとしてデビュー。
2004年 関ジャニ∞としてもデビュー。
2006年 ソロコンサート。
∞カラーは黄色。
右利き。基本は右だが右手を2回骨折した為に左手も使えるようになった。
恥ずかしがり屋で人見知りが激しい。毒舌として知られるが、基本的に素直になれない照れ隠しである。
錦織 健(にしきおり けん、1960年1月23日 - )は、日本でもっとも知名度の高い声楽 声楽家の一人。島根県出雲市出身。血液型はB型。
国立音楽大学声楽科を卒業。文化庁オペラ研修所修了。オペラや演奏会 コンサートで活躍している。その実績が認められて、第17回ジロー・オペラ新人賞、第4回グローバル東敦子賞、第1回五島記念文化賞新人賞、第6回モービル音楽賞洋楽部門奨励賞など数々の賞を受賞。2000年、2003年にはNHK紅白歌合戦に出場、そのほかテレビやコマーシャル CM、ラジオにも積極的に出演し、その活動はオペラ歌手だけにとどまらない。二期会会員。
声楽家 にしきおりけん
1960年生 にしきおりけん
錦織 一清(にしきおり かずきよ、1965年5月22日 - )は、ジャニーズ事務所所属の三人組グループ・少年隊のメンバー。愛称はニッキ。
東京都江戸川区出身。東京都立南葛飾高等学校に入学するも、明治大学付属中野中学校・高等学校 明治大学付属中野高校に転入、中退。O型。
少年隊では最年長である。また、よく笑いをとったりもしている。
笑いの才能に関してはジャニーズ事務所のタレントのなかでNo.1と言っても過言ではない。頭の回転の速さで次々とボケをかます。ジョーク、下ネタ、駄洒落などお手のもの。そういうボケをかましてテレビ番組などで周りを笑わせる姿はただのアイドルとは思えないほどの衝撃があった。
西木 正明(にしき まさあき、1940年5月25日 - )は、日本の作家。
本名は鈴木 正昭。秋田県仙北郡西木村(現・仙北市)生まれ。
秋田県立秋田高等学校卒業。早稲田大学教育学部社会科を中退後、マガジンハウス 平凡出版に入社し「平凡パンチ」「週刊平凡」「ポパイ」等の編集に携わる。
1980年に独立し、デビュー作『オホーツク諜報船』で日本ノンフィクション賞新人賞、1988年に『凍れる瞳』『端島の女』で第99回直木賞を受賞。
以降、綿密な取材に基づくドキュメンタリーライクな作品を数多く発表する。妻は女優の桑原幸子。
1980年 日本ノンフィクション賞新人賞『オホーツク諜報船』
1988年 第99回直木賞『凍れる瞳』『端島の女』
西川りゅうじん(にしかわ- 1960年10月20日-)は、日本のマーケティングコンサルタント。兵庫県神戸市出身。
一橋大学卒で、母校の非常勤講師も勤める他、マーケティングコンサルタントとして施設プロデュースや業態開発、商品開発、イベント、街おこしや遊休地活性化などの企画プロデュースを行う。
最もメディアに露出したバブル期前後のころは、恋愛や購買、若者風俗の現象を分析して『アッシー』、『メッシー』、『コヤジ』などの大流行語を造語し、そうして名づけた現象を逆に世間に広めたことでも知られ、流行の分析のみならず流行を作り出すトレンドメーカーとして広告代理店、マスコミや企業からの信頼も厚かった。その後は、現在まで主に各省庁の諮問委員会などの委員として重用されている。
西川 善文(にしかわ よしふみ、1938年-)は、日本郵政株式会社代表取締役社長。三井住友銀行特別顧問。元全国銀行協会会長。奈良県出身。
奈良県立畝傍高等学校を経て、1961年大阪大学法学部卒業。住友銀行に入行。1986年に取締役、1997年に頭取に就任。2001年にはさくら銀行を合併して誕生した三井住友銀行の頭取に就任。2002年には三井住友フィナンシャルグループ代表取締役社長を兼任。2005年6月に退任し、三井住友銀行特別顧問に就任。
2000年度と2004年度の全銀協会長も務めた。2度全銀協会長を務めたのは初のケースである。
2004年7月30日にはUFJホールディングスに対して経営統合を申し入れる。株式の統合比率で1対1を提示するが結局、三菱東京フィナンシャル・グループとのあいだの争奪戦に競り負けた。