田原 俊彦(たはら としひこ、1961年2月28日-)は、日本の歌手、俳優。神奈川県横須賀市出身だが、小学校5年生の時に山梨県甲府市に移り、高校時代までそこで育った。かつてジャニーズ事務所に所属していた。愛称は「トシちゃん」。現在はJVCエンタテインメント・ネットワークス所属。血液型はB型。山梨県立甲府工業高等学校卒業。趣味は農業。
1979年に『3年B組金八先生』の生徒役でデビュー。同じく生徒役だった近藤真彦、野村義男とともに『たのきんトリオ』と言われる。但し、他の2人が「金八」出演時に実際に15歳だったのに対し、田原は18(放送中に誕生日を迎え19)歳と中学はおろか高校卒業の年齢だった。その為、年齢を1歳ごまかして出演していた。1980年にその先陣を切って『哀愁でいと』で歌手デビューし、1980年代のトップアイドルとして大活躍する。1982年のブロマイド年間売上実績の男性部門でトップに輝く。その後『教師びんびん物語』に主演するなど俳優としても活躍していた。
田原 総一朗(たはら そういちろう、1934年4月15日 - )は日本のジャーナリスト、政治評論家である。
滋賀県彦根市出身。近江商人の末裔。血液型はB型。滋賀県立彦根東高等学校を経て早稲田大学第二文学部を中退後、同大学文学部に再入学。早稲田大学文学部卒業。岩波映画製作所から東京12チャンネル(現:テレビ東京)を経て、フリーとなる。
東京12チャンネル勤務時代には『噂の真相』でコラムを連載していた。当時編集長だった岡留安則によると原稿を取りに行っても田原本人が不在だったことが多く、代わりに当時同局で深夜番組を担当していた小倉智昭が対応に当たっていたという。フリーになった後『文藝春秋 (雑誌) 文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げていくことになる。
田原 成貴(たばら せいき 1959年1月15日-)は日本中央競馬会の元騎手、元調教師である。島根県鹿足郡柿木村(現在の吉賀町)出身。競艇選手の西島義則とは、従兄弟の関係に当たる。
自身の回想によると、ハイセイコーが東京優駿 日本ダービーで敗れた事から騎手を志した、としている。1974年馬事公苑長期騎手課程第25期生として入苑。1978年3月4日谷八郎厩舎所属の騎手としてデビュー。テンシンニシキで初騎乗、初勝利を挙げる。この年28勝を挙げ新人賞を獲得、翌年は63勝を挙げて関西リーディングジョッキーとなる。現在のグレード制 GI競走に該当するレースの初勝利は、ダイゼンキングで制した1982年の阪神ジュベナイルフィリーズ 阪神3歳ステークス。
田原 晃司(たはら こうじ、1975年2月26日 - )は、西武ライオンズ所属の野球選手 プロ野球選手。ポジションは捕手。背番号は68番。地面スレスレまで腰を落として捕る独特の捕球体勢が特徴。長い間二軍生活だったが、伊東勤の引退後はその間の豊富な経験を生かしたリードが武器となり、若手で経験の浅い細川亨・野田浩輔らのサポート役として一軍での出番が多くなった。守備固めでの起用が多い。
2005年6月9日のインターリーグ セ・パ交流試合対東京ヤクルトスワローズ ヤクルト戦(西武ドーム インボイスSEIBUドーム)で13年目にしてプロ初本塁打を放った。そしてヒーローインタビューの選手として選ばれた。
田端 義夫 (たばた よしお、1919年1月1日 - ) は第二次世界大戦前から現役歌手として活躍し続けている日本の演歌歌手。愛称はバタヤン。水平に構えた年代物のエレキギターと威勢のよい挨拶がトレードマークである。
大正8年(1919年)三重県松阪市生まれ。3歳の時に父を亡くし、大正14年(1925年)に一家とともに大阪に出て行く。小学校3年の半ばで中退。赤貧のため、慢性的な栄養失調のためにトラコーマにかかり徐々に右目の視力を失う。名古屋の薬屋やパン屋、鉄工所などで丁稚奉公。その間に見たディック・ミネのギターを持ちながら歌うステージに感動し、自ら音の出ないギターを作っては河原で歌い、次第に流行歌の世界に傾倒していく。
田畑 光永(たばた みつなが、1935年8月29日 - )は、ジャーナリスト、元神奈川大学経営学部教授である。
東京都出身。東京都立日比谷高等学校、東京外国語大学中国語学科卒業後、1960年、東京放送に記者として入社。
『JNN報道特集』を経て、1984年10月から1988年9月まで『JNNニュースコープ』の司会を務めた。
後に同年10月からの1年間、『JNNニュースデスク”88 JNNニュースデスク”88→JNNニュースデスク”89』でコメンテーターを務めた。
この他TBS北京支局長などを歴任。法政大学客員教授などを経て、2006年まで神奈川大学経営学部の教授をつとめた。また『朝まで生テレビ』で討論者として主演した他、かつてはTBS系サンデーモーニングにコメンテーターとしても出演していた。
田畑 真紀(たばた まき、1974年11月9日 - )は日本のスピードスケート選手。北海道勇払郡むかわ町生まれ。駒澤大学附属苫小牧高等学校出身。富士急行 富士急→苫小牧スケート連盟→ダイチ所属。身長162cm。
短距離から長距離までこなすオールラウンダー。
冬季オリンピック 五輪出場3回(リレハンメルオリンピック 1994年、ソルトレークシティーオリンピック 2002年、トリノオリンピック 2006年)。
女子1500m・3000m・5000m・中総合得点・オールラウンド総合得点の現日本記録保持者。このうち1998年に記録した中総合(500m、1000m、1500m、3000m)得点162.731は、当時の世界記録だった。また富士急所属時代には、岡崎朋美らとともに2000mリレーでも日本新を樹立(現在も日本記録)した。
田畑 智子(たばた ともこ、1980年12月26日 - )は、京都市出身の日本の俳優 女優である。祇園の享保年間創業の老舗料亭鳥居本の娘として生まれる。
金光大阪高等学校卒業。
龍谷大学文学部哲学科中退。
ディズニーが大好き
高校時代は書道部
12歳の時、「カノックスフィルム」に所属し、1992年公開の映画『お引越し』の主演女優としてデビュー。新人賞を多数受賞した。監督の相米慎二に厳しく演技指導された。
1995年ごろから、久世光彦演出のドラマに毎年出演した。
2000年に、日本放送協会 NHKNHK朝の連続テレビ小説 連続テレビ小説『私の青空』で晴れてヒロインとなる。(2002年には月曜ドラマシリーズで連続テレビ小説作品史上初の続編となる『私の青空2002』放映)
田端 健児(たばた けんじ、1974年9月24日 - )は、日本の陸上競技選手。現在は長崎県立長崎工業高等学校保健体育科教諭。専門は400m。アトランタオリンピック・シドニーオリンピック日本代表。長崎県出身。日本大学卒業。愛称は「タバチン」「ミスター安定」。
俳優の中条静夫ににた好男子ぶりで若い女性に圧倒的な人気があった。現在は、ラップタイムの宮崎久に人気を奪われている格好である。砲丸投げ日本記録保持者の野口安忠、シドニーオリンピック代表の山村貴彦(サイボウズ)、アテネオリンピック棒高跳び8位入賞の澤野大地(ニシ・スポーツ)、砲丸投げ日本歴代二位の畑瀬聡(群馬綜合ガードシステム)らは大学の後輩に当たり、非常に親しい。
田能村竹田(たのむら ちくでん、安永6年6月10日 (旧暦) 6月10日(1777年7月14日) - 天保6年8月29日 (旧暦) 8月29日(1835年10月20日))は、江戸時代後期の南画(文人画)家。名は孝憲。字は君彜(くんい)。通称は竹蔵。別号は老画師・九畳・仙史など。
豊後国岡藩の藩医の家に生まれ、藩校の由学館で学び同校の儒員から頭取まで進んだ。また儒学を学ぶため熊本や京都に遊学もしている。この間「豊後国志」の編纂に携わり、また、地元の画家に画を学び、江戸の谷文晁に現在でいう通信教育まで受けている。1811年(文化 (元号) 文化8年)専売制度に反対して藩内に農民一揆が発生し、その際改革を要求する建言書を藩に2度提出したが受け入れられず、1812年(文化9年)辞表を提出した。それ以後豊後と京阪との間を行き来しながら、岡田半江・浦上春琴・頼山陽・菅茶山などの文人たちと交流を持ち、大阪の藩邸で亡くなった。
田上 秀則 (たのうえ ひでのり、1980年3月20日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手である。ポジションは捕手。背番号は70。ニックネームは「ボラ」。
九州共立大では山村路直・新垣渚らの球を受けてきた実績を持ち、大学2年時には明治神宮野球大会で優勝。
大学最後のシーズンではリーグ新となる9本塁打を打ち、大型捕手として期待され、ドラフト3巡目で中日に入団する。
2003年ウエスタン・リーグで本塁打王(13本)になるなど、長打力には定評がある。2004年には監督に就任したばかりの落合博満から「右の4番候補」として期待された。
しかし、2005年度は成績不振により戦力外通告。トライアウトを受け城島健司のフリーエージェント FA退団が決まったソフトバンクに移籍。大学時代に共にプレーした山村・新垣・馬原孝浩・高橋秀聡とチームメイトになった。
田之上 慶三郎(たのうえ けいさぶろう、 1971年9月17日 - )は、鹿児島県指宿市出身の福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)。背番号は64番。
指宿商から1989年のドラフト会議 ドラフト外でダイエーに入団。二軍生活が長かったが、1996年に一軍に昇格し、1997年にプロ8年目で初勝利。フジテレビジョン フジテレビの福井謙二アナウンサーがニュースで「石の上にも三年田の上にも八年と駄洒落を飛ばした」と言った後「受けずにもうしわけありません」と謝罪した。2000年はリーグ優勝を決めた試合で先発し無失点に押さえ勝利投手になるなど、優勝にも貢献。翌2001年に13勝7敗で最高勝率_(野球) 最高勝率のタイトルを獲得。2002年には開幕投手を務めた。