中村 桂子(なかむら けいこ、1936年-)は、東京都出身の理学博士。
1959年、東京大学理学部化学科卒業。
1964年、東京大学大学院生物化学修了。国立予防衛生研究所勤務。
1971年、三菱化成生命科学研究所社会生命科学研究室長。
1981年、同人間自然研究部長。
1989年、早稲田大学人間科学部教授。
1993年、生命誌研究館副館長。
1995年、東京大学先端科学技術研究センター客員教授。
1996年、大阪大学連携大学院教授。
2002年、生命誌研究館館長。
その他には関西電力監査役も務めている。
『女性科学者ノート――めぐりあい』(人文書院, 1982年/改題『生命科学者ノート』岩波書店[岩波現代文庫], 2000年)
中村 正直(なかむら まさなお、天保3年5月26日 (旧暦) 5月26日(1832年6月24日) - 明治24年(1891年)6月7日)は、明治時代の啓蒙思想家、明治の明治六大教育家 六大教育家の一人。幼名を訓太郎。通称を敬輔。号は敬宇。
江戸で幕臣の家に生まれる。昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を,桂川甫周に蘭学を,箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英。帰国後は静岡学問所の教授となる。この教授時代に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志編』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、福沢諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなる。ジョン・スチュアート・ミルの『On Liberty』を訳した『自由之理』(現在では同書を『自由論』と称するのが一般的)は、「最大多数の最大幸福」という功利主義思想を主張し、個人の人格の尊厳や個性と自由の重要性を強調した。
中村草田男(なかむら くさたお、明治34年(1901年)7月24日 - 昭和58年(1983年)8月5日)は、俳人。本名・清一郎(せいいちろう)。
清国(現・中国)福建省廈門にて清国領事・修の長男として生まれる。明治37年(1904年)4歳の時、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町 (愛媛県) 松前町に帰国。2年後松山市に転居。小学校時代の大半を東京市 東京で過ごし、港区立青南小学校に通学する。
萬屋錦之介(よろずや・きんのすけ, 1932年11月20日 - 1997年3月10日)は、日本の俳優。戦後の日本映画界の全盛期を支えた銀幕の大スターである。本名は小川錦一(おがわ・きんいち)。
歌舞伎俳優出身。若い頃の芸名は中村錦之助(なかむら・きんのすけ)といい、新しい芸名の「萬屋」は1971年に制定した小川家の屋号から採った。父は三世中村時蔵であり、俳優の中村賀津雄(現・中村嘉葎雄)は弟、同じく俳優の中村獅童 (2代目)は甥にあたる。
初名は中村錦之助。吉右衛門劇団立女形を父に持つ歌舞伎役者の御曹司なので、むろん歌舞伎に出演していた。美空ひばり親子から映画にスカウトされた。父からは「中途半端はいけない。映画に行くなら歌舞伎を辞めて行きなさい」と諭され、歌舞伎を断念。梨園に見切りをつけた(これは正解で、そもそも四男であったため、将来にわたり主役になれないことが初めからほぼ確定していた。さらに、その後、父自身も立女形の座を一族外のものに取られてしまい、居場所を失い劇団を辞めている。三世時蔵の子息で歌舞伎に残った者(錦之介の兄たち)はその後いずれも大変な苦労をした)。
中村吉右衛門(なかむら きちえもん)は、歌舞伎役者の名跡の一つ。屋号は播磨屋。 当代は2代目。定紋は揚羽蝶、村山片喰。
中村吉右衛門 (初代)
: 中村歌六 (3代目)の長男。弟に中村時蔵 (3代目)、中村勘三郎 (17代目)、娘婿に松本幸四郎 (8代目)がいる。
中村吉右衛門 (2代目)(1944-)
: 初代の孫で養子となる。早稲田大学卒業。1948年中村萬之助として初舞台を踏む。1966年中村吉右衛門を襲名。松本幸四郎 (8代目)の次男。実兄は松本幸四郎 (9代目)、甥に市川染五郎 (7代目)、姪に松たか子がいる。
歌舞伎役者 なかむらきちえもん
名跡 なかむらきちえもん
中村 勘太郎(なかむら かんたろう)は、歌舞伎役者。屋号は中村家。定紋は角切銀杏。
中村勘太郎 (初代) - 初代中村勘九郎の長男。
中村勘太郎 (2代目) - 中村勘三郎_(18代目) 18代目中村勘三郎の長男。
歌舞伎役者 なかむら かんたろう
中村 鴈治郎(なかむら がんじろう)は、歌舞伎役者の名跡の一つ。屋号は成駒屋。定紋はイ菱。
中村鴈治郎 (初代)(1860-1935) - 中村翫雀(3代目)の子。
中村鴈治郎 (2代目)(1902-1983) - 初代の次男。中村扇雀(初代)、中村翫雀(4代目)に同じ。
中村鴈治郎 (3代目)(1931- ) - 本名は林宏太郎。2代目の長男。現在は坂田藤十郎 (4代目)。
:( 中村鴈治郎 (4代目)) -本名は林智太郎。3代目の長男中村翫雀 (5代目)(1959- )が襲名予定。
歌舞伎役者 なかむら かんしろう
名跡 なかむら かんしろう
中村 翫雀(なかむら かんじゃく)は歌舞伎の名跡の一。現在でも上方系と認識されている名跡であり、四代目中村歌右衛門の系統から中村鴈治郎家に伝えられて現在に至る。屋号成駒屋。
鴈治郎との関係から「がんじゃく」と読む人もいるが、本来はにごらない。
初 代中村翫雀 中村歌右衛門 (4代目)の俳名。
二代目中村翫雀
三代目中村翫雀 中村芝翫(4代目)の弟分となって名跡を継ぐ。中村鴈治郎 (初代)の父。中村翫雀(3代目)の項参照。
四代目中村翫雀 3代目の孫。後の中村鴈治郎 (2代目)。
五代目中村翫雀 4代目の孫、坂田藤十郎 (4代目)の子。中村翫雀(5代目)の項参照。
歌舞伎役者 なかむら かんしやく
中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎江戸三座の一、中村座の座元名跡。後役者に転じ、現在では歌舞伎役者の名跡。当代は18代目。屋号はかつては舞鶴屋などだったが、十七代目以降は中村屋。定紋は角切銀杏。現在用いられている名跡のうちでもっとも代数が多い。
中村勘三郎 (初代)
中村勘三郎 (2代目) - 初代の二男。
中村勘三郎 (3代目) - 初代の三男。
中村勘三郎 (4代目) - 3代目の養子。
中村勘三郎 (5代目) - 3代目の子。
中村勘三郎 (6代目) - 初代の孫。
中村勘三郎 (7代目) - 6代目の長男。
中村勘三郎 (8代目) - 6代目の二男。
中村勘三郎 (9代目) - 8代目の養子。
中村勘三郎 (10代目) - 8代目の娘婿。
中村 勘九郎(なかむら かんくろう)は、歌舞伎役者。屋号は中村家。定紋は角切銀杏、舞鶴。
中村勘九郎 (初代) - 中村勘三郎 (初代)の長男。
中村勘九郎 (2代目)
中村勘九郎 (3代目)
中村勘九郎 (4代目)
中村勘三郎 (18代目) 中村勘九郎 (5代目) - 中村勘三郎 (17代目)の長男。今の中村勘三郎。
歌舞伎役者 なかむら かんくろう
中村 歌六(なかむら かろく)は、歌舞伎役者。屋号は萬屋。 当代は5代目。定紋は桐蝶、つるかたばみ、歌六梅。
中村歌六 (初代)
中村歌六 (2代目)
中村歌六 (3代目)
中村歌六 (4代目)
中村歌六 (5代目) - 4代目の長男。中村米吉 (4代目)に同じ。
歌舞伎役者 なかむら かろく
中村 勝広(なかむら かつひろ、1949年6月6日 - )は、千葉県山武市(旧・山武郡成東町)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。右投げ右打ち。オリックス・バファローズのゼネラルマネージャー(常務取締役)を経て、2006年は監督を勤めた。
1989年12月4日に出身地の千葉県山武郡九十九里町より町民栄誉賞が贈られた(生まれは成東町だが育ちは九十九里町)。これは1990年からの阪神タイガース監督就任を記念してのもので、九十九里町の町民栄誉賞第1号でもある。
成東高、早稲田大学 早大から1971年、阪神にドラフト会議 ドラフト2位で入団。早大では主将を務め、プロ入り当時から将来の阪神指導者を嘱望された。1年目から頭角を現し3年目の1974年には引退した安藤統男に替わる二塁手のポジションを獲得。以降1978年まで正二塁手の座に座り、堅実な守備で1970年代のチームを支えた。また、1978年に残したシーズン守備率.995は当時の日本記録。1981年からコーチ兼任。1982年限りで現役引退、コーチ退任。
中村 嘉葎雄(なかむらかつお、本名、小川賀津雄(おがわかつお)、1938年4月23日~)は、日本の俳優。旧芸名は、中村賀津雄。父は歌舞伎俳優三世中村時蔵。俳優の萬屋錦之介は、すぐ上の兄。他に中村歌昇(5代目)、中村時蔵 (4代目)、中村獅童 (初代)(中村獅童(2代目)の父)の兄達がいる。俳優の中村獅童 (2代目)は甥にあたる。
1938年4月23日東京市赤坂区(現・東京都港区_(東京都) 港区)南青山に歌舞伎俳優三世中村時蔵、ひな夫妻の五男(第九子)として生まれる。1943年9月東京歌舞伎座で「取替べい」で初舞台を踏む。高校2年生の時、兄の中村錦之助(後の萬屋錦之介)に続いて映画界に入る。松竹に入社し、中村賀津雄の芸名でデビューする。デビュー作は、「振袖剣法」(酒井辰雄監督)。松竹時代は、東映時代劇の看板スターとして華々しい活躍をした錦之介と比較すると、派手さを抑制した若々しさに満ちた感性を表現したと評される。