西川 一誠(にしかわ かずみ(いっせい)、男性、1945年1月2日 - )は、現在の福井県知事である。福井県丹生郡朝日町_(福井県) 朝日町(現越前町)出身。
京都大学法学部卒業の1968年に自治省入省。途中香川県、茨城県に出向し、省内の最終職歴は国土庁長官官房審議官。その後1995年から2002年まで福井県副知事を務めた。2003年3月、マニフェストを掲げ福井県知事選挙(統一地方選挙)に初当選し翌月就任、現在1期目。
ちなみに、お隣・石川県の谷本正憲知事とは京都大法学部の同窓生で、自治省の同期でもある。
本名は「かずみ」であるが、2003年の選挙で立候補する際に有権者に分かりやすくすることから「いっせい」という通称名を用いるようになった。
西角 友宏(にしかど ともひろ)は、日本のゲーム開発者。
タイトーより発売され日本中で大ブームを起こしたスペースインベーダーの生みの親として知られる。
東京電機大学卒業。
スペースインベーダーの開発中、ドットを打ちやすくするために世界初となるタッチパネル技術を開発したが、彼は世の中の役に立てて欲しいと、特に権利を申請することがなかった。
スペースインベーダーは当初人を撃つゲームだった。ベトナム戦争に配慮してインベーダーに変えた。
ゲームクリエイター にしかと ともひろ
タイトー にしかと ともひろ
Toshihiro_Nishikado
西方 仁也(にしかた じんや、1968年12月4日 - )は雪印乳業に所属していたスキージャンプ選手。兄西方俊也もスキージャンプ選手として活躍した。
世界選手権(1993年、ファルン)
個人ラージヒル58位
オリンピック(1994年、リレハンメル)
個人ノーマルヒル 8位
個人ラージヒル 8位
団体ラージヒル 2位
世界選手権(1995年、サンダーベイ)
個人ノーマルヒル 7位
個人ラージヒル 24位
団体ラージヒル 3位
日本のスキー選手 にしかた しんや
日本のオリンピック選手 にしかた しんや
1968年生 にしかた しんや
Jinya Nishikata
西垣通(にしがき とおる 1948年12月12日 - )は情報工学者、作家。
俳人で明治大学教授の西垣脩(にしがき しゅう)の長男として東京都に生まれる。東京少年少女合唱隊に所属し、NHKのみんなのうたで歌ったことがある。世田谷区立松沢小学校から同松沢中学校を経て東京都立西高等学校に進み、1968年に東京大学理科1類入学。1972年に東京大学工学部計数工学科を卒業(卒業論文のテーマはファジー代数の応用)。1972年、エンジニアとして日立製作所に入社。このときオペレーティングシステム OSやネットワーク、データベースなどの性能設計や信頼性設計を研究し、客員研究員としてスタンフォード大学に留学。1982年、東京大学で工学博士号を取得。
西垣 脩(にしがき しゅう 1919年5月19日 - 1978年8月1日)は俳人、国文学者。
大阪市東区 (大阪市) 東区住吉町に生まれる。帝塚山学院小から大阪府立旧制住吉中(現在の大阪府立住吉高等学校)に進み、教諭の一人伊東静雄の薫陶を受ける。1937年、旧制松山高等学校(現在の愛媛大学)に入学。このとき、教授の一人川本臥風の指導を受け、松山高校俳句会で活躍。1940年に松山高校を卒業して東京帝国大学文学部国文科に入学。1942年、大学を繰上卒業して出征するも、病気入院中に所属部隊がサイパンで玉砕し、九死に一生を得る。復員後、帝塚山学院女学部教諭、東京都立武蔵丘高等学校教諭を経て、1954年に明治大学助教授。1957年、俳句雑誌「皿」を創刊。H氏賞選考委員も務めた。1960年から明治大学教授。1978年に心筋梗塞で死去。享年59。
西岡 良洋(にしおか よしひろ、1961年6月28日 - )は、西武ライオンズ、読売ジャイアンツ、千葉ロッテマリーンズに所属したプロ野球選手。ポジションは外野手。1995年限りで現役引退後、ロッテ・西武・巨人・横浜ベイスターズ 横浜のコーチを経て、巨人の守備走塁コーチである。
好守の外野手であり、また、打撃では長打力もあり、特に相手が左投手の場面で無類の強さを発揮し“左殺しの西岡”と呼ばれた。1986年にはゴールデングラブ賞を獲得している。1988年にはアキレス腱断裂の重傷を負うが翌1989年復帰、このオフに鹿取義隆選手との交換トレードで巨人に移籍した。巨人でも相手先発投手が左投手と予想されるときはスターティングメンバー スタメン出場するなど活躍。代打出場でも結果を残した。
西岡 徳馬(にしおか とくま、1946年10月5日-)は、日本の俳優。神奈川県出身。本名は旧芸名と同じ『西岡 徳美(にしおか のりよし)』だが『徳』の字が旧字体。二人兄弟の長男で、幼少期には子役として活躍していた。
法政大学第二高等学校、玉川大学文学部芸術学科卒業。大学卒業後の1970年に文学座に入団。退団後はテレビ・映画での活躍を主体とし、「極道の妻たち」シリーズや初期のギャング映画などでヤクザの幹部を多く演じたことから、コワモテ役の印象を与えている。1997年にはVシネマ「内閣特務捜査官 ORDER」で製作総指揮・企画・主演の一人三役を務める。続編では監督もこなした。
西岡 剛(にしおか つよし、1984年7月27日 - )は、大阪府大東市生まれ、奈良県奈良市育ちのプロ野球選手。千葉ロッテマリーンズ所属。ポジションは内野手(遊撃手、二塁手)。右投げ両打ち。背番号は7。
高校時代は主に二塁手だったがプロ入り後は遊撃手もこなすようになる。出身校である大阪桐蔭には「西岡2世」と呼ばれる謝敷正吾がいる。
座右の銘は「先憂後楽」(せんゆうこうらく)。
平城東中学校時代に「郡山シニア」で全国大会出場。
2002年 大阪桐蔭中学校・高等学校 大阪桐蔭高校の3年生主将・4番打者として全国高校野球選手権大会 夏の甲子園出場。しかし初戦の東邦高等学校 東邦高校に敗退。高校通算42本塁打。ドラフト会議 ドラフト1巡目で千葉ロッテに1位指名され、入団。同期には浅間敬太、金澤岳、早坂圭介ら。
西岡 常一(にしおかつねかず1908年(明治3年)9月4日-1995年(平成7年)4月11日)宮大工。奈良県生まれ。法隆寺金堂の復元や法輪寺三重塔、薬師寺金堂、同西塔などの再建を棟梁てして手掛ける。文化財保存技術者、文化功労者、斑鳩町名誉町民。
法隆寺解体修理。
法輪寺三重塔を再建。
薬師寺金堂、西塔などを再建。
法隆寺を支えた木(共著・小原二郎、尾崎謙)
木に学べ
宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み
大工 にしおかつねかす
西岡 力(にしおか つとむ、1956年- )は日本の現代朝鮮研究者。
東京都生まれ。1980年国際基督教大学教養学部卒。1983年筑波大学院地域研究科修士課程修了。延世大学校国際学科に留学。
駐韓日本大使館(専門調査員、1982年 - 1984年)、現代コリア研究所(所長・佐藤勝巳)主任研究員(1984年 - 1991年)、東京基督教大学(しばしば“国際基督教大学”の誤記あり)神学部専任講師(1991年 - 1995年)、同助教授(1996年 - 1999年)を経て、2000年より同学部国際キリスト教学科教授。
現代コリア研究所の発行誌『現代コリア』の編集長を2002年まで務める。また、1997年3月の「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」、1998年4月「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」の設立に関与し、現在「救う会」の常任副代表を務め、その支部の一つである「北朝鮮に拉致された日本人を救出する東京の会(救う会東京)」の会長も兼任している。
西岡 たかし(にしおか たかし、本名: 西岡 隆、1944年5月27日 - )は、大阪府出身のフォークシンガー。
1967年にフォークグループ五つの赤い風船を結成しリーダー役を務める。グループ活動と並行して、ソロ活動や多数のセッションにも参加。1972年にグループは解散。その後はソロ活動の他、作曲やプロデュース活動も始める。近年、グループとしての活動も再開した。
五つの赤い風船には、中川イサト、藤原秀子、有山淳司、長野たかし 長野隆、東祥高、金森幸介、永井洋、青木まり子、竹田裕美子らが歴代のメンバーとしている。
「満員の木」(1973年2月 URC)
「哀しい歌」(1975年1月 ビクター音産)
西大立目 永(にしおおたちめ ひさし、1936年7月10日 - 2002年12月16日)は、東京都武蔵野市出身の元アマチュア野球審判員であり、元早稲田大学名誉教授。現役選手時代は一塁手兼投手。
1966年に早稲田大学硬式野球部OB会・稲門クラブの推薦を受け、東京六大学野球審判委員に就任、翌1967年には社会人野球協会(現 日本野球連盟 (社会人野球) 日本野球連盟)全国大会審判委員、1968年夏には日本高等学校野球連盟全国大会審判委員に就任した。
1986年、50歳で惜しまれながら引退し後進の指導に専念。日本アマチュア野球規則委員会委員長、日本野球規則委員会委員長、全日本野球会議審判技術委員会委員長などを歴任したが、2002年12月16日、胃癌の為逝去。享年66。